孤独な猫達8

 そこは、深い深い森の中だった。

 森とは言ったが、此処で森林浴をするのはオススメ出来ない。木々が鬱蒼と茂り、埋め尽くすように木の葉が空を覆い隠しているからだ。足元に下草が殆ど生えていないのも、木々の葉が降り注ぐ太陽光を吸い尽くしている証。木が密に生えているせいで風通しが悪く、ぬかるんだ地面から発せられる湿気が森の外へと逃げない。場に満ちるのはねっとりとした質感の空気だった。

 挙句今の時刻は夜遅く、天候はざぁざぁと音を立てるほどの大雨。星の光すらなく、今夜の森は輪郭すらも飲み込む暗闇に閉ざされていた。

 その暗闇の中から、地鳴りが聞こえてくる。

 地鳴りは一定の間隔で大地を揺らしながら、森の奥へと進んで行く。眠っていた鳥達が驚いて飛び立つも右往左往し、跳び起きた獣達は木々に頭をぶつけて目を回している。あまりにも暗過ぎて、野生の獣といえども昼に動くモノ達には何も見えないようだ。

 そんな混乱が広がる最中、地鳴りの発生源――――キャスパリーグが何事もなく歩けるのは、彼が夜行性の動物である猫だからだろう。

 傘どころか服一枚着ていない身体は雨でぐっしょりと濡れていたが、彼の歩みは弱るどころかむしろ心地良さそう。極限まで開いた縦割れの瞳孔は、微かな光を確実に取り込む。金属よりも重たい身体を支える足は、ぬかるんだ地面にズブズブ沈み、しかしお陰で滑ってしまう事もない。急斜面も物ともせず、登り、下り、登り、下り……

 茂みを掻き分けた瞬間、強烈な閃光がキャスパリーグの顔を照らした。

「っ! ……」

 キャスパリーグは両腕を眼前で交差させ、防御の体勢を取る。暗闇に適応した視覚は光を必要以上に感じ取ってしまい、沁みるような痛みすらも覚えてしまう。いくら肉体が強固でも神経の痛みは我慢出来ない。キャスパリーグはその場でじっと耐え続ける。

 とはいえ、明るければその明るさに適応しようとするのが生物の身体。光を浴び続けたキャスパリーグはやがて腕を下ろし、ゆっくりと閉じていた瞼を開ける。

 そして眼前にそびえる、巨大なコンクリートの壁を目の当たりにした。

「ようやく、この時が来たか」

 巨大な壁を目の当たりにし、キャスパリーグが漏らしたのは感慨深げな一言。

 壁の高さはざっと百メートル以上あるだろうか。キャスパリーグの立つ斜面と向かいにある斜面をつなぐほどに幅も広く、三百か四百メートルはある。その巨大な姿は城門さながら。壁の中央辺りには幾つか穴が開いているが、足場がないので出入り口ではないだろう。頂上部には数台の大きなライトが設置されており、壁の上から下までを明るく照らしていた。これなら夜間の作業も問題なく行える筈だ。壁自体の存在感もさる事ながら管理体制も万全な、奥にある物を守護する堅牢な防壁と言えよう。

 であるならば、この壁を壊した時に作り手――――人類は、どれほどの精神的衝撃と、損害を被るのか。

 想像したであろうキャスパリーグは、にたりと笑った。

 刹那、ズドンッ! と雷鳴が如く音を鳴らし、キャスパリーグは三百メートル以上離れていた壁の基礎部分までひとっ跳び。着地の衝撃は爆音と地震を生じるほどの大きさだったが、キャスパリーグからすれば大したものではない。平然と歩き出し、壁へと近付く。そして触れられる位置まで歩み寄ると壁に手を伸ばし、

「兄さんっ!」

 妨げるように、彼は

「……よく、俺が此処に来ると分かったな」

 キャスパリーグは構えていた拳を下ろすと、執着のない動きで自らの背後へと振り返る。

 そこに立つのが『人の姿』をした自分の妹だと分かっても彼は一切の動揺を見せず、彼の妹である猫少女も、自らの髪を掻き上げ、髪が含んだ雨水を絞るだけ。猫少女は『体毛』で隠れている胸と股以外の肌を露出し、全身を濡らす大雨の中で兄と向き合っていた。

「花中が、教えてくれたから」

「かなか? ……ああ、この前一緒に居た人間か。警告をしたのに逃げず、それどころか居場所まで当てられるか……あの場で始末出来なかったのが、まさかここまでの痛手になるとはな。全く、人間の中でも特に忌々しい」

「それだけ、生きるのに必死なんだよ」

 猫少女がそう言うと、キャスパリーグの身体がピクリと動く。

「ねぇ、もう止めようよ。こんな事したって、何も変わらない。それどころか、もっと酷い事になるかも知れない……だって、兄さんが」

「何故お前はそう平静でいられるッ!」

 妹の言葉を遮る怒号。

 猫少女は後退りするも、キャスパリーグの怒りは収まらない。眼は血走り、歯茎をむき出しにするほどに食い縛り、全身が今にも弾けそうなほど震える。

 最早嫌悪では済まない、敵を見つけ出したような殺意に彼は塗れていた。

「こんな事をしても変わらない? もっと酷い事になる? ああそうだな、確かにそうかも知れんな! 人間は俺達の事なんて玩具としか思っちゃいない! 玩具が何を言ったところで聞く訳がないし、言う事を聞かないと思ったらさっさと捨てようとするよなぁ!?」

「ち、ちが……そうじゃないの!」

「何が違う!? 飽きたから捨てる! 邪魔だから排除する! それが人間だ! お前の知り合った人間がお前を捨てないのは、単にお前に怯えているだけだ!」

「か、花中も加奈子も晴海も違う! だって、みんな……」

「そうだ、力があれば人間にも理解させられる。自分達が俺達に何をしてきたか、どんな方法でしか償えないかを分からせられる! いいや、分からせねばならない! 全てが自分達の思い通りになると考えているあの傲慢で醜く醜悪な生き物を、殺して、殺し尽くして、それで俺達がどれだけ……!」

 猫少女の話には耳も貸さず、キャスパリーグは憎悪の言葉を叫び続ける。叫ぶほどに……その姿が、歪んでいく。

 全身からベキベキと音が鳴る。瞼が裂けて内部の巨大な眼球を覗かせる。首は屈強な腕よりも太くなり、指がぶくぶくと膨れ上がり、足がひしゃげ――――

 しかし不意に、ギチギチと絞めつけるような音を鳴らしながら全体が萎み、キャスパリーグは元の体型へと戻った。

「……ふぅ。やれやれ、俺もまだ甘いな。あんな安い挑発に乗って平静を失うとは」

「挑発なんかじゃ……」

「魂胆は分かっている。俺を、この壁から遠ざけたかったのだろう?」

 コンコンと、ノックするようにキャスパリーグが壁を叩くと、猫少女は声を詰まらせた。キャスパリーグは鼻息を鳴らし、手の甲を壁に付けたまま猫少女と向き合う。

「俺の目的はコイツの破壊だ。それだけで麓の人間達が大勢死ぬ。お前は俺を此処から引き離さないと、そもそも勝負すら始められない訳だ。勝ち負け以前に、俺達の力がぶつかれば余波だけで十分にこの壁を傷付けられるだろうからな」

「……本当に、人間を殺すつもりなの?」

「くどい」

 躊躇のない拒絶。

 猫少女は血管が浮き出るほど拳を握り締めたが、やがて瞼を閉じるのと共に小さなため息を一つ。拳から力を抜き、静かに開く。

 唯一力を抜かなかったのは眼差し。鋭く、例え肉親だろうと傷付けそうなほどの鋭利さをむき出しにしたそれを、彼女は実の兄に向けた。

「なら……兄さんは、あたし達の敵だ」

 そして両腕を広げ獣の如く構えを見せる猫少女。

 彼女を前にしたキャスパリーグは、素早く拳を握り締めるや壁の方へと

 猫少女は目を見開き慌てて駆け出す。本来ならば、誰にも捉えきれない超速度のダッシュ。

 だが同種族の前では『平凡』な駆け足に過ぎず。

「ふんっ!」

 キャスパリーグは壁目掛け、躊躇なく拳を打ち込んだ!

 拳の振り方は小さく、小突くかのよう。だが、それで十分。周囲の雨粒が、地面に出来ていた水溜りが、圧倒的なエネルギーで浮き上がる。舞い上がった水滴は衝撃波に乗って吹き飛び、白濁としたドーム状の『色』が辺りに広がっていく。

 いや、水滴だけではない。殴り飛ばしたコンクリートすらも衝撃によって歪んでいた。

 頑強故に、コンクリートの柔軟性は乏しい。互いに支えあっていた数万トンのコンクリートは弾けるように四方八方へと崩れ落ち、破滅的な威力を伴って行く手にある全ての物を飲み込んでいく。こうなると素材が人工物というだけで土石崩れと変わらない。大地を抉り、木々をなぎ倒す。一瞬にして辺りは生命の息吹のが消え去った、地獄へと変貌してしまった。キャスパリーグと猫少女は素早く後退して巻き込まれなかったが、並みの生物であれば抗う事すら出来ずに飲み込まれ、すり潰されただろう。

「……ダメ、だった……」

 壊されてしまった壁を前にして、猫少女は愕然となる。

「な、にぃ……!?」

 しかし元凶であるキャスパリーグもまた、唖然としていた。

 確かに崩れ落ちたコンクリートの量は膨大であり、周囲の地形は圧倒的質量の濁流によって破壊された。恐るべき損害、人間側の被害は甚大だ。

 だが、その程度でしかない。

 被害は山の中に留まり、麓の町には欠片一つも届いていない。近くには人間の姿もなかったので、怪我人もいない。精々この壁の管理者が、人類の英知の喪失に頭を痛めるぐらいだ。先程まで見せていたキャスパリーグの殺意や、肉親の言葉すら通じない憎悪が求めるものとしては、あまりにもしょうもない。

 結果を目の当たりにし、キャスパリーグは茫然と立ち尽くす。顔から覇気は消え、ビー玉のように丸くした目玉で自らが作り上げたコンクリートの山を眺めるばかり。

「残念ねぇ。あと二時間早く行動を起こしていれば、そっちの勝ちだったのに」

 彼が我を取り戻したのは、艶やかながらも侮辱的な声が聞こえた後だった。ハッとしたキャスパリーグの顔はたちまち驚きと困惑、それらも上回るほどの憤怒に塗り変わる。

「何を……一体何をしたんだ、お前は!?」

 その怒りの顔と言葉を、彼が砕いたコンクリートの頂に立っていた、黒髪の喪服少女へと向けた。

 ざぁざぁと、雨は未だ強さを失わずに降り注いでいる。キャスパリーグも猫少女も全身がずぶ濡れとなっていたが、同じく雨をその身に浴びている黒髪の少女は湿り気すら帯びていない。代わりにシュゥゥと音を鳴らし、濛々と湯気を立ち昇らせている。

 尤もそれは不自然な姿ではなく、彼女……ミリオンからすれば、ごく普通の『雨対策』だったりするのだが。

 ミリオンは無感情な笑みを浮かべ、麓に居るキャスパリーグを見下ろす。キャスパリーグは歯噛みをしたが、それでもミリオンは態度を改めない。何の色もなく、ただただ笑顔に見える表情を浮かべるばかり。

「何がおかしい……!」

「別におかしい訳じゃないのだけどね。この表情は大切な人との約束で作ってるだけだし……まぁ、確かに滑稽だとは思うけど」

「滑稽だと!?」

「ええ。尤も、これをやったのは私じゃないし、考え付いたのもこの子なんだけどね」

 キャスパリーグが噛みついてきても何処吹く風、ミリオンは気にした様子もなくコンクリートの山の反対側、キャスパリーグからは見えない方へと手を伸ばし……一人の、制服姿の少女を引き上げる。

 引き上げられたのは、花中だった。

「貴様……!」

 キャスパリーグは殺意に滲んだ眼を向けてきたが、花中は一歩も引かず、その眼と向き合う。自分を一瞬でバラバラに出来る相手を前しているにも関わらず、そこに何時もの怯えた態度はない。

 あたかもそれは、お前など恐れていないと言わんばかり。キャスパリーグの神経を逆撫でするには十分な態度だった。

「お前達は一体何をしたんだ!? そこにあった筈の水は!?」

「……ここにあった、水は、全て、移動させました」

「移動、だと!? 馬鹿な、あり得ないっ!」

 花中の答えに、キャスパリーグはいよいよ動揺を隠せない。声を張り上げ、両腕を広げ、右往左往する感情のまま身体を落ち着きなく揺れ動かす。

 理解出来ない気持ちは、花中にもよく分かる。計画を考えたのは花中だったし、友達の力の強大さは分かっていたつもりだった。それでも正直、被害を軽減させるのが限度だと思っていた。『中身』を空にするなど、いくらなんでも無理だと考えていた。

「此処は『ダム』なんだぞ!」

 何しろキャスパリーグの言葉通り――――花中達が居るこの場所は、泥落山に建設されていたダムだったのだから。

 尤も、今では土が剥き出しとなった斜面と堆積した土砂だけが広がる、荒廃した谷間の様相を呈していたが。纏まった水は、幅一メートルにも満たない僅かな流れが数本ある程度だ。

 此処がほんの二時間ほど前まで『満水』状態だったと、一体誰が信じようか。

「確かに、ここは、ダムです。インターネットで、調べた、ところ、満水量は、一億トン。梅雨時で、連日の降雨があり、かつ今日の本降りで、満水状態だった、ようです。決壊すれば、甚大な被害が、出た、でしょう」

「っ!?」

 花中の語りを聞き、キャスパリーグが身体を強張らせる。咄嗟にわざとらしく口元を歪めて取り繕っていたが、表情には焦りが滲み出していた。

 即ち、花中の『考え』は正しかったという事。

 このダムの破壊こそが、キャスパリーグが計画していた復讐方法だったのだ。

 ――――初めて出会ったあの日に彼から提示された、三日という言葉の意味に囚われ過ぎていた。

 花中は最初、キャスパリーグが三日もの時間を掛け、復讐の準備をしているのだと思っていた。思っていた事がつい口から零れてしまったか、或いは惑わせるための虚言か。いずれにせよ何かしらの意図があると思っていた。だがなんて事はない……彼は単に、本当に三日目以降会えるかどうか分からなかっただけ。

 何しろその『三日』という言葉の根拠が、一昨日の天気予報なのだから。

 恐らくキャスパリーグは一度ダムを視察し、ほぼ満水になっているのを確認した。そして次の雨で再び満水になったダムを決壊させるつもりだったのだろう。一億トンもの水量が警報を出す暇もないほど唐突に、なんのコントロールもなく溢れ出すのだ。彼の目論見が成功していれば数万の人命が一夜にして失われる、史上最悪の水害となっ筈だ。

 それほど大規模かつ凄惨な計画でありながら、実行日時はお天道様のご機嫌次第とは。情報源は家電量販店に置いてあるテレビか、捨てられた新聞紙か。論理的思考を中心にしている花中にとって、そのような運任せで雑な発想は思考の範囲外。恐らく一人では思い付きもしなかったに違いない。

 どうにか気付けたのは、友達のお陰だ。加奈子と晴海が居なければ、どうにもならなかっただろう。加奈子がダムの見学に行くような物好きで、そこで見たダム穴や『山男っぽい大男』について話してくれなかったら、泥落山のダムとキャスパリーグが結びつかなかった。晴海が二日前の天気予報しか見ていなかったら、放課後に傘を持った花中に突撃してくる事も、二日前の天気予報を知る事も出来なかった。

 二人が居たから、花中はここまで考える事が出来た。今こうしてキャスパリーグと対峙出来ているのは、友達の輪が自分を導いてくれたからに他ならない。

 そして、無慈悲な暴力と立ち向かうための力も、ある。

「締め切りギリギリ、でしたけど、あなたの作戦は、読め、ました。そこで、このダムの水を、動かす事に、したのです」

「動かした……総重量、一億トンの水を、本当に……!?」

「はい。わたしの友達には、それが出来ます」

 背筋を伸ばし、凛とした態度で花中はキャスパリーグに告げる。コンクリートの山のてっぺんから、力の差を見せつけるように見下ろす。さながらそれは誇るように、お前など大したものではないと言わんばかりに。

 ……けれども花中の内心は、不協和音のように歪な高鳴り方をしていた。

 ダムの水を移動したのは事実。『彼女』がその能力を使い、見事一億トンもの水を移動させてみせた。それも準備時間を含めても三十分程度で。確かに今回は沸点を二十倍にしながら表面を通常の数百倍もの高密度状態にしつつ、常時表層に大量の水を流し続ける……という複雑な手間を掛けていない。とはいえ、まさか『あの時』の二百五十倍以上もの水を一気に操れるとは思いもしなかった。正に出鱈目な能力である。

 出来ればそれを誇示したい。あなたがどう足掻こうと、勝ち目なんてないのだと思い知らせたい。

 そうすれば、もしかしたらかも知れないから。

「で、でも、わたし達は、戦いになる事を、望んで、い、いません。ですから……どうしてあなたが、人間を憎んでいるのか、話してくれませんか? 話しても、何も変わらないかも、知れません、けど……でも、一緒に考えれば、もしかしたら良い案が、出るかも、知れません」

 そんな自らの希望を胸に、花中はキャスパリーグに話し合いを呼び掛ける。あくまでこちらは脅している側、自信は絶対に崩さず……話し合いたい、分かり合いたい……その気持ちを乗せる事は忘れずに。

 花中に呼び掛けられてすぐは、キャスパリーグの表情は苦々しく歪んでいた。それでも激昂したり感情のまま叫んだりしなかった辺りに彼の持つ聡明さが窺い知れる。苦悶や葛藤があるのは想定済み。花中は下手に煽らず、キャスパリーグの答えを待つ。

 しばしの間悔しそうにしていただけの彼だったが、不意に表情から力を抜いた。まるで、諦めたように。

「……状況は分かった。どうやら、俺の計画は頓挫したようだな」

 それからぼそりと呟いた言葉を聞いて、花中の顔に花が咲いた。

「! で、でしたら、あの、は、話を、してくれる、の、ですね!?」

 思わず身を乗り出し、花中はキャスパリーグの真意を確かめようとする。このまま穏健に事を運べれば、きっと……

 そう、期待していた。本心からそうなるのではと未来を信じた。

「ところで初めて会った時一緒に居た金髪の女の姿が見えないのだが、今は何処に居るのかな?」

 ――――この言葉を聞くまでは。

「……え、えっと……」

 思わず、花中は視線を逸らしてしまった。不味い、と気付くももう遅い。

 直後にキャスパリーグが口元を勝ち誇ったように吊り上がり、『作戦』の失敗が確定したのだから。

「あの金髪の女がダムの水を移動させたのだろう? 一昨日お前達の前から帰る時、糸のようなものを切ったが、アレはなんらかの液体で出来ていたようだった。恐らくアイツは、液体を操る能力を持っている……違うか?」

「う……そ、そうです。そうですけど、でも――――」

「成程、そのような能力があるのなら、ダムに貯まった水を移動させるのも可能に違いない。しかし一億トンの水を一気に川へと流せば、それは濁流となって川から溢れるだろう。かと言って今も雨が続く中で安全な放水量となれば、通常の放水と変わらない。それではダムの中には未だたっぷりと水が残っている筈だ。よって、水を川に流した訳ではない」

「そ、それが、なんだと、言うの、で、です、ですかっ!」

「強がるならせめて声の震えぐらい抑えたらどうだ? 水を移動させたとして、それは川には流せない。なら何処かに貯め込んでいる筈だ。例えば洞窟とか、地下水脈とかにな。問題は、そいつの能力の限界が何処にあるか、だ。いくら俺でも一億トンもの重量を易々とは動かせない。俺とあの女は別種の生物だろうから単純な比較は出来ないとしても、一億トンもの水を制御するとなれば、相当のエネルギーと精神を消耗する筈だ。相当無理をしているか、或いは何処かで『手抜き』をしなければ成り立たん。例えば、そいつは今動けないんじゃないか? 一億トンの水を何処かに移動させたのは良いが、水の制御をするためにその場から動けない。だから此処に来ていないんじゃないか?」

「ち、違います! ただ、その……あ、あの子は、ちょっと、人見知りで」

「違うと言うならそいつを此処に呼び出せ。それが出来るなら、とてもじゃないがこちらに勝ち目はない。望み通りお前と話をしようじゃないか」

「……っ」

 煽るように求めてきたキャスパリーグに対し、花中にはもう苦し紛れの反論すらも思い浮かばない。無言は肯定と化し、キャスパリーグの考えを支持してしまう。

「で、でも、ダムの水が、ない以上、あなたの復讐は……!」

 それでも最後まで希望を捨てず花中はキャスパリーグを止めようとし、

「ならば、プランBに移るまでだ」

 それすらも、あっさりと打ち破られてしまった。

 瞬間、巨大な爆音が花中の身体を殴り飛ばす!

 それは本当に物理的な衝撃を伴い、花中の身体を突き上げた。湿り気などお構いなしに粉塵が舞い上がり花中達を飲み込むが、目に入る砂など構っていられない。衝撃波でお腹を両手で押さえ、花中はその場で蹲ってしまう。

「げほっ!? けほっ、けほっ!」

「はなちゃん! 大丈夫!?」

 咳き込む花中に、すかさずミリオンが駆け寄ってくる。全身がざわりと揺らめいたのは、全身を構成する何百兆もの個体の一部を分離したからか。

「……臓器や血管の損傷はないみたいね。脈拍の乱れや心臓の異常な収縮もなし、と。脳まではまだ侵入出来ていないけど、これなら心配する必要はなさそうね」

 そしてその分離した個体を花中の体内に侵入させ、生命活動に支障がないか調べ上げたようである。ダイレクトに身体の内側をくまなく調べた上での診断、ここまで診察結果に説得力のある無免許医は他に居ないだろう。尤も、花中よりもミリオンの方が安堵している様子だったが。

 それより、怪我がないのなら何時までも蹲ってはいられない。

「きゃ、キャスパリーグ、さんは……?」

「あっち」

 花中が尋ねると、ミリオンはすっと自分達が居る崩落済みダムのすぐ隣、木々が生い茂っている尾根を指差す。

 そこにキャスパリーグが居るという根拠を、説明してもらうまでもなかった。木が次々とリアルタイムで倒れていき、一筋の道を作っていく。その道の上空には白い靄のようなものがヴェールのように浮かび、消えていく。

 キャスパリーグの言葉と現状が頭の中でミックスされ、彼が何をしようとしているのか即座に導き出される。その結論は最悪の一言、ダム決壊よりかはマシだがプランB次善の策として相応しい。

 止めなければ町の人々に甚大な被害をもたらすだろうが、しかし花中達にキャスパリーグの後を追えるような速さはない。ほんの一瞬考え込むのも茫然と立ち尽くしていたのと変わらない。もう、自分達が止めるには全てが遅い。

 やがて木々が倒れて出来た道が尾根の頂上まで伸びきった、刹那――――

 二度目の爆音が、花中達を襲った。




 世界からすれば、それは一秒に満たない刹那の瞬間。

 しかしキャスパリーグにとって、その刹那はとても長い……今までで一番長い一秒だった。

 彼が今駆け登っている尾根の高さは約三百メートル。山の傾きが上級者向けスキーコースに多いとされる三十度と仮定しても、三平方の定理から計算して、頂上まで六百メートルの道のりとなる。いくら崖の多い泥落山でも、トータルで計算すれば数値上そこまでの傾斜とはならない。恐らく頂上まで七百メートルは歩かねばならない。

 キャスパリーグはその長い道のりを、一秒未満で登り切った。出した速さは音速の十倍以上。大地を抉り、木々を吹き飛ばし、余波が空気を白く色付くほどに圧縮する。彼が通った道のりは、崩れたダム現場からも丸見えとなっているだろう。

 ここまで急がねばならぬほど、状況はキャスパリーグにとって好ましくなかった。

 駆け出す寸前まで威圧的に振る舞っていたが、内心彼の心中は焦りに満ちていた。それはダム破壊の目論見が打ち破られたから……ではない。

 あの『黒髪の女』が、自分の前に立ち塞がったからだ。

 一昨日初めて出会った時から感じていたが、黒髪の女は格が違う。『金髪の女』は倒せると思えたが、黒髪の方にはそのビジョンが全く思い描けなかった。それどころか自らの死が頭を過ぎったほどだ。

 『アレ』には絶対に勝てない。相性の問題もあるかも知れないが、持っている力の差があまりにも大き過ぎる。まさかとは思うが、本能の訴えを疑う事など出来ない。あの黒髪が本気で力を振るえば、間違いなく自分は殺される。

 それでも復讐を完遂するには――――向こうがこちらに追いつく前にやり遂げるしかない。

 幸いにも黒髪の女は『力』こそ圧倒的だが、今までの反応からして速さでは自分の方が上回っている。先手はこちらが打てる……その些細で、絶対的なアドバンテージを使うしかない。

 最後の希望に縋り、キャスパリーグは山頂で足を止める。ブレーキを掛けた余波で周囲の木々が同心円状に倒れ、視界が一気に開ける。

 麓の方角を見れば、キャスパリーグの眼に雨雲程度では失せない地上の星空が跳び込んできた。

 それは町の明かりだった。町に暮らす人間の総数、凡そ十三万。その十三万の暮らしによって灯された明かりは、地平線の先まで続いている。地上を埋め尽くし、空の星々をも掻き消すほどの人の営み。

 一瞬……本当に僅かな時間ではあるが、頂上に達したキャスパリーグはその場で夜景を眺めた。表情は硬く、何を思っていたかを隠すかのよう。

 尤も、表情はすぐに変貌し――――憎悪と狂乱の笑みへと変わる。

 キャスパリーグはすぐさま拳を振り上げた。軽く振るえばそれだけで家を砕き、ちょっと構えて放てばダムをも決壊させる拳。

 その拳を振り下ろすための腕に、何本も太い血管が浮かび上がる。筋肉がギチギチと音を鳴らしながら膨れ上がり、皮膚が赤らむや全身を濡らしていた雨粒が肉を焼くような音と共に湯気と化す。未だ雨は降っていたが、少しずつキャスパリーグの身体は乾いていく。

 拳と腕に込められた力は圧倒的。身体から放たれる熱量が大気を震わせ、遠く離れた獣達が慄き逃げていく。黒髪の女の姿は何処にもない。

 そしてキャスパリーグが振り上げた拳を放つ事に躊躇はなく。

「これで、終わりだ」

 音を立てる事のない速さで、彼は自らの拳を地面に叩きつけた。

 瞬間、巨大なエネルギーが山を伝わる。

 爆音は一回。大気の震えは音速を凌駕し、山を駆け下りる。逃げ出した獣達は憐れにも襲い掛かる衝撃波によって吹き飛ばされ、身動きの取れない木々は幹のど真ん中からへし折られる。まるでそこに爆弾でも使ったような……否、核兵器でも使わなければ起きないだろう破壊が、山中に広がった。

 当然破壊の中心地であるキャスパリーグの周りは無残な状況。木々は残さず真ん中から、キャスパリーグから逃げるように折れており――――

「……何……っ!?」

 顔を上げたキャスパリーグは、表情を強張らせた。

 見渡す限りどの木も幹のど真ん中から折れ、倒れている。動物達は衝撃波によって根こそぎ吹き飛ばされた。命の息吹は欠片も残っていない。それからふと、雨が止む。空一面に広がっていた雨雲に突如として穴が開き、夜空が顔を覗かせていた。キャスパリーグの振るった拳の衝撃波が今、空の彼方まで届いたのだ。破滅的な一撃を放った証拠はいくらでもある。

 なのに。

 どうして、殴った地面に変化がない?

 どうして植物は皆根こそぎ吹き飛ばされる事なく折れるだけで、地面にはうっすらとしたクレーターすら出来上がらないのか?

「はーい残念でしたねぇー」

 戸惑うキャスパリーグに、追い打ちを掛けるように何処からか声がする。挑発的で、上から目線で……意地の悪そうな、女の声。

 キャスパリーグはすぐに辺りを見渡したが、声の主らしき姿は何処にもない。それどころか声の方角もよく分からない。猫は宵闇の中を生きる動物であり、優れた聴力も備えている。音が何処から聞えてくるのか分からないなんて、あり得ない。

「だ、誰だ!? 何処に居る!」

 あり得ない事態の積み重ねに耐え切れず、ついにキャスパリーグは虚空に向けて問い質す。

 何処からか聞こえてくる声の最初の返答は、抑える事に必死な笑い声だった。

「くくくくくくく……花中さんの言っていた通りですねぇ。ダムの決壊が上手くいかなかったらきっとこの場所にやってくるって」

「……っ!?」

「麓に町が隣接していて且つダムの近くにあるのがこの尾根。連日の降雨でぐっしょりと濡れている山は大きな刺激を受ければ容易に崩落し土砂となって町に流れ込む。ダムが決壊した時ほどの被害もインパクトもないけれど一先ず復讐は遂げられるので計画の予備として考えにある筈……何もかも花中さんの思い通りです」

「お前は、まさかあの時の……!?」

 キャスパリーグが勘付いた、それを見計らったかのように地面の一部が突如盛り上がる。土の盛り上がりは裂けるように開き、中から出てきたのは透明な、ゲル状の何か。ゲルは芽吹いた植物の如く、真っ直ぐに伸びてくる。

 ついには五十センチほどまで伸びるとゲル状の何かはそこで一回ぶるりと震え、蠢くように形を変え始めた。手足が伸び、服が色付き、顔が浮かび上がる。

 やがて蠢きが止まった時にはもう、ゲル状の何かはすっかり人の姿に。

「ご名答。お久しぶりですね♪」

 ご機嫌ぶりを隠しもせずに彼女――――フィアは、キャスパリーグの前に姿を現した。

 ……尤も身長五十センチ程度で三頭身の、人形のようにデフォルメされた姿だったが。出来上がった顔を見ると目はビー玉を嵌め込んだようで、口の部分は単に切れ込みが入っているだけと、造形はかなり安っぽい。服装もシンプルなワンピースで、適当さをひしひしと感じる。

 それでもフィアが突如現れた事に違いはない。キャスパリーグは僅かに後退りし、敵意をむき出しにした獣のように身構えた。

「その姿は……いや、それよりどうして貴様が此処に!? お前はダムの水を操っている筈では……」

「これでも音を聞き取るのは得意なものでしてねあなたと花中さんの会話はしっかり聞かせてもらいました。その上で教えてあげましょう。ええあなたの予想通りです。私は此処から動けません」

「此処から――――っ!?」

 フィアの言葉に、キャスパリーグは顔を一気に青くする。足元を見て、ぐしゃり、ぐしゃりと地面を踏み鳴らす。

 もう雨は止んでいるのに、『湿った大地』がずるりと動いた。

「そもそも一億トンの水一億トンの水って何度か言っていましたけどそれの『体積』が如何ほどになるのかご存じですか? 一億立方メートル即ち一キロメートル×一キロメートル×百メートルもの物体になるんですよ? どんな大きさの空洞ならこんなものが収まるというのですかというかいくら私でもこんな大量の水を剥き身で固定するなんて出来ませんって最低でも形を支える程度の『入れ物』がないと無理です」

「入れ物……まさか!?」

「うふふ。その通り」

 上機嫌なフィアは舞うように、小さな身体でくるりと回る。

「この山全てが『入れ物』なのですよ」

 それから両腕を広げ、人形染みた顔をにっこりと微笑ませた。

「……緑のダムか……」

「正確にはちょっと違いますねぇ。この山木は多いくせに腐葉土の厚みが全然ないんですよ。地下水の影響で何時も湿っているから雨が降ると水を吸いきれず表面を流れちゃうのでしょうね。お陰で押し込もうにもそんなに入らずいらぬ手間を取られましたよ」

「いらぬ手間だと?」

「この尾根一帯の土壌を耕してスポンジ状に改造するという手間です」

「!? な……に……?!」

「いやーもうこっちの方が実際に水を動かすよりも時間が掛かっちゃいましたよ。一時間ぐらいでしょうか。いくら単位面積当たりの量は少しで済むとはいえ流石に山全体を耕すとなるとそれなりに大量の水を操る必要がありますからもう大変ですよ。正直細々とした作業は苦手ですし集中しないといけないわ加減しないといけないわで」

 苦労を自慢するように語るフィアだったが、目を丸くしているキャスパリーグの耳には殆ど届いていない。彼の脳内を巡るのは、その自慢話の前に平然と語った一言ばかり。

 水を操り土壌を耕した……それは直接的な戦闘能力ではなく、器用さの証明である。だがその範囲が山全体となれば話は別。尾根とはいえ山一つの環境をたった『一匹』、それも三十分かそこらで作り変えるなど並の生物には不可能な所業だ。

 無論拳一発で山をも崩せるキャスパリーグも十分に出鱈目である。山全体を破壊するだけなら、フィアよりも早く済ませられるだろう。力の方向性が違うだけで、フィアとキャスパリーグの実力は互角と言っていい。

 そう、互角なのだ。故にキャスパリーグは焦った。

 『黒髪の女』と違いフィアになら勝てると考えていたが、それは決して圧倒的な勝利という意味ではない。本気で戦っても互角の戦いとなり、勝つ事も、負ける事もあり得る拮抗の力関係。どちらがより相手の情報を握っているか、環境がどちらにとって有利か、どちらが幸運だったか……それだけで勝敗が入れ替わる状態だ。

 なのにどうだ?

 環境――――雨とダムの水によってあちらは莫大な水を制御下に置き、準備万端。

 情報――――同一の能力を持つ妹が向こうに味方している。たっぷり情報漏洩している筈。

 運勢――――折角の計画が二つも潰されている。間違いなく最悪だ。

 何もかもが、相手の有利を示していた。

「っ!」

 このままでは勝ち目がない。そう判断したキャスパリーグは瞬時に踵を返した、

「くぉっ!?」

 直後キャスパリーグの口から出てきたのは驚愕の一声。

 誰の眼にも見えない超絶のスピードで逸らした彼の顔の真横に、『半透明な槍』が伸びていた。

「あー外しましたか。やっぱり後手のカウンターだとそちらの反応速度には追いつけませんかねー」

 見えていなかっただろうキャスパリーグの動きを前にし、フィアは不愉快そうな言葉を早口で捲し立てる。けれども彼女の顔に不快さはない……そもそも顔がない。どろりと全身を崩し、水を掛けられた泥人形のように地面に溶けていく。

 代わりに大地から、泥と石を含み汚物染みた色合いとなっている巨大な触手が何本も何本も、キャスパリーグを取り囲むように生えてくる。

「まぁ牽制にはなるでしょうから良しとしますか。ああ一応言っておきますが逃げようなんて思わない方が良いですよ。あなたの周辺の地面は私が操る水によって『ブロック化』してあり踏むと自動的に何処かのブロックがあなた目指して飛び出すよう仕掛けを施しておきましたから下手に動くとその顔面に穴が開きますよ。ついでに周りには特製の『糸』があるので下手に動くと首が飛ぶのでそのつもりで」

 フィアは未だ語りかける。もう、その姿は何処にもない。

 声は四方八方、キャスパリーグを取り囲むように、山中から響いていた。

「それにしてもあなたの能力は凄まじい。単純に強力なパワーだからこそどんな小細工も能力も正面から粉砕出来る。相手がどんな小難しい能力を持っていようと殴って粉砕。さぞかし気分が良かったでしょう」

「……………」

「ところで疑問なんですけど単純に強いのが取り柄の方って自分より強い相手が現れたらどうなるのでしょうね?」

 そしてフィアが嫌味ったらしく尋ねた、途端大地から生えていた無数の触手と『透明』な気配が一斉にキャスパリーグの方を振り向き、

「そんな訳で『ただの生き物』が『大自然やま』を相手にしてどれだけ奮闘出来るかちょっと実験してみましょうか♪」




 ズドンッ、と、身体を芯から突き上げるような揺れが尾根の方から伝わってくる。

 その振動の重さを感じながら、瓦礫の上に腰掛けている花中は尾根のてっぺんを見つめていた。

 揺れはこれで二度目。一度目はキャスパリーグが崖崩れを起こそうとして大地を叩いたものだろう。そして二回目の振動は……

「流石はなちゃん。問答の結果だけでなく行く先まで予想通りね」

「……はい」

 『予想通り』の展開で上機嫌なミリオンに、花中は俯いたまま頷く。

 ズドン、ズドンと、揺れが連続的に起き始める。フィアとキャスパリーグの戦いの余波に違いなく、ここまでは想定通り。残る問題は勝敗だが、フィア曰く「ミリオンの時以上に準備万端」。自信があったようだし、花中としても友達フィアの勝利を信じたい。

 だけど、望んでいたのはこんな結果ではなかった。

 猫少女が不安げな眼差しで『兄』の居場所を見つめている、こんな結果では……

「猫さん……本当に、申し訳、ないです」

 花中は立ち上がり、少し離れた位置で山を見ている猫少女に向けて頭を下げる。

 圧倒的な力と復讐心を抱くキャスパリーグを止めるには、その息の根を止めるのが最も確実かつ安全だ。出来るだけ殺さないようにとフィアには頼んだが、彼女が頼みを聞いてくれるとは限らない。いや、自分以外の命に殆ど価値を感じないフィアの事、『仕方ない』と判断するハードルは花中の想像以上に低いだろう。キャスパリーグの生存は保障出来ない。

 もしも、を語ったところで意味はない。だがそれでも、自分にもっと交渉術があったなら、もっと堂々たる風格で威圧していたなら……こんな結果にはならなかったかも知れない。

 全てはこの結末を予測していながら回避出来なかった、自分の責任。

 だから責められても仕方ないのに、責めてくれたら受け止めるのに。

「謝らないでよ。こうなったのも、兄さんが、そういう決断をしたからだし」

 どうして猫少女は涙一つ見せず、こちらを励ますように笑っていられるのか。

 どうして、その震える拳を、手近な何かにぶつけようとしないのか。

 ――――こんな結果で、本当に良いのか。

「……本当に、良いの、ですか? だって、あの人は、あなたの」

 気が付けば花中は淀む想いを言葉にしていて、

「だったらどうしろって言うの!?」

 ぶつけられた叫びに、思わず息を飲んだ。

「あたしだって嫌だよ! だって、兄さんはあたしのたった一人の家族で、ずっとあたしを守ってくれて……でもどうすればいいの!? 兄さんはあたしの話を聞いてくれない、あたしが見てきたものなんて信じないのに!」

「猫さん……」

「あたしだって嫌だよ……でも、どうしたら……どうしたら……!」

 膝を付き、猫少女は両手で顔を覆って嗚咽を漏らす。

 こんなのが、次善の結末?

 一人の女の子を泣かせ、怨みを持った者に安らぎを与えぬまま殺し、それでも人間が誰も犠牲にならなかったからベターな終わり方? どうしてこんな事になったのか、キャスパリーグの恨みとはなんなのか分からず仕舞いでも、人間の勝利で終わるのだから問題なし?

 だから、このまま立ち止っていても良い?

「……そんな訳、ない」

「はなちゃん?」

 独りごちた言葉にミリオンが反応したが、花中は答えず歩き出す。向かうは、蹲ったままの猫少女。

 花中は彼女の傍でしゃがみ込み、そっと、その肩を掴んだ。猫少女は顔を上げ、潤んだ瞳で花中を茫然と見つめる。

「かな、か……?」

「猫さん、教えてください。どうして、あなたのお兄さんが、人間に復讐を、しようとしているの、か。その、理由を」

 花中の言葉に、猫少女は驚いたように目を見開く。それから逃げるように目線を逸らし……伏した後、小さなため息を漏らした。

「やっぱり、隠してるってばれてたかぁ」

「フィアちゃんは、信じていた、みたいです、けど。わたしも、言いたく、ない、の、なら、それで良いと、思って、いました。無理に、話を、聞かなく、ても、なんとか、なるって」

「……………」

「でも、やっぱり、知らないままじゃ、ダメです。『わたし達』への復讐が、目的なら、それを知らないままでいる、なんて、逃げているのと、変わらない。まして、何も知らないまま、危ないから、その命を奪おう、なんて……虫が、良過ぎます」

 考え方の違いはあるかもしれない。全てを話してもらった上で、やっぱり命を奪う以外に方法がないと突き付けられるかも知れない。むしろあまりの理不尽さと不条理さで、こちらが相手に憎悪を覚えるかも知れない。

 だけど、知らなければ何も変わらない。

 立ち止っていれば安全だ。全ての過去を眺めているのは楽だ。しかし過去を眺めているだけでは何も変わらない。前に進まなければ、きっとまた何時か『同じ光景』を目の当たりにする。

 今と同じ景色をまた見るなんて、そんなのはごめんだ。どうせ見るなら、もっと明るくて、綺麗で……みんなが笑顔になれるものが良いに決まってる!

「猫さん、教えて、ください。あなたのお兄さんは、どうして、人間を、恨むの、ですか? 人間は、お兄さんに、何を、してしまったのですか?」

「花中……」

 真っ直ぐ、臆さず花中が訴えると、猫少女の顔に笑みが戻る。

 ただしそれは憔悴しきった、力ない笑み。まるで、何かを諦めたよう。

 開いた口が紡ぐ言葉も、弱々しくなっていた。

「……本当はね、言わなきゃって、思ってた。兄さんが何をしようとしているかあたしには分からなかったけど、でも花中達はあたしよりも頭良さそうだから、あたしが気付かなかった事も分かるかも知れない。それで、もしかしたら兄さんを止められるんじゃないかって、期待もしていた。でも、言えなかった。それを言ったら……あたしがやっぱり兄さんの仲間なんじゃないかって疑われるかも知れない、あたしを信じてくれた人が信じてくれなくなるかも知れないって思ったら、怖くなって……」

「怖くなった、ねぇ。何かやましい事でもあるのかしら?」

「ミリオンさんっ!」

「良いの、花中。ミリオンの言う通りだから」

 煽るような言い方に、それはないだろうと花中はミリオンを叱責する。が、猫少女に宥められてしまい、渋々でも矛を収めないといけなくなる。

 それに、ミリオンの言う通り……指摘は正しいという言葉の意味。今はそれを考えなければならない。

「……何が、あったのですか。お兄さんに……いえ、あなた達に」

 花中は、言葉で猫少女の背中を押す。

 猫少女は深呼吸をするように深く、長く息を吸い込む。今この時、喉奥まで来ている筈の言葉を押し留めるかのように。

 それでも息はやがて止まり、そして、吐き出された。

「殺されたの。親と兄弟達を、人間に」

 『人間』の胸に突き刺さる、この言葉と共に――――

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