孤独な猫達7

「い、妹さん、という、事は……あの人、は、猫さんのお兄さん……ですか……?」

 オドオドしながら、花中は自分のすぐ傍に立つ猫少女に尋ねた。

 猫少女の返答は、ややあってからの無言の頷きのみ。ぎこちない空気の中花中は改めて目の前の、猫少女を妹と呼んだ男を見た。

 未だ陽が照らしている市街地。筋肉隆々なほぼ全裸の男を観察するのに支障はなく……改めて見直したが、猫少女とその男は、あまり似ていないように思えた。確かにどちらも筋肉質な身体付きだが、猫少女は猫らしいスレンダーな体型なのに対し、男は割とガッチリとした体躯。身長も、猫少女は小柄な花中と同程度なのに男の方は一般的な成人男性よりも高い。顔立ちにも、共通のパーツが見付けられない。精々髪が同じ色黒いぐらいなものだ。

 正直、家族だと言われても素直には受け入れられない。親近感が湧かず、今になって男性への苦手意識が蘇ってきた。花中は無意識に後退りしてしまう。

「これは、どういう事だ?」

 挙句男の口から出てきたのは、闘志と威厳と威圧が乗った重苦しい声。一歩踏み出せば足元のコンクリートがベキリと音を立て、彼の存在感を示した。

 もし彼の出した言葉が自分に向けられたものだったなら、花中はビックリして失神していたかも知れない。例え今自分と彼の間に、フィアとミリオンという頼りになる友人達が居たとしても。

 そうならなかったのは単に、男が話し掛けたのが花中ではなく猫少女だったからだ。

「あ、あのね、兄さん。これは、その、ちょっとした……ちょ、調査で……」

 猫少女は言葉を何度も途切れさせ、たどたどしく兄だと言った人物に答える。その言い方に、表情に、肉親への親愛は感じられない。顔を背け、花中の後を追うように後退りしてくる。まるで隠していた悪事が親に露呈した、子供のような仕草だ。

 対する猫少女の兄……猫兄とでも呼ぶとして……は、妹の心情をどう感じたのか。

「ふむ。確かに調査は大切な事だ。何事も知識がなければ始まらない……その考え、そして行動は正しいな」

 花中の予想に反し、再度開かれた彼の口から出たのは、先程までと打って変わって優しく、包み込むような褒め言葉だった。

 まさか誉めてもらえるとは思ってなかったのか、猫少女は一瞬表情を固まらせた後、花咲くように笑う。直後花中の目には見えない速さでフィアとミリオンを追い越し、兄の傍まで駆け寄っていた。

「そ、そうだよね! やっぱり知らないのはダメだよね!」

「ああ、そうだ。それで、何を調べて、何が分かったんだ?」

「あ、あのね……私、人間が本当に悪い奴か調べて……」

「ふむ。それで?」

「た、確かに悪い奴は居たけど、でもあそこに居る花中みたいに良い人間もいた! 加奈子みたいにバカだけど面白い奴もいたし、晴海みたいに嫌味だけど真面目な奴もいたの!」

 楽しそうに、嬉しそうに、猫少女は今日の出来事を話し始めた。

 その姿に、花中は安堵の息を吐く。仲が悪いのかと一瞬勘ぐってしまったが、そうではないらしい。むしろ兄に優しくされてからの猫少女は、心から幸せそうに見える。

 恐らく、猫少女は兄に黙って人間との接触を持った。そしてそれがばれてしまい、怒られると思って怯えていたのだろう。先程感じた印象の通り、親に怒られるのを不安がる子供の心境だった訳だ。褒められてからの反応を見るに兄の事が相当好きなようなので、嫌われたくないという気持ちも多分にあるのかも知れない。

「あ、後ね! 人間と一緒に遊んだりもした! まぁ、人間があたしに勝てる訳ないから手加減してあげたけど、それでもやっぱりあたしが連戦連勝だったけどねっ!」

 そう思うと猫少女の誇張……というより虚偽の話も、なんだか幼子が親に自慢話をしているようで微笑ましい。気が付けば、固まっていた花中の頬は柔らかく蕩けていた。

「なんか、仲良しみたい、だね」

 自然と同意を求め、花中は前に立っているフィアとミリオンに話し掛ける。フィア達からの返事はなく、頷いてすらくれなかったが、何分今はいきなり現れた相手と対峙中。『野生生物』である二匹からすれば、そう簡単に警戒を緩める気にはならないのだろう。気持ちは分からなくもないので、花中は少しむくれるだけにしておいた。

 ともあれ、問題が起こらなくて良かった。緊張が解れた花中はふへーと息を吐き、一瞬目の前の仲良し兄妹から意識が逸れる。

 そこでふと、思い出す。そういえば、猫少女は自分に何かを相談していたような。

 確か、誰かを説得してくれって――――

「だ、だからね、兄さん、あの……」

 しばらくして、自慢話もいよいよ終わったのか。猫少女は先程までの勢いを無くし、もじもじしながら口ごもる。その仕草は、中々本題を切り出せない時の自分に似ていると花中は感じた。

 なんともいじらしい姿を見せる猫少女を前にし、猫兄は彼女の頭に手を乗せて、優しく、あやすように撫でる。

「みなまで言わなくて良い。大丈夫だ、お前の言いたい事はよく分かった」

「兄さん……じゃあ!」

 歓喜に満ちる猫少女の声。その声を正面から受けた猫兄は春の日差しのように暖かな微笑みを浮かべ、

「あの人間がお前をたぶらかした訳だな」

 上っ面の仮面では決して隠しきれない殺気を、言葉と共に放った。

 刹那、目の前に居たフィアとミリオンの姿が消え――――代わりに手を伸ばせば触れるほどの至近距離で見下ろしてくる猫兄と、その猫兄が片手を、交差させた両腕で受け止める猫少女が花中の真正面に立っていた。

「……え……?」

 唐突過ぎる出来事に、キョトンと首を傾げる花中。

 しかし身体を押し退けるように吹き荒れる土埃、体躯を突き上げるかの如く振動、そして左右の耳の鼓膜を貫かんばかりに響いた爆音で我を取り戻し……ハッとして辺りを見渡せば、道を挟んでそれぞれ向かい合っていた二軒の一軒家に大穴が空いていた。まるで、そこに巨大なトラックでも突っ込んだかのように。それだけでなく猫少女の足元が大きく陥没し、小さなクレーターが出来上がっているではないか。

 何が起きたのかは、やはり分からない。

 けれども、目の前の猫兄が誰にも見えないほどの速さで自分に接近。フィアとミリオンを攻撃して吹き飛ばした後自分にもその暴力を向けたのは、花中の本能が察していた。

 尤も、その暴力を猫少女が咄嗟に受け止めてくれた事には、真っ白になった理性が回復するまで気付けなかったが。

「……何をしている?」

「見れば、分かるでしょ……この人間は、殺させない……!」

「そこまで人間に入れ込んだのか……いや、違うな。そこまで『この人間』に入れ込んだと言うべきか」

 ギョロリと瞳だけを動かし、猫兄は花中を再度見下ろす。猫少女と語り合っていた時の優しさはもう欠片も残っていない。今その眼差しに宿るのは刃物のような鋭さと、隠しもしない捕食者ネコの獰猛さ。

 そして、純然たる殺意。

「……!?」

 花中は口を、喘ぐ金魚のようにパクパクと空回りさせる。

 花中は十五年ほどの人生の中で、少なくとも二度は殺意を向けられた事がある。それも『二週間前』と『昨晩』という、割と最近の出来事。耐性が付いたとは言わないが、殺意がどのようなものかは身体が覚えていた。

 だが此度の殺意は『純度』が違う。最早言葉で語るよりもハッキリとした形を持って心に突き刺さるほどに鋭く、冷たい。視線に射抜かれた全身が凍え、震え、動けなくなっていく。

「さて、これで目を覚ましてくれると、俺としては嬉しいが……どうなる事かな」

 だから例え猫兄が自由なもう片方の手を振り上げても、花中には一歩後ずさる事すら出来ず。

 花中から見て右側から突如巨大な『包丁』が現れ、猫兄目掛け落ちてこなければ、今頃花中は生ゴミと変わらぬ存在と化していただろう。

「ふむ」

 猫兄は表情一つ変えず、あたかも真ん中部分を切り取った映像のように、瞬時にして花中から五メートルほど遠のく。『包丁』は猫兄を狙っていたようだがこの速さには追いつけなかったようで、出現時と殆ど変らぬ軌道で落下。

 道路のみならず向かいの家まで刃は到達し、圧倒的大質量で何もかも粉砕した。これでは最早刃物ではなく鈍器。打撃で舞い上がった粉塵が茶色い霧となって猫兄と猫少女、そして花中を飲み込む。

 それでも花中は痛む事を恐れず目を開き、

「フィアちゃん!」

 助けてくれた、友の名を呼んだ。

 次の瞬間、『包丁』が生えてきた場所――――大穴を開けていた家の一件が、爆発でも起こしたかのように破裂する! 穴が開いている以外は未だ住処としての形を保っていた一軒家だが、それもこの破裂によって崩壊。大黒柱が悲鳴を上げるようにへし折れ、家屋自体が完全に潰れてしまう。今や原型を留めているのは屋根ぐらいなものだ。

 それすらも二度目の破裂によって真っ二つに吹っ飛ばされ、中から身体には傷も汚れも一つとない、片腕を巨大な包丁に変化させている金髪碧眼の美少女……フィアが現れた。

 姿を消していた友の復帰に花中は喜びを抑えられない、が、笑顔一色だった表情は、すぐに恐怖に満ちたものへと塗り替わる。

 何しろ復帰したフィアは、額に青筋を浮かべ、目を血走らせていたのだから。

 口元をぐにゃりと歪ませて心底愉快そうに笑っていたが、そこに友好の意思などありはしない。狂気や殺意をグズグズに煮込んだ感情の波形は、友達である花中ですら奥歯がガチガチと鳴り始めてしまうほどにおぞましい。猫少女も狂気に充てられ、ほんの僅かだが身動ぎしている。

 猫兄がそんなフィアと平然と向かい合えるのは、彼の腹の中に同等以上の殺意が渦巻いているからなのだろうか。

「まさか平然としているとはな。本気を出したつもりもないが、手加減したつもりもないのだがね」

「くひひひひひひひひこの私を吹っ飛ばすだけでは飽き足らず花中さんにまで手を出そうとは良い度胸をしてますねぇどうしてこんな馬鹿をしでかしたのか理由は分かりませんがいえ知る必要もないでしょうああどんなゴミに変えてやりましょうか希望があれば聞きますがぁ!?」

「……やれやれ、この俺以上に血気盛んとは。どうやら手加減して勝てる相手ではないようだが、だったら本気を出すまでの、っ!?」

 フィアの形相に怯みもしなかった猫兄だったが、一瞬目を見開くや、その場から更に五メートルほど跳び退く。刹那、今まで猫兄が立っていた道路のコンクリートから湯気が立ち、どろりと溶解したではないか。

 異様な現象を目の当たりにする花中だが、しかしその驚きはフィアの向かい側……もう一つの穴が開いた家が弾け飛ぶ音で掻き消される。次いで花中達に襲いかかったのは先程と同じく茶色い粉塵、それに追加して肌が焼けそうなほどの熱波。

 ついには家の柱が独りでに燃え上がったが、間髪置かずに起きた爆発で家屋ごと吹き消されてしまう。バラバラに砕けた木片やコンクリートが衝撃で舞い上がり、雨のように降り注いで庭に突き刺さる。

 そんな致死性の雨の中で平然と立つのは、やはり姿を消していた黒髪の少女――――ミリオン。

 こちらはフィアほど荒々しい形相はしていない。代わりにゾッとするほどに無表情で、なのに穴がぽっかり空いたような黒い眼はフィアと同等の狂気を、『殺意』においてはフィア以上のどす黒さを隠さない。フィアとは毛色が違うが、花中の背筋を凍らすには十分。

 そのどす黒い視線を受ける猫兄は肩を竦め、目を細め……やれやれと言いたげだった。

「どちらもこうも元気だとは、流石に予想外だな。我ながら余計なケンカを売ってしまったらしい」

「残念、後悔してももう遅い。はなちゃんに死なれると私としては困っちゃうの。だから、あなたにはさっさと消えてもらうとするわ」

「コイツに同意するのは些か癪ですが今回ばかりは仕方ありませんそうそう希望がないようですので処理方法は私個人のお気に入りであるミンチにしましたもう要望は受け付けないのでそのつもりで」

 十メートル以上離れた間合いでの会話。張り上げ気味に声を出した末、和解の可能性は皆無であると二匹は断言する。

 敵意を剥き出しにするフィアとミリオンと向かい合った猫兄は考え込むように自身の顎を撫で、フィア、ミリオン……そして花中と猫少女に順次視線を移していく。

 やがて視線を一周させた彼は歪な笑みを浮かべ、

「確かに人間は殺してやりたいが、コイツ一人に執着する理由もないのでね。退かせてもらうとしよう」

 堂々と逃げる事を示唆したので、フィアとミリオンは一気に前傾姿勢を取った。

「させないっ!」

 が、誰よりも速く動いたのは猫少女だった。動いた、と言っても花中には、恐らく猫達以外誰にもその行動は見えていない。何もかもを置き去りにする猫少女の神速についていける者など誰一人としていない。

 ズガンッ! と雷鳴の如し爆音と、その爆音すらも掻き消さんばかりの地鳴りが花中達を襲った時には、既に事は終わっていた。

 何時の間にか猫兄に肉薄していた猫少女が、力なく膝を付き、倒れ伏すという形で。

「ね、猫さん!?」

「全く。相変わらずケンカっ早いというか、後先考えないというか。ああ、しかし今に限れば好都合か。このまま寝ていてくれると面倒がなくて良い」

 倒れた猫少女を、猫兄はあろう事か蹴飛ばす。蹴られた猫少女はまるでボールのようにふわりと、現実には鉛より重い体を宙に浮かせ、花中の足先数センチの位置に顔面から落ちてくる。落下の衝撃でコンクリートの道路は陥没し、それに伴う地震染みた揺れで花中はバランスを崩して尻餅を撞いてしまう。もしもぶつかっていたら大怪我では済まない出来事に、花中の顔は真っ青だ。

 それでも猫兄をじっと見据え、怯まずに睨み付けられるほどの怒りが心の中で燃え盛る。

「な、な……何をしてるんですか……こ、この子は、あなたの妹じゃ、ないんですか!?」

「ああ、そうだ。だが、人間の味方をした時点で見限った。ただそれだけの事だ」

「それだけって!」

 言葉が詰まる。ただし何時もと違い、ぐつぐつと煮えるような怒りによって。

 相手は猫だ。人の倫理観が何処まで当て嵌まるかは分からないし、無理に当て嵌める事はすべきでないだろう。

 だけど少なくとも猫少女は、兄を慕っていた。

 そうでなければ、嬉しそうに今日の出来事を話したりしない。嬉しさいっぱいの笑みを浮かべたりしない。彼女には、肉親を慈しむ心がある。

 だったら、同じ種である彼も同じ心を持っている筈なのに。

「なんで、なんでですか!? あなたは、この子のお兄さんなのに!」

「俺と同じ思いをしながら、それでも人間に味方するそいつを妹とは認めん。それと、俺の事を兄だと言うな。虫唾が走る。人間が俺の事を呼ぶなら……」

 憤る花中と倒れる妹を見ても表情一つ変えず、猫兄は二人に背を向け、

「キャスパリーグだ。次からはそう呼べ。尤も、三日後以降お前と会う機会があれば、の話だがな」

 それだけ言い残して、一瞬にして姿を消した。彼が目に映らぬほどの速さで駆け抜けた事を示すものは、後から吹き付けてきた突風だけ。どちらの方角に行ったのかも、花中には分からない。

「……逃がしましたか。『糸』を張っておいたのですが殆ど切られている。恐らく『糸』に気付きこちらの追跡から逃れるためわざわざ切りに行ったようですね。これではどっちに逃げたのかも分からない」

「こっちもいくらか分散して個体を展開しておいたけど、全部吹っ飛ばされちゃった」

 フィアとミリオンはこうなる事を予期してそれぞれ探査網を広げていたようだが、いずれも易々と突破されたらしい。これで猫兄……キャスパリーグと名乗った猫の行方は、完全に分からなくなった。勿論、花中にとってもそれは気掛かりだ。フィア達が居なければ自分を殺したであろう存在が野放しなのだから。

 だが、今は『そんな事』に怯えている場合ではない。

 自分の目の前に、兄が行方知れずになっても微動だせず、道路に転がったままの女の子が居るのだから。

「ね、猫さん! 大丈夫ですか!?」

「んぁ? あーそういえばなんか蹴飛ばされてましたっけ。さっきから動いてないようですけど死んだのでしょうか?」

「息はあるみたいだし、生きてるっぽいわよ」

 どうでも良さそうなフィア達だが、一々構っている場合ではない。花中は二匹を余所に、猫少女の体を揺すろうとする。

 とはいえ相手は推定体重数十トンに達する超重量級生命体。花中一人の力でどうこう出来るものではなく、渾身の力を込めても猫少女の身体は微動だにしない。結局フィアに頼み、うつ伏せになっている猫少女の身体をひっくり返してもらう。

 仰向けにされた猫少女の顔は安らかとは言い難かったが、呼吸は安定しており、気を失っているだけのようだった。良かった、とは言えないものの、それでも大事に至っていない事に花中は安堵の息を吐く。

 残念な事に、何時までも安心している暇はないのだが。

「……流石に騒ぎ過ぎたわね。人が近付いてきているわ。周りの家は私が分散させた個体でドアノブを『固定』して外に出られないようにしたけど、野次馬は止めたらますます騒ぎが大きくなる。さっさとおいとました方が良さそうね」

「そうですか。ならそうしましょうかね」

 自らを戒めるようにぼやくミリオンに、フィアはのほほんとした口調で同意する。

 不可抗力と正当防衛の範疇だったとはいえ、猫達の足跡とフィア達の攻撃で道路はズタズタのボロボロになり、一軒家は二つも全壊している。相当広範囲に今回の騒動は知れ渡っているだろう。果たして何十人、いや、何百人の野次馬が集まってくるか分かったものではない。

 そしてその破壊された街並みの中に平然と立つ女子三人+気絶した少女一人というのは、異様というか、あらぬ ― ではないのだが ― 疑いを掛けるのに十分な存在だろう。

「……あの、二人とも……潰れた家の中に、人は……」

「私がぶつかった家には人間なんて居ませんでしたよ多分」

「私の方は水槽の中にダンゴムシがいたぐらいね。そのダンゴムシも水槽が壊れて脱走したし、ま、むしろ自由を謳歌している感じ?」

 幸い、死傷者は人間・動物共に出ていないらしい。ならば長居をする理由もない。壊れた家の住人には申し訳ないが……これ以上事態を混沌としたものにしないためにも、こっそりと帰らせてもらうしかない。

「フィアちゃん、あの、猫さんを、うちまで運んでもらえます、か?」

「花中さんのお願いとあらば」

 快諾してくれたフィアは猫少女の肩を掴むと、「よっと」と軽い掛け声と共に軽々と引っ張り上げ、自分の背中に乗せる。花中はミリオンの方へと向かい、ミリオンの背中に乗せてもらう。

 その際フィアが物凄く不愉快そうな顔になっていたが、生憎背中に乗せる対象を入れ替えるだけの時間はもうない。

「それじゃあ、あの……家に、一旦、帰りましょう」

「りょーかーい」

「……了解です」

 ミリオンが空を飛ぶようにその場から跳躍し、フィアはその後を追うように道路を駆ける。

 騒ぎを聞きつけた野次馬達が集まった時、花中達の痕跡は立ち去る際に残した小さなクレーターだけであった。




 家に帰ってきた花中が真っ先に向ったのは、自宅ではなく庭の方だった。

 陽は完全に沈み、町には暗闇が広がっている。辺りを照らす街灯は道路側を向いており、また花中の家の庭は塀でぐるりと囲われているため外の明かりがあまり入ってこない。道路側と比べ、大桐家の庭はかなり濃密な闇に包まれていた。

 しかし此処は花中にとって、生まれてからの十五年間ずっと過ごしてきた文字通りのホームグラウンド。何処に何があるか、朝のうちに干しておいた洗濯物が出しっ放しだとか、なんでも分かる。如何に花中がどん臭くとも、少し慎重に歩けば転びはしない。

「はうぅぅぅ花中さぁん何処ですかぁはぷっ!? ななななんですかこれって花中さんの匂いがします……はぁ落ち着いてきた」

 ……フィアには、少々暗過ぎたようだが。どうやら干しっぱなしの洗濯物に頭から突っ込んだらしい。暗いと言っても人の目には輪郭ぐらいなら見えているだけに、なんだかフィアの姿が滑稽に思えた。

「フィアちゃん、大丈夫? わたしのパジャマ、頭に掛かっちゃった、ね」

「ああそっちに居るんですね花中さん。いやぁ耳と鼻は良い方なのですがどうにも目だけは悪くて。ましてやこうも暗いと何も見えないのですよ」

「え? でも、この前は洞窟で……」

「あれは洞窟全体に能力が及んでいたので触覚で分かったのです。ミリオンが照らした時を除けば正直何も見えていません。ぶっちゃけ照らされてもそんなによく見えませんけど」

「そう、なんだ」

 そんな暗闇の中を恐れず進み、自分を助けに来てくれたんだ。

 もう二週間前の出来事を思い出し、花中は歓喜に震えた。が、今はそれどころではないと我に返り、頭を振りかぶる。

 感動している場合ではない。フィアの背中に居る『女の子』を、休ませてあげなければ。

「えと、じゃあ、あの……ここに猫さんを、下ろして。あ、もうちょっと、こっちに……そこ、で、止まって」

「この辺りですか?」

「うん。お願い」

 花中はフィアを声で誘導し目当ての場所、庭で一番日当たりが良く、そのため雑草が生い茂っている一角に連れてくる。

 フィアはそこで背中に乗せていた人物――――猫少女を、茂る草の上へと置いた。途端、ズシンと軽く地面が揺れる。草の布団は呆気なく潰れてしまっただろうがそこらの地面に置くよりかは幾分寝心地は良い筈だ……そう思うしかなかった。

「猫ちゃん、もう寝かしたかしら?」

 と、丁度良いタイミングで家の窓が開かれ、照明の明かりと共にミリオンが顔を出した。花中とフィアが猫少女を寝かせるべく ― 家に置くと床が抜けてしまうので ― 庭に出向いていた間、ミリオンには家の鍵を開けに行ってもらっていたのだ。ミリオンが開けた窓は和室側だったので、彼女の背後には一面畳の部屋が見える。

「あ、はい。あまり、寝心地は良くない、かも、ですけど……」

「仕方ないわよ、その子の重さじゃ、どんなにふかふかの布団でも一発でせんべいになっちゃうもの。ま、それはそうと何時までも外に居たら蚊に食われちゃうから、こっちにおいで」

 ミリオンは手招きをして、花中を家の中に呼び寄せる。

 花中としては猫少女の事が気になるが、傍に居て何か出来る訳ではない。それに猫少女の頑丈さからして、蚊が血を吸おうとしてもどうにもならないだろう。

 寝ている猫少女を横目にしつつ、花中は言われるがまま家の中に。フィアも花中に続いて家の中に入り、一人と二匹は和室の中央に座る。

 庭に入っただけでは得られなかった、『住処』に戻ってきた安堵。恐らく哺乳類以前、魚類ですらない祖先から備わっていた根源的安心感は、些末な不安なら一気に消してくれただろう。

「はぁー今日は色々あって疲れましたがようやくのんびり出来るというものですねぇ」

「そうねぇ。筋肉なんて持ってないから乳酸は発生しないけど、やっぱ色々あると身体が凝るような感じになるのよねぇ」

 しかしフィアとミリオン居候の二人がリラックスしている中、花中は笑顔一つ浮かべずにいた。

「……あ、あの、二人とも、リラックス、してる場合じゃ……」

「なぁに? はなちゃん、猫ちゃんのお兄さんの事がまだ気になるの?」

「大丈夫ですよ花中さん。私が傍に居る限りあなたには傷一つ付けさせませんから。それにアイツ花中さんに執着する理由はないって言ってましたしね。だったら多分もう会う事もないでしょう。気にする必要なんてないと思いますよ」

「私としては、危険因子は排除しときたいけどねぇ。でもま、何処に逃げたか分からないし」

 短い時間ではあったが、殺し合った相手の話を鵜呑みにするフィアとミリオン。だが彼女達の言い分に、花中は言葉を詰まらせてしまう。

 キャスパリーグは確かに花中を殺そうとした。それが偽りない意思なのは、実際に殺されかけ、背筋が凍るほどの殺気を向けられた花中だからこそ断言出来る。

 同時に、彼は言っていた――――「人間は殺してやりたい」と。

 キャスパリーグが憎んでいたのはあくまで『人間』であり、花中ではないのだ。執念と理屈のある憎悪ではなく、無差別で理不尽な殺意。逆に言えばキャスパリーグとの物理的距離が、そのまま殺意の対象から遠ざかる事を意味する。花中の安全を守るだけなら、キャスパリーグに近付かないのが最善となるのだ。花中の身を守るという点において、フィアとミリオンの判断は実に合理的である。

 けれどもその判断は、キャスパリーグを野放しにする事と同義。

 彼の復讐の対象が『人間』である以上、キャスパリーグはやがて他の人間に襲い掛かるだろう。そして花中と違い、殆どの人間にはキャスパリーグの攻撃を凌げる『友達』なんて居ない。彼を野放しにすれば何十、何百、或いは何千……どんな桁数の犠牲者だって生じ得る。

 そんな事、一人の人間として見過ごせない。

 しかし……

「わ、わたしは、猫さんの、お兄さんを、探したいの、だけど……」

「嫌ですよ面倒臭い。見ず知らずの誰かが殺されるかもと思っているのでしょうがそんな事私の知ったこっちゃありません。それに百人も殺せばスッキリして仲良くなれるかも知れませんよ?」

「私も同意見。はなちゃん以外の人間なんて、いくら死んでも私には問題ない。それでアイツの気が済んで無害になるのならむしろ好都合だもの。ま、エスカレートするようなら考え直す必要はあるでしょうけど、今は様子見の段階ね」

 フィアもミリオンも考えがそこまで至っていない訳がない。彼女達は花中以外の人間がいくら死のうとどうでも良い、むしろそこに『メリット』すら見出しているからこそ、キャスパリーグを野放しに出来るのだ。

 あまりにも自分本位な考えに憤りがないかと言えば……実のところ、花中にはあまりない。

 元より彼女達は人間ではない。人間だって釣った魚を食べもしないのに無暗に殺している人が居ても心の中で蔑むだけで大抵は野放しだろうし、ウィルスを殺すべく周囲をアルコール消毒している人は誉められる事すらある。彼女達の考えは、少なくとも彼女達の『倫理観』からすれば筋の通ったものだと、花中は理解しているのだ。

 無論、だからキャスパリーグの事を諦めるかと言えば、それは別問題だ。動物達に動物達の倫理があるように、人間には人間の倫理がある。死人が出る可能性を知った以上、手を打たない訳にはいかない。

 それに、猫少女の兄が最後に残したあの言葉……

 彼を止めなければ大勢の人が命を落とす――――そんな確信が花中の中にあった。そしてキャスパリーグを止められるのは、性質は違えども彼と同等の能力を持ったフィア達以外にない。

 どうにかして彼女達を乗り気にしなければ、だけどどうやって……

 考えども考えども、どうすればフィア達が協力してくれるか分からない。唯一浮かんだ可能性としては『自分の身』が危険だと煽る事ぐらいだが、煽れるような話を持っていない。いや、実は持っているのだが、証拠がない話をしても一蹴されてしまうのがオチだ。

 結局何の手立ても浮かばず、花中には黙って俯く事しか出来ない

 そんな時だった。

「残念だけど、兄さんの事は花中にとっても他人事じゃないよ」

 凛とした少女の声を聞き、花中は俯かせていた顔を跳ねるように上げた。

 振り向いた先、庭へと通じる窓を開けて立っていたのは、先程庭に寝かしたばかりの猫少女だった。花中は立ち上がるや、猫少女の傍まで駆け寄る。猫少女は少し猫背で、右の脇腹……記憶が確かなら、兄に蹴られた部分を手で押さえていた。

「猫さん! あ、あの、もう起きて、大丈夫、なのですか? 痛みとか……」

「うん。まだちょっと痛いけど、そこまでじゃない。それに怪我の治りは早い方だから……それより、話さないといけない事がある」

「話さないといけない事?」

 フィアは首を傾げながらミリオンの横目にし、ミリオンはさっぱりだと言いたげに肩を竦める。

 猫少女が話そうとしている内容を予想出来たのは、恐らく花中だけ。

「兄さんはこの町の人間に、復讐をしようとしているの。たくさんの人間を殺す、そういう方法で」

 そして猫少女の言葉に対し、小さくも頷いたのもまた、花中だけだった。

「復讐ねぇ……具体的には何をするつもりなのです?」

「それは、分からない。どんな復讐をするつもりなのか、兄さんはあたしに殆ど教えてくれなかったし、何処かに行く時もあたしは連れていってくれなかった。多分、あたしが人間を嫌いになりきれていなかった事に気付いていたからだと思う……だからあたしは兄さんが何をするかは知らない。でも、兄さんが人間をどれだけ怨んでいるかは分かっている。だから兄さんは必ず……この町を潰す。大勢の人達を巻き添えにして」

 このまちをつぶす。

 声にすればたった八文字足らずのこの言葉に、花中は虫が全身を這いずりまわっているような悪寒を覚える。小学生の頃自分が住むこの町……行政的には『市』であるが……について調べた時、人口が凡そ十三万人だと知った。あれから五~六年経ったが、人口にそう大きな変動はない筈。猫少女の言う町の規模が市町村単位であるならば、十三万人もの人々になんらかの被害を与えるつもりだという意味になる。

 そしてキャスパリーグの強大な力があれば、それほどの大災厄も起こせるかも知れない。

 フィアとミリオンも考えは同じらしく、今までだらけていた表情に僅かだが張り詰めた想いが戻ってきていた。

「……町一つ潰すとは、穏やかじゃないわね。対象が此処ら一帯だって事は断定出来るの? 方法も知らないのに?」

「うん。具体的な方法は教えてくれなかったけど、まずはこの町の人間からだとは言っていた。元々あたし達はこの町で産まれて、育ってもきたから、怨みの具体的な対象となるのはこの町の人間だけだし」

 明言する猫少女に、ミリオンは爪を噛みながら考え込む。どこまで信じて良いか、どこまで情報としての価値があるか、見極めているのか。

「花中さんコイツの話どう思いますか?」

 フィアは早々に考えるのを諦めたようで、花中に尋ねてきた。とはいえ訊くという事は、鵜呑みに出来ない話だとは思った筈だ。

 けれども花中には『確信』がある。

 『知り合いの証言』という証拠が手に入った今、自分の考えを伝える事への躊躇は消えていた。

「……わたしは、本当の事だと、思う」

「その根拠は?」

「一つは、人間そのものに、怨みがある、事。それは、わたし自身が身を持って、経験したから、間違いない。二つ目は、たくさんの人間を、こ、殺せる、力がある、事……そして三つ目に、別れ際に言った、三日後って、台詞」

「三日後?」

 フィアは覚えていないのか訊き返してくる。ミリオンは少し考え込んだ素振りを見せた後、そういえば、と言いたげにハッとしていた。

 キャスパリーグは去る間際、三日後以降会う機会があれば、と言い残している。それだけなら何をするか分からない……例えばキャスパリーグがこの町から出て行くとかの、ある種楽天的な可能性すら含む……意味深な言葉で終わってしまうが、猫少女が教えてくれた『計画』を含めて考えれば輪郭ぐらいは見えてくる。

 即ち彼は三日後に、この町を『潰す』つもりでいるのだろう。

 どうして三日後なのか、準備に時間が掛かるのかタイミングが丁度良いのか……分からない点は数多くあるが、強大な力を持った彼が三日も時間を費やそうと言うのだ。その計画は恐ろしく大規模で、無差別な復讐劇とならなければ割に合わない。

 そして規模が大きいとなれば、花中がそれに巻き込まれない保証はない。だからこそキャスパリーグは「三日後以降会う機会があれば」と言い残したと言えよう――――その日以降、花中が生きているかは分からないのだから。

「そうねぇ、そうだと考えれば猫ちゃんの話も、あの害獣の話にも筋が通っちゃうわねぇ……」

 そういった考えを花中が伝えたところ、ミリオンは納得したのか、心底面倒臭そうな顔になっていた。花中さえ無事なら他はどうでも良いと言っていたが、逆に言えば花中が危険に晒されるとなれば一大事。推論ではあっても、現実味を帯びてきた以上ミリオンには無視出来ない話だ。

 対して、どうしたのだろうか。フィアは幼さすら感じるぐらいの純朴さを美人顔に帯びさせ、キョトンと首を傾げていた。

「あ、あの……わ、分からないところとか、あった……?」

「ん? ああいえそういう訳ではないのですが」

 自分の説明が悪かったのかと不安になり花中が尋ねてみれば、フィアは片手を小さく振りながら否定する。ただ、理由をすぐに答えるのかと思えば振っていた手を口元に当て、そのまま黙考。

「なんでアイツはそこまでこの町の人間を憎んでるのでしょうかね?」

 ややあって出てきた疑問は割と根本的で、それでいて花中も知らなかったものだった。

「えと……流石にそれは、分からない、かな……」

「そうですか。まぁいくら花中さんが聡明でもそこまで分かったら最早エスパーですし」

 そう言うとフィアは、今度は猫少女をじっと見る。心当たりがあるだろう人物に直接聞くのが手っ取り早い、と思ったのか。

 しかし猫少女は答えてくれず、逃げるように視線を逸らして俯いてしまった。口は力を込めて噤み、拒絶の意思を見せつける……まるで、日記帳に鍵を掛けるかのように。

「分からないなら分からないで構いませんけど?」

 ……そんな感情の機微を全く察しないのはある意味フィアちゃんらしいなと、花中は出てきそうになるため息を堪えるのが少ししんどかった。

「う、うん……ちょっと、分からないな……」

「そうですか分からないなら仕方ないですね。まぁ聞いておいてこう言うのも難ですがアイツが人間に何をされたのかなんてどーでも良いですし。花中さんに危害を加える可能性がある以上見つけ次第殺せば良いんですから」

 猫少女の返答はしどろもどろだったが、フィアは違和感を覚えた様子すらない。うんうんと一人頷きながら納得していた。

 ああ、それで誤魔化されちゃうんだ……と、フィアの将来に不安を抱く花中だったが、やや間を開けてようやく理解したフィアの言葉にハッとなる。

「ふぃ、フィアちゃん、あの、見つけ次第って、もしかして……」

「もしかしなくてもコイツのお兄さんを探す事にしました。流石に町全体に何かをするとなれば花中さんにも危害が及ぶかも知れませんからね。花中さんの希望通り私もあの猫の捜索を手伝いますよ」

「! あ、ありがとう!」

 お礼を伝えると、フィアは自慢げに胸を張りながら大きく鼻息を鳴らす。しょうがないけど後は任せろ、と言いたいのだろうか。

 ともあれ、フィアを乗り気には出来た。

 キャスパリーグが何を目論んでいるかは、未だ見当も付かない。それでもあと三日以内に居場所を探し出し、企みを暴かなければ、大勢の人間の命が失われるだろう。だったら後は三日間、全力を尽くすまでの事。フィアと一緒なら、きっと今回もなんとかなる――――

 そう思った矢先、花中は肩をトントンと優しく叩かれた。

 後ろを振り向けば、すぐ間近にミリオンが。麗しい少女の顔と至近距離での見つめ合いになって一瞬ドキリとし、その近さの理由が内緒話をしたいからだと、ミリオンがそのままの距離で話し始めてやっと理解する。

「ねぇ、はなちゃん。ちょっと良いかしら?」

「え? あ、は、はい……えと……なんでしょうか?」

「本当に猫ちゃんからお兄さんの目的、聞き出さなくて良かったの?」

「……はい」

 ミリオンからの質問に、花中は言い淀みを挟みながらも、深く頷きながら答える。

 ミリオンが言いたい事も分かる。フィアは動機を軽視していたがとんでもない。借金に苦しむ人が行う犯罪は恐らく強盗や窃盗だろうし、三角関係に陥った人は恋人を殺してしまうかも知れない。理由に納得出来るかは別にしても、動機が分かれば過程を推測しやすくなる。「猫がたくさんの人間を殺そうとしています」という曖昧な認識が、動機という輪郭を持って姿を見せるのだ。もしかすると全てを明るみに出す鍵となり得る、重要な『証拠』である。

 だけど、それを手にするには、閉じた猫少女の口を抉じ開けねばならない。

 命は大切だ。失われたら、もう戻ってこないものだ。

 でも、だから隠そうとしている秘密を暴き、逃げる心を捕まえ、抉じ開けるのは『正しい』のか?

 花中にはそうは思えない。いずれ問い質さねばならなくなったとしても、それは今じゃない。まだ三日もあるのだ。やる事をやり尽くした後だとしても、大丈夫な、筈。

「ふーん……まぁ、はなちゃんが無事なら、どんな結果になろうとどうでも良いけどね。地球上からはなちゃんを探し出した私が手伝えば、町に潜伏する猫の一匹ぐらい簡単に見付けられるし」

「て、手伝って、くれるのです、か?」

「さかなちゃんも言ってたけど、町なんて規模でやらかされたら流石に関係ないとは言えないもの。勿論事実が分かるまで関係あるとも断言出来ないけど、何か起こってからじゃ遅いし。面倒は嫌いだけど、やらなきゃいけない事をやらないほど怠けているつもりもないわ」

「! あ、ありがとう、ございますっ」

「いえいえ。ま、私が手伝うのだから明日には片が付くでしょうし、適度に息抜きしながら頑張りましょうねー」

 ミリオンはそう言いながら手を振ると、お喋りをしているフィアと猫少女の輪に入る。耳を傾けると、どうやらフィアと猫少女の会話は世間話、好きな食べ物の話題のようだ。

 あの二人は、今やすっかり打ち解けたらしい。ミリオンもすぐに溶け込むだろう。キャスパリーグの妹だからもしかしたら……なんて心配はする必要もなかったようで、むしろ不安が過った自分の卑屈さを思い知らされた気分になり花中は顔を赤くする。

 けれども、朱色の顔に浮かぶのは小さな笑み。

 キャスパリーグが何をしようとしているのかは、未だ見当も付かない。だけどこうして集まった『三匹』が力を合わせ、彼女達に比べれば無力に等しい自分が足を引っ張らなければ、『一匹』の目論見を暴けない筈がない。

 必ずキャスパリーグを止めてみせる。

 人間を殺させないためにも……家族の暴挙を止めたいという『友達』の願いを叶えるためにも、絶対に。

「(……晩ご飯は何を作ろうかなぁ。猫さんも食べるかも知れないから、ネギは避けてお肉中心、味付けは薄めの塩コショウに……ああ、その前に庭の洗濯物入れて、それからお風呂も……)」

 きっとこの小さな悩みが三日後以降も続くと信じ、花中は決意を固めるのだった――――




 しかし人間が決意を固めたところで、それで世界が思うように回ってくれる訳ではない。

「み、見付からない……!?」

 花中の決意に至っては、最初の一歩すら満足に踏み出せない有り様だった。

「ええ全く全然影も形も臭いも見付からない状態でして」

 顔を青くする花中にフィアは申し訳なさそうに、けれどもあまり気にした素振りもなく、ハッキリと現状を伝えてくる。フィアの隣に立つミリオンは口先を尖らせながらそっぽを向き、同じくフィアの傍に立つ猫少女は唇を噛み締めながら着ているワンピースの裾をきゅっと握り締め、二匹ともフィアと同様の成果しかなかったと仕草で物語っていた。

 危機的な時ほど、正しい現状認識が大事だ。だがあまりにも無慈悲に突き付けられた事実は、あまり強くない花中の心には些か衝撃が大き過ぎた。

 此処が、放課後を迎え、家に帰ろうとする生徒の往来激しい校門の傍だというのも失念し、花中は遠退く意識に任せて倒れそうになってしまう。幸いフィアが身体を抱き止めてくれたので頭を地面に叩きつける事にはならなかった。が、美形に属するフィアにお姫様よろしく支えられていると分かるや花中は茹でダコのように顔を赤くし、逃げるように自立。その動きが却って衆目を集めてしまう事に気付いて、身体を縮こまらせる。

 無論、恥ずかしさに悶えている時間的余裕がない事は忘れていない。

 キャスパリーグが示した三日の猶予は、考えられる最短……三日目の午前零時で計算した場合、もう半日も残っていないのだから。

「あの、本当に、影も形も……?」

「あまり見くびらないでほしいわね。こちとらウィルスよ。ナノサイズの隙間があれば何処にでも入り込めるし、入り込めないぐらい機密性の高い場所があったら怪しくて調べてる。その私が一日半も掛けてこの町全体を虱潰しで調べたのよ。そこら中の家、工場、お店に公共施設、下水道、上水道、木の上土の中、全て調べた。絶対に、この町にキャスパリーグの姿はないわ」

 おずおずと訊き返せば、真っ先に答えたのはミリオン。自慢の探査能力を疑われてムッときたのか、早口気味で、言い方も刺々しい。花中は押し込まれるように、きゅっと口を噤む。

「私は臭いで辿ろうとしましたが駄目ですね。残り香もないです。アイツと出会った日から雨は降ってないのでもう少し残っていても良さそうなんですけどねぇ一体何処に消えたのやら」

「あたしは、隠れるなら下水道とかが怪しいと思って調べたけど、見付からなくて……」

 続いてフィアと猫少女からの報告。こちらも痕跡すら見つけられなかったという話だ。

 どういう事か。キャスパリーグと出会ってから彼是二日目が経っている。彼が宣言通り『復讐』を始めるつもりなら、猶予はあと一日……深夜零時に実行予定なら、今が午後四時近くである事を考慮すると八時間ちょっとしかない。なのにキャスパリーグは町に居ない。例えるなら、スポーツの試合開始時間が刻々と迫る中、相手チームがまだ現地入りすらしてないような……そわそわとした気持ちの混ざる違和感を覚える。

 何故キャスパリーグは町に居ない? 三日後言はフェイクで、もう復讐を実行しているのか? 否、今朝のテレビで疑わしいニュースはやっていなかったし、学校に居る間も警報のようなものはなかった。計画はまだ始まっていないと考えるべきだ。ここで諦める訳にはいかない。

「あ、あの、申し訳ないです、けど、ミリオンさんは、も、もう一度、町を探して、もらえます、か? その、もしかしたら、今まで遠くに隠れて、いて、今日とか明日、戻ってくるつもり、かも」

「……まぁ、そういう可能性もあるわね。しょうがない。町の境界線上に展開して、侵入してくる奴を片っ端に観測しとくわ。ただはなちゃん達にやられた分の個体数がまだ回復しきれてないから、町の中まではフォロー出来ない。そっちはさかなちゃん達で探してよ」

 面倒臭そうにそう言い残すと、ミリオンの姿は一瞬にして霧散。ナノサイズの集合体が一斉に散り散りとなり、人の目には見えなくなる。傍から見れば人体消失のような光景も、なんやかんや知り合ってからの二週間で度々見ていればさして思う事もない。校門近くなので人の往来はあるが、ミリオンなら人が見ていない瞬間にやった筈だ。それに一刻を争う今、些末な事で時間を潰すなど愚の骨頂である。

 こちらの事は見えている筈のミリオンを、花中は手を振って送り出した。

「しかし本当にこの町が襲われるのですかねぇ? 個人的にはどっか余所の町でやると思うのですけど」

 ……送り出しておいて難だが、フィアの指摘があまりにも的確で、花中はため息を吐いてしまった。

「で、でも、兄さんはこの町の人間を怨んでいて……」

「それはあなたの主観でしょう? 理由を知らないのなら所詮は憶測です。大体私という圧倒的強者が居るとなればこの町を襲おうという気が失せるのは至極当然。ついでにミリオンとあなたも居て数的有利すらもこちらにある訳ですし諦めるのが真っ当な考え方だと思いますが?」

 咄嗟に、といった感じに反論を唱える猫少女だったが、フィアの正論にぐっと言葉を飲み込んでしまう。確かにキャスパリーグは、花中を殺そうとした時も怒りに震えるフィアとミリオンを見るや撤退を決めた。彼がフィアを圧倒的強者と認識したかは兎も角、厄介な障害だとは思っただろう。人間を殺したいほど憎んでいるが、判断力を失うほど狂ってもいない。妨害を警戒したキャスパリーグが計画を変更する、という展開は大いにあり得る。

 しかし猫少女には、キャスパリーグがこの町に拘る事への『確信』があるようだ。恐らくその核心は彼女が隠そうとしていたキャスパリーグの『動機』に関わるだろうから、訊いても中々話してはくれないと思うが……花中としては、妹の予感を信じたくもある。

 どちらの言い分が正しいか、判断が付かない。どの道今はなんの証拠もない以上、とことん調べるしかない。

「もう少し、調べよう。あと一日あるし、明日は学校も休み、だから、夜遅くまで、考えられる、し……フィアちゃん、お願い」

「花中さんがそう言うのならそうしましょうかね」

 花中が頼むとフィアは校門をくぐり町へと向かったが、その動きが心なしか普段よりも鈍く見えたのは気のせいか……

 いや、気のせいではないだろう。

 フィアにしろミリオンにしろ、花中が危険だからキャスパリーグを探し出そうとしているに過ぎない。キャスパリーグがこの町に居ないかもとなれば、探索が面倒臭くなってくるのは自然な事。彼女達は、人間が死ぬ事自体はどうでも良いと思っているのだから。

「花中……」

 最後まで残った猫少女が、不安を隠し切れていない眼差しを向けてくる。フィア達の考えを知っているが故に、人間を守りたい彼女にとっては気が気じゃない筈だ……花中だって、同じ想いなのだから。

「……まずは、居場所を特定、しないと。少なくとも、二日前までは、間違いなく、この町に、居たんです。姿はなくて、も、痕跡ぐらいは、残ってる、筈。考えるのは、その後です。一緒に、探しに、行きましょう?」

 正直に、期待させないよう、だけど希望は捨てさせないよう、花中は選んだ言葉で猫少女を励ます。

 猫少女は無言だったが、小さく頷いてくれた。ただ、冷静な言葉には熱意が足りない。頷いた後も猫少女は動かず、花中もちょっと動き出せず。

「と、とにかく今は行きましょう! しゅ、しゅっぱーつ!」

 片手を振り上げて無理やり気合いを生成。大声でその気合を放出。行く当てもなく校門から跳び出し、町へと繰り出した。後ろからは猫少女のズンズンという足音が聞こえるも、あまり気分が乗っている雰囲気はない。

 今の天気はどんよりとした曇り。朝の天気予報では夕方から大雨との話。雲の暗さからして、予報は見事当りそうだ。通学鞄に折り畳み傘は入れてあるが、大雨との事なのでどこまで役に立つかは分からない。

 先行きの悪い空模様が自分達の未来を暗示しているようで、注入した気合いがあっという間に蒸発していくのを、花中はひしひしと感じ……




 結論から言えば、予感は的中した。というよりも分かっていた。

 『視覚』と『触覚』はミリオンが調べ上げた。『嗅覚』はフィアがそれなりに調べてくれた。総数数千兆以上にもなるミリオンは、本人が言っていたように町中を隙間なく調べられる。フナであるフィアの嗅覚は、連れ去られた花中の居場所を見付け出せるほど鋭く、正確だ。恐らく日本の警察が総力を結集させても、彼女達二匹ほど正確かつ迅速に調査する事は出来まい。

 その二匹が確たる証拠を見付けられなかったのだ。

「……何も見付からなかったね」

「……何も、見付けられません、でした……」

 花中達が二時間ほど町中を歩き回って得られた成果が、両足の痛みと全身に溜まる疲労感、それからほんの五分前に降り出した大雨にやられて濡れた衣服だけというのも仕方ない事だった。

 今花中と猫少女は雨宿りと称し、とある小さな本屋の中で休憩中。雑誌などが置いてある店の窓際部分に立ち、外の様子を眺めている。後ろには店員とお客さんが数人居たが、当たり前だが花中達を気にしている様子はない。普通の声で話していても、聞き取られる心配はないだろう。

 それでもあまり一般人には聞かせたくない話。花中達の会話は、自然と小声になっていた。

「見付かり、ませんでしたね」

「見付からなかったね……」

 ほんのちょっと言葉を交わしただけで、二つの口からため息が漏れ出る。

 キャスパリーグは無差別の大量殺人を計画している、という基本情報を元に人がたくさん集まる繁華街 ― 以前加奈子と遊んだゲームセンターがある一角だ ― を花中達は調べていたが、証拠と呼べるものは何も見付からなかった。証拠というのは足跡や体毛といった物証のみならず、臭いのような感覚的な証拠も含む。猫の嗅覚は人間の数万倍と言われており、猫少女の嗅覚もまたフィア同様に強力だ。

 その猫少女が何も感じなかったのだから、キャスパリーグは少なくともここ数日は繁華街に近付いてもいないのだろう。もしくは今花中達に本屋での休息を強いている大雨が、彼の臭いを洗い流してしまったのか。

「……本当に、この町にはもう居ないの、でしょうか……」

「そんな筈ないと、思うけど……」

 花中の弱気に猫少女は反論するも、一昨日までは断言調だった言葉から自信が喪失している。彼女もひょっとしたら兄はもうこの町に居ないのではと思い始めているのだろう。

 このままやる気を失い、消極的に諦めてしまうのは不味い。居ないなら居ないと断言しなければ、それは間違った決断になってしまう可能性がある。

 一旦落ち着いて考えよう。

 都合の良い事にここは繁華街。脳のエネルギー源となる糖分たっぷりのジュースが、自販機やコンビニでいくらでも手に入る。

「少し、休みましょう。疲れていては、大事な事も、見逃して、しまいます、から」

「うん……」

「えと、ここで、待っていて、ください。わたしは、飲み物を、買ってきます」

 猫少女を本屋に残し、花中は折り畳み傘を開いて早速飲み物を買いに行く。ざぁざぁと音を立てている雨に対し、折り畳み傘のサイズではちょっと守備力が足りないが……この程度の事で足止めを強いられるのが煩わしくて、花中は力強く雨空の下を歩いた。

 その一人歩きの中で花中は考える。

 ……考えると、どうにも違和感が胸をくすぐる。

 戦闘能力が出鱈目なほど優秀なのでうっかり失念しそうになるが、ミリオンは探査能力もえげつないほど優れている。何千兆もの小さな存在が虱潰しに広がり、ナノ単位の隙間から内部に入り込み、隙間がなければその密閉性に疑念を抱いて力尽くで侵入を試みる。万一それも失敗したら『仲間』に報告だ。逃れる事はおろか、出し抜く事も出来やしない。

 そのミリオンが居ないと言った以上、キャスパリーグは本当にこの町には居ないのだろう。フィアと猫少女の嗅覚も、補助的ながらミリオンの結論を裏付けている。キャスパリーグが町から去った理由も、フィアとミリオン、そして猫少女の三匹を相手に戦うのは、彼自身が言っていたように『分が悪い』のだとすれば納得出来る。この点に疑問を挟む余地はないだろう。

 しかし、証拠が全く出てこないとはどういう事か。

 思い返す限り、キャスパリーグは自分達兄妹以外にミュータント……特殊な能力を持った生物が存在していた事を知らなかった様子。フィア達の存在は色々噂になっていたが、それはまだオカルト話の域だった。フィア達の存在を知る事が出来る情報とは言えず、キャスパリーグが感知していなくともおかしくはない。

 こうなるとキャスパリーグは、自分の計画を阻む脅威があるとは露ほどにも思っていなかった筈だ。あの驚異的身体能力があれば人間など恐れる必要はないし、抵抗が可能な猫少女も彼の ― あらゆる意味で ― 敵ではない。ならば『何か』を恐れて準備をするのは杞憂というもの。逃亡の準備など無駄であり、むしろ不安要素である妹が何かしでかす前に済ませてしまう方が合理的となる。

 だとすれば花中達の前から去った時、表向き冷静沈着を装いつつもキャスパリーグは相当慌てていた筈だ。邪魔者が現れた時の対策なんて何もしていないし、考えてもいない。このままではあの三匹に邪魔されて、計画が頓挫してしまう。せめて復讐の準備が整うまでこの町から離れ、身を隠さねば……証拠の隠滅などしている場合ではない……

 ここで違和感が疑問へと変わる。証拠の隠滅をしていないのなら、足跡や臭いぐらい、いくらでも残っていそうなのだ。少なくとも、花中達と出会うまでの数日分ぐらいは。

 臭いは雨で流れているとしても、足跡はどうにもならない。猫少女でも時折コンクリートにヒビを入れ、一昨日のキャスパリーグも思い切り道路を割っていた。どれだけひっそり活動してもこれは消せるものではない。それでも残っていないという事は、考えられる結論はただ一つしかない。

 キャスパリーグはここ数日、復讐の対象であるこの町に殆ど近付いていないのだ。

「……どういう、事……?」

 探していた自販機の前まできて、花中はその場で思案に耽る。

 フィア達と出会う前から町に殆ど立ち寄っていないとなると、いよいよ花中は自分の予想が信じられなくなる。キャスパリーグはもしかすると、本当にこの町を攻撃する気はないのでは。三日後も無事だったらという捨て台詞はブラフで、この町への復讐には拘らないつもりなのか。花中を目の前にして殺すのを諦めたように、フィア達が居るこの町への攻撃を諦めたと考えるのも……

 ……そこまで考えて、花中は首を横に振る。いくら考えても元の考えを捨てきれない。新たな手掛かりがないと思考回路を切り替えられそうにない。

 そして手掛かりと言えるものは、今まで開ける事を避けてきた、猫少女が守るように抱えている心の『中身』ぐらいしかもう残っていない。

「……猫さんに話を聞こう」

 猫少女の秘密がどのような形で真実を明るみにするか、或いは何も明るみにならないのかは分からないが……そっとしておくには、自分はあまりにも無力だった。最早それしか手掛かりがない。

 そして隠しておきたい秘密を暴くような悪者となるのは、自分だけで十分。

 決意を固めた花中はジュースを買ったら早速訊きに行こうと、自販機に五百円玉を入れた。

「おーおぎーりさんっ!」

「わひゃぁっ!?」

 刹那、誰かに名前を呼ばれた――――と思う前に背中をポンッと叩かれ、花中は驚きのあまり掴んでいた傘を手放した。のみならず前につんのめってしまい、

「ごっ!?」

 おでこが自販機にクリーンヒット。後からやってくるジンジンとした痛みに耐えかね、花中は額を両手で押さえながらしゃがみ込む。

「え、えと、大桐さん……大丈夫……?」

 そんな花中を心配する声が、またしても背後から。向こうとしても花中がここまで驚くとは思っていなかったようで、かなり申し訳なさそう。

 ここまで猛省されてしまうと、花中も同じぐらい申し訳なく感じてしまう。

「立花さぁん……な、なんで、こんなとこに……?」

 雨空に放り出されてぐっしょりと髪を濡らした花中が振り返ってみれば、そこには同じく髪を濡らした晴海が立っていた。彼女は傘を持っておらず、手ぶらな両手は花中か、それとも落ちた花中の傘に伸ばすべきか、迷っているのかおろおろしている。

 傘があるのに二人揃って無防備に濡れるという、なんとも奇妙な光景の中晴海は恐る恐る口を開けた。

「えと、加奈子に誘われてゲームセンターに来たんだけど……」

「げ、ゲームセンター、ですか?」

「うん。今日は暇だったから学校が終わってすぐに……でも、やってたら雨が降ってきてさ。そしたら加奈子の奴、あ、今日は折り畳みしかないから二人は入れないやーとか言ってそそくさと帰りやがったのよ。んで、まぁ、困ってたら大桐さんを見付けたから、傘に入れてほしいなーっと思って」

「せ、背中を叩いたの、ですね……」

 つもり元を辿ると、加奈子のせいらしい。しかしトラブルを起こした店に二人で遊びに行くとは……加奈子が豪胆なのか、晴海が能天気なのか。そもそも二人はやっぱり仲良しなのか、仲が悪いのか。花中にはよく分からない。

 とりあえず、ぶつけようのない激情を飲み込むように、花中は深呼吸を一つ。

 落ち着きを取り戻した花中は立ち上がり、苦笑いを浮かべながら晴海と向き合う。晴海は落ちた傘を拾い上げると花中に返し、花中は晴海を傘の中に入れて、二人揃って安心したように一息吐いた。折り畳み傘の下に無理やり収まっているので少々窮屈だが、密着するのが好きな花中はちょっとドキドキしている。

 と、花中はふと疑問を抱く。

「えと、今朝の天気予報では、午後から雨って、言ってたと、思うのですけど」

 どうして晴海は傘を持っていないのだろう? その疑問を特に躊躇なく口にしたところ――――晴海の返事が舌打ちだったので、花中は思い切り後退りした。傘だけは晴海の方に残るよう腕も伸ばしたので、花中だけが再び雨空の下に出される。

 花中のそんな姿を見た晴海は「あ、ごめんね」と言いながら手を振り、退いた花中の方へと歩み寄る。

「今の舌打ちは大桐さんに対してじゃないから安心して。なんというか……自分に対して?」

「じ、自分に、ですか?」

「うん。実は今日の天気予報見てなくてねー」

 へらっと笑いながら晴海はカミングアウト。成程、と思うのと同時に、意外だとも花中は感じた。

「意外、です。立花さんは、そういうの、毎日、チェックしてそう、なのに」

「いやいや、あたし結構ずぼらよ? バードウォッチングしに山に登る時は流石に見とくけど、普段はあんまり見ないわね」

「そうなの、ですか?」

「そうなのー。それにさ、とりあえず折り畳みを持っておけば良いって感じだし?」

「? 持っておけば良いのに、どうして、持っていないの、ですか?」

「う……」

 些細ながらも疑問を突き詰めてみると、晴海は鈍い嗚咽のような声を漏らして固まる。それから晴海は顔を逸らしたので、何か言い辛い事があるようだった。

 もしかしたら、深い事情でもあるのだろうか?

「あの、言い辛い事なら、別に……」

「あー、そういうのじゃなくて、なんつーかな、一人で勝手にしてる分には全然気にしないけど、改めて人に言うとなると恥ずかしいというか……」

「?」

「……折り畳み入れてると鞄が圧迫されるから、晴れって言われると出しちゃうのよ」

「あー」

 晴海から返ってきた答えに、花中は苦笑いしながら納得した。晴れだと確定しているのなら、折り畳み傘は鞄の中身を圧迫する無用の長物となる。出してしまいたくなる気持ちは、分からなくもない。

 しかしそれをやってしまうと、いざ必要な時に折り畳み傘が鞄の中に入っていない、という事態を招きかねない。普段天気予報を見ないとなれば尚更。そして見事その事態に陥ってしまったのが、今の晴海という訳だ。

「……あの、天気予報は、毎日見た方が……」

「あたしだって分かってるけどさぁ……それに今日家に帰ったら入れようと思ってたんだもん。雨は明日からだって話だったから」

「明日? ああ、昨日の週間予報、ですね……あれ? 昨日も、今日は雨になるかもって、言ってたような……」

「いや、一昨日の朝の天気予報」

「……………」

「な、何よ」

 花中の冷たい眼差しに晴海は居心地悪そうに身を捩ったが、花中はその目を止めない。というより止められない。いくらなんでも、一昨日の天気予報を信じて行動するのはどうかと思う。

「んもーっ! あたしは悪くないもん! 天気予報が適当なテレビが悪いのよ! 一昨日は今日が晴れで、明日が雨って言ってたんだからっ!」

 ついには目線に耐えられなかったようで、晴海は腕を組んでそっぽを向いてしまった。

 これには花中も苦笑い。真面目そうな彼女のちょっとズボラなところが、ギャップを感じて可愛らしい。何時までも観賞していたいが……不貞腐れたままにするのも、花中の性格的に出来ない。

「あの、立花さん、落ち着いて、ください。明日の雨が、今日になったのなら、明日は晴れるかもだし、何事も、良い方に」

 とりあえず宥めようと花中は優しく語り掛け、

 その言葉を最後まで言い切る前に、声が出なくなった。

 ――――今、立花さんは何を言った? 自分は、なんて言った?

 不意に固まった花中を不審に思ったのか、晴海は怒りを収めて花中の事をじっと見詰めてくる。「大桐さん、どーしたの?」と声も掛けてくる。しかし花中はその全てを脳からシャットアウト、弾き返す。

 それは可能か?

 実現出来るか否かで言えば、容易に成し遂げられるだろう。『彼』の肉体に十分な力が宿っている事を、自分達は間に当たりにしている。結果はどうだ? 詳しい位置関係までは知らないのでなんとも言えないが、しかし『それ』が設置されているのは、女子高生が遊びに行くつもりで立ち寄れる距離だ。その上『通路』が町のど真ん中を走っている。警報システムはあるだろうが、住民の避難が間に合うかは分からない……間に合わなかった時の事は、想像したくない。準備はどうだ? これだけ『有る』のなら恐らく準備に問題はないし、あまり間を開けるのも好ましくない。

 三日後という話は?

 ……早まる可能性が、高い。

「た、立花さんっ! その、えと……わ、わたし、急用が出来たの、で、しし、失礼しますっ! 傘は使ってくださいっ」

 深々と頭を下げるが早いか、花中は雨の中へと駆け出す。散々歩き回った足が悲鳴を上げているが、そんなのは無視。

 最早、一刻の猶予どころか、今この瞬間全てが終わりかねないのだから。

 大雨の中、全身がびしょ濡れになる事も厭わず花中は猫少女の元へと戻り――――

「……こういう時、傘をこっちに残していくのが大桐さんらしいわねぇ」

 一人残された晴海は花中の傘を、持て余すようにくるくると回すのだった。

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