第296話 兄貴

 迫り来る危機を避けようと、クリスが再度跳躍をしようとした瞬間、彼は左側から強い風を受け、体勢を崩してしまった。


 その隙を待っていたかのように、眼前のレイガスがクリスの腹目掛けて、拳を打ち込んでくる。


 両腕で何とか攻撃を受け流そうとしたクリスだったが、その衝撃を全て流すことは出来なかった。


 ガードした腕は大きく上に弾かれ、自然と彼の胴はがら空きになってしまう。


 そんな状態になった彼が対処する時間などある訳もなく、気が付けば、腹部の強烈な痛みと吐き気がクリスを襲う。


「ぐはっ!」


 肺の中身を吐き出し、そのまま仰向けに倒れ込んだクリスは、勝手に動き出す身体に驚愕した。


 倒れ込む勢いのまま上半身を捻ると、両腕を床に付いて、流れるように側転をする。


 両手で力一杯に体を飛ばしたことで、レイガスと一定の距離を取ることに成功したクリスだが、まだ安心できるわけでは無かった。


 側転の反動で宙を舞うクリスの着地点から、木製の鋭い槍が勢いよく突き出してくる。


 それらの槍に紛れるように、細身の剣を振りかぶったバートンが、クリス目掛けて飛び上がってきているのだ。


 視界の端でその光景を捉えたクリスは、すぐさま左腕を振ろうと試みるが、飛び上がるバートンの方が一拍速かった。


 左から右に薙いだクリスの腕の下を掻い潜ったバートンが、すれ違いざまに剣を振る。


 途端、クリスの左わき腹を覆っていた鱗がはじけ飛び、鮮血が舞う。


「っ!」


 痛みを堪えるように声を抑えるクリスは、右手で傷口を抑えながら落下を始める。


 しかし、そのまま落下してしまえば、突き出てきた槍に貫かれてしまうだろう。


 分かり切った予測が彼の頭の中を過り、それを理解したかのように、身体が動き出す。


『クリス! ちょっと痛いかもだけど、我慢して!』


 頭の中で声が響くと共に、傷口が疼く。


 そんな痛みに怯んでしまいそうになる自分を情けなく感じたクリスは、アイオーンに体を委ねることにした。


 頭から落下している体勢のまま、左腕を左前方へと振り抜く。


 その勢いで飛び出した鞭の先端が床に張り付くと同時に、クリスの左拳が強く握り込まれた。


 それを確認するや否や、振り抜いていた左腕を強く引き戻すと、当然、彼の身体は真下への軌道を大きく逸れて落下し始める。


 急な方向転換のせいで、バランスを崩してしまったクリスは、背中で滑るように着地したことで、全身を殴打するが、貫かれるよりはマシだろう。


 そうしている間にも、更なる攻撃が繰り出されようとしていた。


 全身の痛みに思わず弱音を吐きそうになったクリスだが、チラチラと視界に入って来るミノーラ達の姿を見て、何とか自分を奮い立たせた。


 勢いよく立ち上がると、背後から駆け込んできた何者かの拳を左に避け、振り向きざまにカウンターの蹴りを入れる。


 彼の放った蹴りをヒラリと躱したサチは、着地と同時に鋭く跳躍して見せ、一息でクリスの懐まで飛び込んできた。


 その余りの速度に、危うく反応が遅れそうになったクリスだが、アイオーンは把握できていたようで、左手で突き出された彼女の拳を軽々と受け止める。


「捕まえた!」


 相変わらず無表情のまま、次の攻撃を仕掛けて来ようとするサチに向けて、クリスはそう呟く。


 勢いよく振り上げられるサチの左脚による蹴りを、右腕で防いだクリスは、間髪入れずにサチの腹に強い蹴りを打ち込んだ。


 反動で後方に吹っ飛んで行ったサチは、しかし、完璧と思われる受け身を取って見せると、並び立ったバートンと同時に、攻撃へと転じてくる。


 更にその背後から迫りくるレイガスの姿を見て、気を引き締めたクリスは、三人を迎え撃つために身構える。


 一直線に駆け込んでくるバートンの素早い斬撃と、サチの鋭い蹴り、そして、レイガスの重たい拳。


 それらの攻撃を身体を逸らして避け、あるいは、腕の鱗で弾き飛ばしたクリスは、待った。


 反撃に転じる機会を。


 休む暇なく繰り返される攻撃を何とか凌ぎ、傷の痛みに耐える中で、バートン達の連携に一拍の隙を見つけた瞬間。


 クリスは大きく一歩を踏み出し、迫りくるサチの蹴りの下を掻い潜る。


 そうして、先ほどと同じように彼女の腹部に向けて右の拳を突き入れようとした瞬間、彼は視界が大きく揺れ動くのを感じた。


「な、にが……!?」


 頭を思い切り揺り動かされたような衝撃で、バランスを崩したクリスは、そのままその場に倒れ込んでしまう。


 何とか顔を上げ、何が起きたのか確認しようとした時、彼はこちらをじっと睨みつけている一人の男に気が付く。


 その男は、全身から出血するほどの重傷を負いながら立ち尽くし、右腕を前に突き出していた。


 そうして、忌々しいものを見るようにクリスを見つめると、短く告げたのだった。


「……私の妹に、手を出すな……」


 今にも吐血して倒れそうなクロムは、それだけ言うと、ゆっくりとその場に座り込む。


 しかし、依然としてクリスに向けられている眼光は鋭く、光を失う様子は無かった。


 つい先ほどまで、サチによってボコボコにされていたクロムが、彼女を庇った理由。


 その理由に驚きを感じたクリスは、同時に、やるせなさを覚える。


「妹……? どういう事なん?」


 先程、オルタがサチに対して怒りを顕わにしていた事を思い出しながら、クリスは考える。


 しかし、その思考は長くは続かなかった。


 うつ伏せに倒れ込んでいるクリスの右脚のふくらはぎに、激痛が走ったのだ。


 思わず痛みの方へと目を向けると、バートンが剣を突き立てている。


「私は容赦などしない男なのでね。下手に逃げられるのは防ぎたいのだよ」


 冷淡に言ってのけるバートンを見あげながら、クリスは歯を喰いしばる事しか出来ないのだった。

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