第262話 犠牲
クロムの名乗りを聞いたクリスは、思わず呆けてしまった。
なぜ、今この状況で、クロムが現れるのか、理解が出来ない。
クリスにとって目の前に立っているこの男は、全ての元凶ともいえる存在だ。
「君はクリス君だろ? 妹の件は、申し訳なかったと思っているよ。君がここにいるってことは、ちゃんと妹を助けることは出来たのかな? 都合良く私が居なくて、簡単に救出できたと思うんだけど」
悪びれる様子を見せることなく、謝罪を述べるクロム。
その言葉で我に返ったクリスは、素性がバレていることに驚き、同時に困惑した。
クラリスを攫うことは本意では無かったとでも言うのか、救出できたことを確認されるとは夢にも思わなかったからだ。
「……なにがしたいんや」
理解できない言動に対する困惑と、薄っすらと浮かべている笑みに対する憤りを綯い交ぜに、クリスはそう呟いた。
呟きを聞いたクロムは、軽く肩をすくめてみせる。
恐らく答えるつもりは無いのだろう、明確な返答をすることは無いままに、明後日の方向を見上げ始めた。
「さて、これ以上は時間の無駄みたいだね」
「待て! どこに行くつもりや!」
明後日の方向を見上げたクロムの仕草が、精霊への合図だと気づいたクリスは、咄嗟に駆け出し、クロムを組み伏せようと試みた。
しかし、既に宙に浮きあがり始めたクロムから、強烈な風が吹き荒れたかと思うと、クリスは一瞬にして体が宙に弾き飛ばされたことを知る。
時間にして数秒。
背後へと弾き飛ばされた彼は、背中に痛みを覚えながら地面を転がった。
「くっ……!」
打ち付けるように背中から着地した痛みで、彼が悶えていると、上空からクロムが語り掛けてくる。
「君がどれだけあがいたところで、私を止めることは出来ないし、誰かを救うことも出来ないよ。どうせなら、そこで倒れている君のお仲間に、最後の晩餐でも食べさせてあげたらどうかな?」
「アイオーンは死なん! 絶対に俺が助けるけん!」
クリスとアイオーンを見下ろしながら告げるクロムに対し、怒りを抱いた彼は、思わず叫んでいた。
そんな彼の様子を鼻で笑うクロムは、飛び去る前に一言付け加えて行く。
「それは出来ないお話さ。流石のドラゴンでも、生命が消えて行くのを止めることは出来ないよ。それに、どっちみち、全員助からない」
「何を言って……!」
言葉の意味を問いかけようとしたクリスだったが、言い終わる前にクロムは飛び去ってしまった。
西の方角。
夜空に光り輝くミスルトゥの方へと飛び去ってゆくその影を、クリスはただ眺めることしかできない。
「アイツの言う通りやん……俺に何が出来るん?」
不意に湧き上がってきた言葉が、口から零れ出す。
自身の声を耳で聞き、改めて落胆したクリスは、つい今しがたクロムに言われた言葉を頭の中で反芻した。
繰り返すたびに自信が削がれて行くのを感じたクリスは、その場にしゃがみ込むと、呟いた。
「……最後の晩餐……アイオーンって何が好きなんかな」
零れ出た弱音を確かめ、これ以上自信を失わないように、彼は思い出すことに集中する。
氷壁の山脈で初めてアイオーンにあった時、バリボリと音を立てながら氷を咀嚼する姿を見た。
思い返せば、アイオーンが何かを食べる姿をあまり見ていない気がする。
ザーランド周辺の森の中で食事を摂った時も、シチューを一口味わってはいたものの、口には合わなかったらしい。
アイオーンの語った過去の話の中でも、出て来る食事は全て凍っていたように思える。
「氷かぁ……」
こんなところに氷が存在するはずもなく、必然的に、クリスは自身の左腕を見つめた。
ポケットには『氷』と掛かれたリキッドがあるため、彼が考えていることを実行に移そうと思えば、できなくは無かった。
ただ、それが本当にアイオーンのためになるのかと問われれば、答えは分からない。
「やってみるか!」
クロムの言葉に従うと言うのも癪ではあるが、とは言え他に出来ることも無さそうに思える。
どちらにせよ、この場にアイオーンを置き去りにして、立ち去ることだけは、クリスにはできなかった。
立ち上がり、小走りでアイオーンの傍らに片膝を付いた彼は、ポケットから小瓶を取り出すと、例の如く籠手に注ぎ込んでゆく。
そうして、全身に冷気のようなものが駆け巡ってゆくのを感じながら、クリスは一思いに、アイオーンの口へと左腕を突っ込んだ。
ヒンヤリとしているアイオーンの顔を右腕で撫でながら、クリスは囁く。
「アイオーン。これでも食って元気出せ! 絶対に死ぬなよ」
最期の一言に願望を込めながら告げた彼は、何度も何度も、左の拳を握り込む。
握り込むたびに、籠手先の冷気が強くなっていることを感じながら、クリスは祈った。
アイオーンの呼吸は刻一刻と弱まってゆく。
回復の兆しが一向に見えないまま、どれだけの時間そうしていたのだろう。
クリスがふと気が付いた時、アイオーンの呼吸音はひっそりと鳴り止んでいたのだった。
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