第239話 形勢

 口調とは裏腹に、何か危険な香りを内包させているような女性が、ミノーラとクリスの姿を交互に見比べている。


 対するミノーラは、クリスとクラリスの前へと進みながら、女性と大柄な男を睨みつけた。


「返事はして下さらないのでしょうか?」


 厳しい目つきのミノーラに向かって、女性は少し寂し気な表情をしながら言ってのける。


 しかし、そんな表面上の演出に、ミノーラは惑わされない。


「二人とも、私が時間を稼ぐから、すぐに逃げてください!」


 背後にいるクリスに言葉を投げ掛けたミノーラは、言いながら、それが容易な事でないことを理解している。


 なぜなら、唯一の出入り口を、目の前の二人によって塞がれているからだ。


『逃げ出すためには、この二人を何とかしなきゃいけませんね……』


 当初の予定であれば、来た時と同じように影に潜り込んで逃げる手筈だった。


 それを実行に移せないことが、彼女に焦りを抱かせていた。


 まるで、そんなことはまるでお見通しとでも言うように、女は手に持っているカンテラを愛おしそうに撫で上げると、笑みを浮かべる。


「ふふふ、美しいでしょう? 私、実はこの灯りがとても大好きですのよ。それにしても、あなた方は少々私達のことを侮っていたようですわね。ザーランドに来るように伝えただけで、情報収集を怠るとでも思いましたの? エーシュタルではとても沢山の情報を頂きましたわ。特に、ミノーラさんとオルタさん。素敵な力をお持ちのようで、ぜひ私達にお力添えをしていただきたいのですが、いかがでしょう?」


 女性の言葉を聞いたミノーラは、必死に歯を食いしばった。


 今彼女が抱いている感情を気取られてはいけない。


 気取られてしまえば、目の前の女にとって有利に働くだけなのだ。


 そうなってしまえば、クラリスを助け出し、自分たちも逃げ出すと言う目的を達することが出来なくなってしまう。


「情報収集ですか……もしかして、エーシュタルの人身売買に、あなた達が関わっていたという事ですか?」


「うふふ、どうかしらね。ご想像にお任せします」


 そう言いながら、肩をすくめて見せた女性は、空いた方の手で大柄な男に指示を出した。


「捕まえなさい。あぁ、使って良いわよ」


 その指示を聞いた男は、胸ポケットから何やら瓶のような物を取り出すと、自身の左胸辺りに押し付けだす。


 途端、男の全身に黄色いラインが浮かび上がった。


『リキッド……種類は?』


 男の様子を伺いながら身構えたミノーラは、使えそうなものが無いか周囲を見渡す。


 部屋にあるのは背の低いテーブルとソファ、様々な物が入っているであろう棚くらいだ。


 そうして部屋を一望した彼女は、背後でクラリスを庇うように立っているクリスに目を向け、小さく頷いた。


 頷き終わるや否や、ミノーラは大きく左に飛びだす。


 着地すると同時に自身の尻尾がソファに触れたことを確認し、勢いよく尾を振る。


 それは、なんとも不思議な光景だった。


 勢いよく振った尻尾に引っ張られるように、ソファが宙を舞ったのだ。


 大柄な男は突然飛んで来たソファに目を見開きながらも、何とか受け止める。


 しかし、ミノーラがその隙を見逃すはずが無い。


 宙を舞ったソファは、当然ミノーラと女性の間を飛んだわけで、必然的にソファの下に影が発生する。


 すぐさまその影へと潜り込んだミノーラは、狙いを定めると、勢いよく影から飛び出し、女の持っていたカンテラに喰らいついた。


「きゃあ!」


 手にしていたカンテラを突然奪われてしまった女性が、甲高い悲鳴を上げる。


 大柄な男はと言うと、ソファを放り投げると同時に聞こえてきた女性の悲鳴に混乱を示している。


 恐らく、何が起きたのか理解できていないのだろう。


 流れで女の背後を取ることになったミノーラは、咥えていたカンテラを部屋の外、工場の入口の方へと勢いよく放り投げる。


『これで、この辺りに邪魔な明かりはありませんね』


 カンテラを投げた方から、金属音とガラスの割れた音が響いてくる。


 そんな音を耳にしながら、ミノーラは傍で尻餅をついている女に向けて告げた。


「これで、形勢は逆転しましたね」


「っ……まだよっ! ガキを捕まえなさいっ!」


「させると思ってるんですか?」


 憤りに任せて声を荒げた女は、クラリスを指差しながら大柄な男に指示を出した。


 しかし、そうなることを予想していたミノーラは、すぐさま影の中へと入り込むと、狙いを定める。


 そこでふと、以前の事を思いだした。


 エーシュタルで誘拐された時の事。


 あの時は息の根を止めるために、首筋を噛み切る事しか考えていなかった。


 そのせいでイルミナから厳しい目で見られたのは、ミノーラにとって苦い思い出である。


『殺さない選択、でしたね』


 心の中で短く呟いた彼女は、間髪入れずに影から飛び出すと、男の脚目掛けて食らいついた。


「ぐあぁぁぁぁ」


 右脚に激痛が走ったのだろう、男は右膝を床に付きながら、噛みついているミノーラに殴りかかろうとしてくる。


 そんな攻撃を避けるために、男の脚から離れたミノーラは、すかさず影の中へと身を隠す。


 そうして、未だに身構えていたクリスの元へと移動し、兄妹の隣に並び立った。


「何をやっているの! ほら、はやく立って捕まえなさい!」


 右脚を抑えながら蹲っている男を怒鳴りつけている女は、反応の薄い男の様子にいら立ちを覚えたのか、地団駄を踏み始める。


 その様子を横目で見ながら、ミノーラは隣に立っているクリスに提案した。


「さて、それじゃあ部屋から出ましょう」


「おう、ほら、クラリス、ちゃんと掴まっちょれよ」


「うん」


 若干不安そうにしているクラリスが、ミノーラの背中を優しく撫でる。


 そうして、兄妹を背中に乗せたミノーラは、ゆっくりと影の中へと潜り込んだ。


 しかし、すぐに工場から出るわけでは無い。


 周囲を警戒している女を無視し、工場の入口の方へと向かった彼女は、一旦影から姿を出す。


 そうして、周囲に散らばっている物に目を向け、クリスに告げた。


「さて、この辺にあれば良いですね。クリス君、そっちの方を探してください」


「わかった! さっきの男が持っとった瓶みたいなやつやな。急ごうぜ! 外が結構騒がしくなってきたばい!」


 クリスの言葉に釣られるように、ミノーラは外の音に耳を傾ける。


 アイオーンの羽ばたく音と、矢が飛び交うような音。


 沢山の足音が少しずつこちらの方へと近づいて来る音を耳にしながら、ミノーラは散らばっている布切れや棚に置かれている物を調べ始めたのだった。

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