第238話 潜入

 西の空で煌々と照っていた太陽は、完全に沈み、辺りに暗闇が舞い降りた。


 舞い降りた闇はザーランドの街に染み込んでいくように、存在感を増してゆく。


 あるいは、闇の存在感を打ち消さんとするように、多くの光が灯される。


 少しずつ広がってゆく光の様子を、人気のない城壁の上から見下ろしているのは、一匹の狼と、一人の少年。


 身を隠すように姿勢を低くした状態の狼が、瞳に小さな光を灯しながら、呟いた。


「ここまでは順調ですね。あとは、シルフィの案内に従って、あそこの工場まで向かいましょう」


「でも、どうやって行くん? 元々、夜になったら街が暗くなるって話しとったばってん、どの工場もまだ明るいばい?」


「そこはシルフィにお願いしなきゃですね。ほら、あそこみたいに、暗い場所も少しはあるみたいなので、少しずつ進めば、何とか行けるんじゃないでしょうか」


 ミノーラは鼻先ですぐ下の路地を指し示す。


 当然、クリスもその路地へと目を向けると、細かく頷きながらぼやき始める。


「地味やな……」


「堅実なんですよ。シルフィ、道は確保できそうですか? カリオスさん達が動き出す前に、少しでも進んでおきたいんですけど……」


 シルフィが戻って来たことに気が付いたミノーラは、ゆっくりと近づいて来る彼女を見上げながら、問いかける。


「おっけー、着いて来てね!」


 声量を抑えているミノーラやクリスに対して、大声で応えたシルフィは、軽やかに宙を舞った。


 そんな彼女の様子を見たミノーラは、クリスに向かって頷いて見せる。


「行きましょう」


 ミノーラの言葉を聞くや否や、クリスは躊躇することなく彼女の背中に跨った。


 背中に重量感を覚えたミノーラは、すぐに影の中へと潜り込み、街へと駆け下り始める。


 足元に映っているシルフィの姿を時折確認しながら、雑多な路地を進む。


 元より人通りは多くないのだろう、何かの木箱やゴミの山が煩雑に置かれている。


 とは言え、完全に人気が無い場所は無かった。


 路地に面しているいくつかの扉からは、薄っすらと灯りが漏れ出ているところもある。


 ミノーラはそのような扉にはなるべく近づかないようにしながら、歩を進めていた。


 目の前を駆けている時に、運悪く扉から人が出てきた場合、光を避けることは難しいだろう。


 そうなった時には、必然的に影の外へと放り出されてしまうことは容易に想像できる。


 そうして、ミノーラとクリスが目的の工場前に辿り着いた時、彼女は一つの影を目にした。


 空高く飛翔しているその影は、大きな円を描きながら街の上空を飛んでいる。


『動き出したみたいですね……急がなきゃ』


 工場の中は明るいようで、沢山ある窓から煌々と光が漏れてきている。


 流石のシルフィでも、その状態の工場へ入れる道を探しきれている訳では無いようで、工場の周りを飛び回っている。


『一旦影から出た方が良いかな』


 周囲の様子をしっかりと観察しながら影から頭を出したミノーラは、安全であることを認識し、影から這い出た。


 無造作に置かれているゴミの山で身を隠しながら、同時に、耳と鼻をフル稼働させる。


 彼女の耳は、工場から響いて来る多くの足音を聞き取った。


 彼女の鼻は、工場から漂って来る汗と煙の臭いを嗅ぎ取った。


「シルフィ、聞こえますか?」


 工場付近を飛び回っているシルフィに向かって小さな声で呟いたミノーラは、彼女がこちらへと飛んでくるのを目にした。


 フラフラと近寄って来る彼女は、周囲を見渡しながら告げる。


「ミノーラ! 影が無い! 工場明るい!」


「はい、そうみたいですね。ちなみに、工場の中を照らしてる灯りって何か分かりますか?」


「色々あるよ! 燭台とか、カンテラとか!」


「てことは、火ですね。シルフィ、そろそろアイオーンが動き出すと思うので、そしたら、全部の灯りを消してください、できますか?」


 シルフィに対して、ミノーラがそのようなお願いをした瞬間、ザーランドの街全体を震わせるような雄叫びが、上空から鳴り響いた。


 ミノーラは全身の毛が逆立つのを感じながら、シルフィに声を掛ける。


「始まりました! お願いします。」


「わかった! 灯り、消してくる!」


「ミノーラ、早く隠れるばい! 人が出て来よる!」


 空から聞こえて来る翼の音と、人々の足音を耳にしていたミノーラは、クリスの提案に頷き、すぐに影へと潜り込んだ。


 工場や周辺の家から、大勢の人間が飛び出してきて、空を見上げ始める。


 影の中にいるミノーラ達は聞き取ることは出来ないが、空を見上げた人間達は、悲鳴を上げているのだろう。


 恐怖に染まった表情のまま逃げ出してゆく人々の事を観察しながら、ミノーラはタイミングを伺った。


 そうして、走り去る人々の波が、ひと段落したとき、工場を照らしていた灯りが次々に消え始める。


『さすがシルフィです!』


 工場の灯りが消えて行くことなど、街の人々は気が付いていない。


 それ以上に、アイオーンから逃げることに夢中なのだろう。


 すっかり闇が染み込んだ工場へと向けて駆けこんだミノーラは、難なく中へと入ることに成功した。


『えっと、確か階段の上って言ってましたね』


 影の中に入ったまま、工場の中を掛けるミノーラは、作戦会議の時に聞いた話を思いだしていた。


 工場の中の中二階のような事務所。


 そこにクラリスが閉じ込められている。


 目的の階段を見つけ、すぐに二階へと駆けあがった彼女は、影を通って部屋の中へと潜り込む。


 そして、一人の少女を見つけたのだった。


 暗闇の中、四肢を拘束され、おまけに口まで封じられているクラリスが、怯えた様子で涙を流している。


 その姿を見て、耐え切れなくなったミノーラは、思わず影から飛び出してしまう。


「クラリス!」


 耐え切れなかったのはクリスも同じようで、影から飛び出た瞬間、ミノーラの背中から飛び降りると、クラリスへと駆け寄っていた。


 突然の事に驚きを抱いているのか、目を見開いているクラリスは、必死に首を横に振っている。


 首を横に振っている?


 小さな違和感を抱いたミノーラが、クラリスに駆け寄ろうとした瞬間、彼女は背後から投げ掛けられる声を耳にした。


「あなたがミノーラね。ここに来たってことは、やっぱりあれは陽動ってっことかしら?」


 咄嗟に振り返ったミノーラは、開け放たれた部屋の入口に、一人の女性と大柄な男が立っていることに気が付く。


 豪奢な衣服を纏っているその女性は、おしとやかに腰を曲げながら、再度声を掛けてくる。


「お初にお目にかかるわ、わざわざ出向いてくださるなんて、本当に感謝いたします」


 ニッコリと笑みを浮かべる彼女の姿を見て、ミノーラはどことなく不気味さを感じたのだった。

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