第217話 誕生(追憶)

“その時初めて、彼は暗闇を目にしたのだった”


 薄っすらと目を開け、何もない視界のままに、一歩を踏み出そうとした彼は、勢いよく鼻先を何かにぶつけてしまう。


 何が起きたのか分からなかった彼は、仕方なくまっすぐに進むことは諦めて、右へと頭を向けたのだが、やはり何かに頭をぶつけてしまう。


 どうなっているのか、訳の分からない彼は、同じことを四度繰り返して、ようやく理解する。


 何かに囲まれているのだと。


 これではどこにも行けない。何もできない。


 そんな小さな不満を抱いた彼は、唸り声を漏らしながら、正面に向けて頭を突き出したのだった。


 先程と同じく、痛みだけを感じると思っていた彼は、目の前の壁が思っていた以上に脆いことに気が付く。


 微かに入ったヒビから、か細くて長い光が、入り込んできたのだ。


 そうと分かれば彼が迷う理由は無かった。


 両の前足と頭を使って、ひび割れている壁を少しずつ壊してゆく。


“その時初めて、彼は声を耳にしたのだった”


 壁の外に頭を突き出した彼は、突然沸き上がったそれらの音を聞き、思わず体を強張らせてしまった。


 あまりにも眩しすぎる光と、煩すぎる音を聞きながら、何が起きたのかと周囲を見渡した彼は、何者かが彼のことを覗き込んでいることを理解した。


 それも、複数の目が、彼のことを興味深そうに覗き込んでいる。


“その時初めて、彼は言葉を口にしたのだった”


「……誰?」


「話したぞ!? おい! 見たか!? 生まれたばかりで言葉を口にしたぞ! 成功だ! やはり儂は間違っておらなんだ! あの小娘も、こ奴を見れば度肝を抜かすに違いない!」


 つい先ほどまで、声として認識できていなかったそれらの音が、瞬く間に耳から飛び込んで来る。


 あまりの情報量の多さに頭が痛くなってきた彼は、頭を小刻みに振ると、壁の外に体を引きずり出した。


 背中に生えている一対の翼を動かし、感覚をつかんだ彼は、次に長い尾を振ってみる。


 初めこそ、慣れなかったそれらの動作も、数回繰り返すうちに馴染み始めたことを自覚し、彼は満足感を覚えた。


 そこでようやく、彼は先程投げ掛けた問いに返事が無いことを思い出し、再び問いかける。


「……あなた達は、誰?」


 彼よりも背の高い生物たちに向けて問いかける。


 その言葉を聞いた一人の生物が、他の生物たちを静かにさせると、しゃがみ込んで話しかけてきた。


「儂はグラン・テリオン博士だ。グランと呼んでくれて構わないぞ。生まれてすぐで疲れているだろうが、一つ教えてくれ。おぬしから見て、儂はどんなふうに見えるかね?」


「……硬そう」


「ほう、腹が空いているのじゃな? おい、何か持って来てやれ、出来るだけ柔らかい肉が良い。ほれ、急がんか!」


 彼の言葉を聞いたその生物は、周りで黙り込んでいた生物にそう声を投げ掛けると、再び彼の方へと目を向けてきた。


「して、そうじゃな、おぬしに名前を付けてやろう。ふぉふぉふぉ、実は考えておいたんじゃよ。アイオーン。どうじゃ? 良い名であろう?」


「名前? どうしてそんなものが必要なの?」


「名前が無いと、判別をするときに便利じゃろ? 儂にグラン・テリオンと言う名があるように、お主にもアイオーンと言う名がある。それだけの事じゃよ」


 そう言われたアイオーンは、しかし、ハッキリと理解したわけでは無かった。


 少なくともアイオーンにとって、グランやそのほかの生物たちの判別に名前は必要なかったのだ。


 それは、彼にしか理解できない感覚によるものであり、であるからこそ、グランが理解している訳もない。


 取り敢えず、流れに身を任せることにした彼は、なんとなくその名を呟いてみる。


「アイオーン。それが、僕の名前?」


「そうじゃよ。そうこうしておったら、食事が届いたぞ? ほれ、たんと喰いなさい」


 グランの言葉に釣られるように視線を動かしたアイオーンは、すぐ傍に何かの塊が置かれたのを目にする。


 言われてみれば、少しばかり空腹感を覚えた彼は、何も考えずに塊に喰らいついた。


「……マズッ」


 喰らいついたは良いものの、想像以上に不味いと感じたアイオーンは、思わず顔をそむけてしまう。


「おい、お前、変な肉を持ってきたんじゃないだろうな!」


 グランが近くに立っていた生物に詰め寄っているのを見たアイオーンは、その様子を横目に、塊へと息を吹きかけた。


 無意識に行った動作だったのだが、彼はそれが正しかったことを即座に理解する。


 息の拭きかかった肉は、見る見るうちに凍結し始め、あっという間に氷の塊へと変貌する。


 その様子を見て唖然としているグラン達を、傍目で見たアイオーンは、少しだけ得意げな気分を抱いたまま、氷に喰らいついた。


「うん。美味しい」


 咀嚼するたびに鳴り響く氷の削れる音と、広がる冷気が妙に心地よく感じられる。


「そうか、お主は氷を食べるのじゃな? 誰か! メモしておけ!」


「はい!」


 グランに言われて、一人の生物が何かを持つと、手を動かし始めた。


 その様子が気になったアイオーンは、口の中に残っている氷を急いで飲み込むと、グランに問いかけたのだった。


「グラン、それは今、何をしているの?」


「ん? あぁ、メモを取っておるんじゃ」


「メモ? メモって何?」


「文字を書き記して、記録を取っておるのじゃよ」


「文字?」


 グランの言葉を理解できなかったアイオーンは、再び尋ねてみたものの、その問いに返事は帰って来なかった。


 代わりに、グランはメモを取っている生物に、小声でこう言ったのである。


「推測通り、文字の理解は出来ていない。材料の特徴が出ておるな。しっかり記録しておけよ」


 その言葉の意味を、この時のアイオーンが理解できるわけも無い。


 ただ、心の中に小さな疑問だけを抱いた彼は、深く考えることも無く、氷を咀嚼し続けたのだった。

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