第211話 着影

 広場の地面に強く打ち付けられたクリスは、右肩に強い痛みを感じながらも、急いで身を起こそうともがいた。


 しかし、両腕を後ろに固定されている状態で、満足に体勢を立て直せるわけもない。


 その場でジタバタともがいた彼は、咲きへと進んでいってしまうオルタの姿を垣間見て、強烈な焦りを抱く。


 そんなクリスを瞬く間に囲んでしまった生き物たちは、暴れるクリスを警戒しているのか、あと一歩の距離感を保っている。


『なんなんや、こいつら!』


 姿形だけを見れば、エーシュタルで見た沢山の亜人と変わりはない。


 多くは猿の特徴を持っているようだが、中には昆虫と思われる特徴的な触角を持っている者もいる。


 なぜそのような亜人たちが、こんな山の中にいるのか。


 そんな疑問が小さく感じられるほどに、クリスは彼を取り囲んでいる者たちに対して、妙な不気味さを覚えていた。


 人に類似している見た目に反して、行動やしぐさ、表情などが、どこか不自然なのだ。


 野生の生物ともまた違う、作られた人形のような、得体の知れないものが内包されている。


 まじまじと観察してしまったクリスは、一旦暴れるのを止めると、ゆっくりとした呼吸を意識した。


 それは、彼がマリルタで会得したものであり、溺れそうになった時に冷静な判断をするための技術だった。


 何よりもパニックに陥ることが最も危険なのだと、頭の中で繰り返し、周囲の状況を確認する。


『まずは……まず、するべきことは……手! なんか、切れるもん! どっかに……』


 周囲を見渡したクリスは、背後に散らばっている石の破片を目にし、何とか這い寄ろうと足を動かした。


 そうして何とか石の付近までたどり着いたクリスは、後ろ手を動かし、幾つか石を掴むことに成功する。


 その石で手首を固定している紐を擦りながら、クリスはさらに周囲の状況を観察する。


 未だに彼の周囲を取り囲んでいる亜人たちは、誰かがクリスに手を伸ばそうとする度に、お互いに牽制し合っている。


 おかげで、今のところ直接的な被害は受けていないが、それもいつまで続くか分からない。


 特に、クリスは二人の猿人に目を付けた。


 亜人たちの中でも一際体格のいいその二人は、今にも喧嘩を始めそうなほどに互いを威嚇し合っている。


 もし喧嘩が始まれば、彼自身が巻き込まれてしまうことは容易に想像が付いた。


『早く切れろ! くそっ! 石じゃいかんのか? ばってん、他になかもんね……』


 既に右手の親指に痛みを感じ始めていたクリスは、強烈な焦りの中で周囲を見渡す。


 目につくものとしては、同じように崩れ落ちている石の破片と、壁に空いている穴くらいだ。


 その穴へと目を向けた時、クリスは一つのことに気が付いた。


『あれは……ガラス?』


 松明の灯りに照らされて、キラキラと輝きを見せる何かが、穴の近くに散らばっている。


 亜人たちの脚の隙間から見えたそれは、クリスにとって非常に大きな希望に見えた。


 と、その時。


 甲高い奇声と野太い怒号が広場中に響き渡る。


 咄嗟に声の方へと目を向けたクリスは、すぐ近くで殴り合いを始めた猿人二人を目にし、息を呑んだ。


 途端に、二人の喧嘩に触発されたのか、他の亜人たちも怒声を上げながら互いに攻撃を始める。


 飛び掛かり、首筋に噛みつく者。


 両腕を大きく振り回し、殴りかかる者。


 取っ組み合いの最中、相手の毛を毟り奇声を上げる者。


 瞬く間に混乱に包まれた広場の中で、クリスは踏みつぶされないように転げまわるしかなかった。


 走り回る者や取っ組み合いをする者の間を、何とか躱しながら這いずったクリスは、何とかガラスの元へと辿り着く。


 めぼしいものを探し、それを何とか右手で掴んだクリスが、ふと乱闘騒ぎをしている方へと目を向けた時。


 クリスは勝ち誇った表情をしている猿人と、目が合ってしまった。


『ヤバいヤバいヤバい! こっちに来る!』


 全力で紐にガラスをこすりつけ、何とか拘束を解こうともがきながらも、クリスは後ずさりする。


 そんなクリスを凝視しながらゆっくりと歩み寄って来る猿人は、途中、幾人もの亜人をなぎ倒しながらも、その足を止めなかった。


 親指の痛みも、右肩の痛みも、全てを忘れて右手を動かしたクリスは、突然、自身の手首の拘束が少しばかり緩くなったことを感じる。


 ようやく切ることが出来たと安堵しかけたクリスだったが、眼前に迫る脅威が過ぎ去ったわけでは無い。


 急いで腕の拘束を解き、勢いよく立ち上がった彼は、すぐさま逃げ場所を探すために周囲を確認しようとした。


 しかし、あまりに焦ってしまっていたのか、クリスはバランスを崩して、その場に尻餅をついてしまう。


 尻に鈍い痛みを感じ、すぐに立ち上がろうと左手を床に着いた時、彼は自身の左手が空を切ったことを理解する。


 思わず左後ろへと目を向けた時には、既に遅かった。


 紐を切りながら後ずさりしていた間に穴のすぐそばまで来てしまっていたのだろう。


 重心が後ろへと移動してしまったクリスは、頭から壁の外へと落下を始める。


 どれほどの高さなのだろう。


 徐々に遠のいて行く視界の中で、壁の穴から覗き込んでくる猿人達がみるみる小さくなってゆく。


 腕や脚は落下の風圧の中で自由に動かすこともできない。


 強烈な浮遊感の中で、未だ猿轡を外していない彼は、叫ぶこともできずに落ち続けることしかできなかった。


 恐怖や焦りが次第に諦めへと変化していき、最後、絶望へと変わろうとしていたその時、暗闇に閉ざされた視界の端で、何かが動いた。


「クリス君!」


 耳を切るような風の音の中に、聞き馴染みのある声を聞いたクリスは、とてつもない喜びと安堵を覚える。


「うううううう!」


 叫ぶことが出来ないことも忘れ、呻き声をあげたクリスは、次の瞬間、何かが飛びついてきたことに気が付く。


 それは、ゴワゴワとした硬めの毛に覆われている、尻尾。


 そんな尻尾が自身の顔にへばり付いていることに気が付いたクリスは、一瞬にして音が消えたことを認識した。


 そこでようやく、彼は周囲の様子が変化していることを理解する。


 落下していた筈なのに、直立しているクリスは、すぐ傍にミノーラが居ることに気が付いた。


 すぐにでも礼を告げようと猿轡を取った彼は、声が出ないことに気が付く。


 助からなかったのかと焦りを抱いたクリスだったが、そんな懸念を否定するようにミノーラが首を横に振った。


 そして、クリスの足元を鼻先で指し示す。


 示された足元に映っている物を見たクリスは、自身が影の中へと入っていることをようやく理解したのだった。

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