第167話 老婆
少年クリスにとって、このエーシュタルと言う街は、あまりにも広い世界だった。
街を歩く人々や飛び交う言葉、目に映る様々な情報が、彼の脳に多種多様な色を塗り重ねている。
そんな広い世界の中心にある闘技場の観客席に座っている彼は、眼下で繰り広げられている戦いと、空中に映し出されるオルタの姿を見比べながら、感嘆する。
正直なことを言えば、何が起きているのか分からない。
キルデンと言う男にオルタが攻撃を入れたかと思えば、気が付けばオルタは窮地に追いやられていた。
しかし、次の瞬間にはオルタのペアであるサラという女性によって、彼は助け出されることになる。
その後、他の選手に狙われたオルタが逃げ回っている間に、サラが他の選手を倒してしまっていた。
目まぐるしく変化する状況が映像として映し出され、なんとなく状況は把握できるが、それだけだ。
会場の中心で腕を振り、勝利を誇示しているサラと、そんな彼女を盗み見て何やら考え込んでいるオルタを見ながら、クリスは言葉を溢した。
「すげぇ……。」
何がすごいのか、言葉にすることは出来ないが、クリスはそう思った。
「面白かったですね。これで、オルタさんの今日の試合は終わりって事でしょうか?」
「そうみたい。オルタさんは勝ち残ったから、明日の試合に出るはず。……大きな怪我とか無くてよかった。」
クリスの隣に腰かけているミノーラとタシェルが、映像を見上げながら言葉を交わしている。
そんな二人とは反対に、カリオスは何やら考え込んでおり、試合に注意が向いていないようだった。
「カリオス、どうしたん?なんかあったと?」
熱狂している周囲の観客が上げる歓声に負けないように、少しばかり声を張り上げたが、カリオスには聞こえていないらしい。
相変わらず何かを考えたまま、俯いている。
「さて、それじゃあ戻ろっか。クリス君の武器も買いに行かなきゃだし。」
しばらくカリオスの様子を訝しんでいたクリスだったが、タシェルの言葉を聞き逃すことは無かった。
試合の続きが気にならないと言えば嘘になるが、買い物も大事なのだ。
「カリオス!もう行くばい!良い武器が無くなったらどうするんよ!」
そうして席を立った四人は、観客席横の通路を通って、会場を後にしたのだった。
一行が闘技場の入口をくぐったところで、背後から再び歓声が沸き上がる。
まだ日は暮れていないが、予定を繰り上げて夜の部が始まったのだろう。
少しばかり尾を引く思いで、クリスは足を動かした。
「えっと、一度噴水広場に戻って、店を探そうか。あ、私はついでに精霊協会に行って、手紙を出してくるから、三人は先に行ってて。」
そう告げて駆けていく彼女の後ろ姿を見送ったクリスは、ふとミノーラと顔を見合わせる。
「さて、クリス君。どうしましょう。どのお店を見てみたいですか?」
「うーんと、取り敢えず、色々見たい!」
「分かりました!じゃあ、はぐれないように背中に乗ってくださいね。カリオスさんも、着いて来てください!」
ミノーラのその声掛けを聞いたカリオスが頷いたのを確認すると、クリスは彼女の背中に跨り、取り敢えず噴水広場に進み始めた。
広場に到着する前に精霊協会の前を通ったが、タシェルはまだ出てきていないようだったので、そのまま通り過ぎる。
そうして、飛沫を上げている噴水の前で一度立ち止まった三人は、改めて周囲を見渡した。
円形の広場からいくつかの路地が放射状に広がっている。どこの路地も込み合っているので、どこを見て回るか悩ましい。
「悩むなぁ。」
「悩みますね。じゃあ、適当に、そこから行ってみましょう。」
全ての路地を眺めた上で、ミノーラが一本の路地を鼻先で示した。
今しがた闘技場から歩いて来た大通りの、一つ隣にある路地。
その路地は、道幅こそ大通りよりも狭いものの、その分、人で溢れかえっている。
「なんだかいい匂いもしますし、そっちにいいお店が集まってる気がします!」
「そうなん?まぁ、ミノーラに任せるばい。」
背中に乗せてもらっている以上、クリスには強い拒否権は無い。特に拒否する理由も無いため、目的地は決まったようなものだ。
「さぁ!行きましょう!」
「おう!」
先ほど見た試合のせいか、妙に浮ついた心を落ち着かせるために、クリスはミノーラと同じように声を上げた。
周囲からの視線が少しばかり気になるが、悪い気はしない。
そうして路地を進みながら武器屋を探すクリスとミノーラは、ふと、後ろから着いて来ていた筈のカリオスが居ないことに気が付いた。
「あれ?カリオスがおらん。」
「あ、本当ですね。でも、任せてください!私の鼻があれば、カリオスさんもタシェルさんも見つけることが出来るので、大丈夫ですよ。」
内心焦りを覚えたクリスだったが、ミノーラのその言葉を聞き、一安心する。
ならば、と店探しを再開した二人は、建ち並んでいる店を見ながら更に路地を進んだ。
酷く高額な宝石を売っている店や雑貨屋、お洒落な服屋などを眺めながら進んでいく。
そうして、練り歩くことに疲れを覚えてきた頃、一人の老婆が話しかけてきた。
「おやおや、子供一人で大丈夫かい?」
突然話しかけてきたその老婆は、腰が悪いのか、杖で体のバランスを取っている。
細い腕でミノーラの頭を撫でながら、クリスに笑いかけたその笑みは、酷く穏やかなものだった。
「俺は一人じゃないばい!」
「そうですよ。私が付いてるので!」
「おや、あんた喋れるのかい!?」
ミノーラが話せることに驚いた様子の老婆は、ニコニコと笑いながら、嬉しそうに話し始めた。
「嬉しいねぇ。まさか、ワンちゃんと話しが出来るなんて。」
「私は犬じゃなくて、狼なんです。」
「おや、そうなのかい!?それは、失礼しちゃったねぇ。そうだ、お詫びに、美味しいおやつを上げようかね。ほら、ちょっと着いてきておくれ。」
そう言った老婆は、トボトボと歩き出すと、路地を外れ、狭い脇道へと入って行った。
思わずミノーラと顔を見合わせるクリス。
「なぁ、大丈夫か?」
「多分、大丈夫だと思います。それに、薄暗いところだから、いざとなれば逃げれますし。」
「そうなん?」
なんとなく腑に落ちなかったクリスだったが、自信満々のミノーラを信じ、老婆の後を着いて行くことにする。
脇道を少し行くと、先ほどの老婆が一つの扉の前で二人のことを待っていた。他に人はおらず、待ち伏せと言うわけでは無いらしい。
「ちょっと、そこで待ってておくれ。すぐ持ってくるからねぇ。」
そう言って扉の中へと入って行った老婆は、言葉通り、数分も立たずに戻って来た。
「ほら、一つずつお上がり。」
そう言って手渡された飴のようなものを、クリスは口に放り込む。
同じように、ミノーラも一口で飲み込んでしまった。
口中に広がる甘くてまろやかな香りを楽しみながら、クリスは老婆に尋ねる。
「おばあちゃん、これ、なんてお菓子なん?」
「ん?なんて言ったかねぇ。あたしも歳だからねぇ。物忘れがひどいのさ。」
ニコニコと笑いながら応える老婆の様子には、ひとかけらの悪意も感じられない。
クリスがそんなことを考えた時、突然、視界が大きく揺れた。
「おわっ!」
急にミノーラの背中から投げ出されたクリスは、地べたに尻餅をついてしまう。
揺れて捻じれて曲がり始めた視界の中で、クリスが最後に目にしたのは、地面に横たわっているミノーラの姿。
そして、依然としてニコニコと笑っている老婆の顔だった。
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