第120話 機嫌
タシェルの元へと辿り着いたミノーラは、幻想的な光景に言葉を失った。
池のあった空間の中空に、キュームと思われる精霊が浮遊しており、こちらをじっと見つめてきている。
それだけであれば、ミノーラの見知った光景にキュームの姿が追加されただけの、ありふれた光景だった。
しかし、そのキュームを取り巻く空間が、彼女の知り得た光景と常識を、覆す。
小石や巨大な岩、池の水、そして大きな木の枝。あらゆるものが宙に浮いている。それらは、キュームを中心とした円を描くように、ゆっくりと漂っていた。
そんな光景に目を奪われていたミノーラだったが、すぐさま気を取り直し、タシェルに語り掛ける。
「タシェル。大丈夫?」
「うん。なんとか。」
タシェルの前で腕を広げて微動だにしないシルフィは、まるで彼女を守ろうとしているようだ。
いや、恐らく、本当に守っているのだろう。
ミノーラはタシェルの髪や服の袖が不自然な動きで揺れていることに気が付いた。まるで、キュームの方へと引っ張られているような揺れ方をしている。
それらを目にした瞬間、彼女は理解する。
「タシェル。もしかして、キュームに引っ張られてる?」
「そうみたい。さっきは突然、全身が宙に浮いて焦ったけど、今はシルフィのお陰でだいぶ抑えられてる。それより、ミノーラは大丈夫なの?」
タシェルの問いに答えようとしたミノーラだったが、急激に膨れ上がっていく殺気を感じ、全身の背を逆立てながらキュームに対峙した。
「……さっきから、アタシの名前を好き勝手に呼んでるけど。アンタたち、誰?なんでここにいるの?」
抑揚のない静かな声が、ミノーラに投げかけられる。
ミノーラは言葉を選びながら、キュームの問いに答えることにした。
「私はミノーラって言います。えっと、あなたとお話がしたくてここに来ました。」
「ミノーラ、もしかしてキュームと話してる?ってことはやっぱり、首輪のお陰?」
ミノーラの言葉を聞いても無表情を貫いたキュームは、しかし、タシェルの言葉に顔をしかめた。
そんな様子を見たミノーラはキュームが名前を呼ばれることを嫌がっていることと、タシェルにはキュームの姿が見えていないことを悟る。
これ以上キュームの機嫌を損ねるのは良くないと判断した彼女は、タシェルに申し訳なく思いながらも、一言告げた。
「タシェル。少し静かにしててもらえますか?」
少し強めの口調で言ったおかげか、タシェルは目に見えて押し黙り、深く頷いた。彼女なりに何か察してくれたのかもしれない。
そんな様子を確認したミノーラは、再びキュームに向き直ると、反応を待った。
「……あれ?アンタ、人間じゃないの?でも、言葉を話してる……へんなの。」
そんな言葉を並べながらも、キュームは無表情を貫いている。まるでこちらの動きを監視するように睨むその瞳は、深い何かを隠しているように見えた。
「私は……人間じゃないです。けど、色々あって人間の言葉を話せるようになりました。珍しいですか?」
キュームの反応はミノーラの思っていたものでは無かった。が、そこで押し黙るわけにもいかないので、話に乗っかることにした。
いつもの癖で狼だと言いそうになった彼女は、ふと、手帳に書いてあったサムのことを思い出し、言葉を濁す。
そんなことを考えていた彼女は、一つの疑問を抱く。
なぜ、狼と言ってはいけないのか?
昨日までの自分であれば、躊躇することなく告げていたと断言できる。ではなぜ、現在の私は、自身が狼であることを明言してはいけないと、思ったのだろうか。
目の前で、周囲の空気を凍てつかせそうな雰囲気のキュームを見て、思う。
そんなこと、見れば分かるでしょう。と。
手帳に書いてあった話が本当で、もし、キュームがそのことを覚えているならば、彼女にとって狼は、好ましい生き物ではないはずだ。
なぜキュームがミノーラのことを狼と認識していないのかは分からない。
そんな、自身の中に響いている、不確定な割に説得力のある声をミノーラは聞いたような気がした。
「……ふーん。で、アンタは何でアタシの名前を知ってる?」
「え?あ、えーっと……」
口ごもるミノーラの様子に不信感を抱いた様子のキュームは、右腕を横に広げた。
途端、ゆっくりと漂っていた巨大な岩が、彼女の右腕に引き寄せられ、徐々に速度を上げながら、腕の周りを旋回し始める。
咄嗟に警戒したミノーラとタシェルだったが、キュームはそれ以降動くことは無く、ただじっとこちらを見つめながら、ぼそぼそと呟く。
「……帰って。もう二度とここには来ないで。」
言い終えると同時に、キュームが腕をサッと動かした。すると、その動きに連動するように、回転していた岩が、枷を外された猛獣のように飛び出す。
飛び出した岩はミノーラ達とキュームの丁度中間の位置に着弾すると、粉々に砕け散った。
恐らく、脅しなのだろう。
話しを聞けるミノーラはともかく、タシェルにとっては訳の分からない状況のはずだ。案の定、彼女はミノーラのすぐ後ろで小さくなりながら、少し目を潤ませている。
ミノーラとほぼ同じ大きさの岩が、粉々に砕けている様子を見て、恐怖を感じないわけが無いだろう。
しかし、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。
「すみません。何か失礼な事をしてしまったなら、謝ります。ですが、あなたに一つお願いしたいことがあるんです。もう嵐を起こすのは止めてくれませんか?嵐のせいで沢山の人が困ってるんです。」
なるべく柔らかな口調で告げたミノーラは、キュームの様子を伺う。
できることならば、話し合いで解決したい。そんな彼女の願いが聞き届けられることは無かった。
「……知らない。そんなの知らない。どうでも良い。アタシはサムだけが居れば良いから。」
そう言ったキュームは、ゆっくりと首を動かし、サムの遺体へと目を向けた。しばらく黙り込んでいたキュームは何かに気が付いたようだ。
今の今まで微動だにしなかった表情が、大きく揺れ動く。
そうして、キュームはこちらを睨みつけたかと思えば、絞り出すような声を上げた。
「返せ!」
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