第4章 狼と海の神
第83話 兄妹
海が荒れ始めてどれくらい経っただろうか。吹きすさぶ風と打ち付ける雨が、街並みだけでなく、住人の心と生活を踏みにじり、荒らしてゆく。
窓を揺らす風の悲鳴と、目の前で喧騒を上げている大人たちの様子を見れば、事態が非常に深刻であることなど、齢十二のクラリスにも見当はついた。
「どうすんだよ!もう三人も出しとんのに!なんで収まらんとか!」
「そんなん知らんちゃ!」
「もうだめや。漁にも出れんし、次の嵐も近づいて来とるし、俺らはここで全員死ぬんやろ。」
「この嵐が過ぎたら、すぐに街を出よう。ボルン・テールに行けば、助かるかも。」
「お前は馬鹿か!昨日の時点で、海の向こうにまだでかい嵐が近付いてんのが見えたんやぞ?山を越える前に嵐で体力奪われて野垂れ死ぬのが関の山や。やめとけ。」
「なんで今年はこんなに嵐が多いんかちゃ。おかしいやろ。」
口々に喧嘩をする大人。諦めた口調で呟く大人。現状に文句を言う大人。誰もがこの状況に絶望しているのだろう。クラリスもそのうちの一人だった。
街にある家の殆どが、嵐のせいで壁が壊れ、雨風をしのげる状態に無い。今彼女たちがいるこの場所は、街で最も頑丈な集会場のなのだが、所々から雨漏りがしている。
窓や壁や天井を補強する様に、板が打ち付けられたりして入るが、どれも簡易的な固定で済まされているあたり、そう長くはもたないだろう。
「兄ちゃん。怖い。」
「大丈夫。大丈夫ばい。俺が着いとるけんな。こんな嵐、すぐに収まるちゃ。」
彼女の頭を胸元でギュッと抱きしめる兄が、言い聞かせるように答えてくれる。そっと彼の顔を見上げてみると、この状況に似つかわしくないほどに明るく、ニカッと笑みを浮かべる。
「なに笑っとるんや!」
そんな兄妹のやり取りを見ていたのか、喧騒をまき散らしていた大人の一人が、ズカズカと詰め寄ってきた。
「おう坊主!何が面白いんか!言ってみろ!俺らが揉めとんの見て笑ったんか?この状況分かっとんのか?このままじゃみんな死ぬって言っとったい!いい加減にしとけよ!」
「おい、やめとけ。まだ子供やん。」
「きさんは黙っとけ!」
難癖をつけてくる大人に対し、兄はクラリスを背後に隠しながら沈黙を守っていた。何を言っても通じない。彼はきっとそう思ったのだろう。
別の大人が止めに入ってくれたおかげで、事なきを経たが、対応を間違えば大変な目にあっていたかもしれない。
バクバクと脈打つ胸に手を当て、自身の恐怖を抑えつけようと必死になっていた彼女は、ふと頭を撫でる優しい手の温もりを感じた。
顔を上げると、兄が頭を撫でてくれていた。しかし、今度は先程のような笑みは浮かべていない。いたって真剣な面持ちだ。
「ごめんな。俺のせいで怖かったやろ?」
至近距離のクラリスがようやく聞き取れるくらいの小さな声で、彼が言う。それに対し、彼女は首を横に振った。
「兄ちゃんは悪くないやん。」
兄と同じく、声を極力抑えながら答えたクラリスは、思った以上に自身の声が震えているのを聞き取りながら、兄へと視線を飛ばした。
「いいや、今のは俺が悪かったんよ。みんな気が立ってんのに、逆なでするようなことしとったけん。」
声も表情も、周りに気取られないように配慮しながら話す兄の様子に、強烈な息苦しさを感じる。
呼吸が浅くなっているわけでは無いが、なぜか息苦しい。何とか肺に空気を入れようと、自然に呼吸が早くなってしまう。
吸っても吸っても肺に空気が入っていく気がしない。そんな異変に彼女が気が付いた時には、目から大量の涙を流し、苦しい胸を抑えつけることしかできなかった。
「クラリス!大丈夫か!」
兄の慌てた声が、すぐ傍で聞こえる。集まってくる大勢の足音と、風の悲鳴が頭に響き、クラリスは静かにしてと叫びたくなった。幸いなことに、喧騒だけは収まったようだ。
そんなことを考えながら、クラリスは意識が遠のいて行くのを自覚する。ゆっくり、ゆっくりと水の底に沈んでいくように、体から力が抜け、意識だけが引き上げられていく感覚を覚えながら、彼女は眠った。
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