第77話 実感
会議が終わった次の日の朝、オルタはいつもより早い時間に目が覚めてしまったため、一人で人影のない道を歩いている。既に全身の傷はほぼ完治しており、少し走る分には痛みも感じない。
この街には長い間住んでいたのだが、もう少しでここを出ることになってしまった。もちろん、いつかは戻って来るのだろうが、今のところ、その目途は立っていない状況だ。
「……街を出るとなると、懐かしく感じるもんなんだなぁ。」
普段職場に行くまでに通っている大通りや、帰り道に様子を伺っていた精霊協会の寮、坑道入口の小屋でさえ、見るだけでどこか寂しさを感じてしまう。それは、しばらく会えなくなることを知っているからだろうか、それとも、他に理由があるのだろうか。自分のことのはずなのに、彼は明確な答えを持ち合わせてはいなかった。
「準備。しないとな。俺が荷物持ちをしなくちゃいけねぇ。なにせ、坑道で働く前は運び屋してたんだからよぉ。まぁ、荷物を失くしたり、散々だったけどなぁ。」
他の者が聞けば、彼に荷物を預けるのを躊躇うだろう。彼自身にも一抹の不安があることは否めないが、流石に一緒に誰かがいる状況で、そう易々と失くしてばかりでは無いだろうと、彼は自分を納得させている。
そうこうしていると、目的の場所が見えてきた。ドクターファーナスの診療所。
実は一度、既に診療所の前に到着していたのだが、あまりに朝早くに尋ねるのも悪いと考えた彼は、あえて診療所を通り越し、坑道まで足を運んでから戻って来たのであった。
しかし、そう何度も往復を繰り返すのは、あまりに恥ずかしい。例え誰にも見られていないとしても、彼は恥ずかしさで悶えそうになるだろう。
「起きてないかもなぁ」
そう呟きながら、診療所の扉をノックした。
「おはようございます。ドクターファーナス。もう起きてますか?」
「あぁら、この声はオルタさん?起きてますよぉ。もしかして、傷が痛むのかしら?ほら、入って。今お茶を入れるから。」
恐る恐る扉を開けたオルタは、居間から顔を覗かせたドクターファーナスと目が合った。ニッコリと笑う彼女は、いつも通り穏やかな口調で話し始める。
「おはよう、オルタさん。身体の調子はどうかしら?」
「おはようございます。ドクターファーナス。なんとか……おかげ様で身体はもう万全です。」
敬語で話すことに慣れていないためか、砕けた言葉が出て来そうになる。しかし彼は、彼女に対して砕けた言葉を使う気にはなれなかった。まぁ、正しい敬語を使えているか、彼には判断出来てはいないのだが。
「今日は、治療費を持ってきました。本当は昨日の会議後にでも渡すつもりだったんだが……ですが、持っていくのを忘れてまして。」
「あら、良いのに。……ちょっと居間で待っててもらえるかしら?玄関じゃあれだから、そちらで話しましょう。」
そう言うと、ドクターファーナスは廊下の奥へとゆっくりと歩いて行った。言われるがままに居間に入ったオルタは、一歩踏み込んで足を止めてしまう。
テーブルの上に広げられた様々な書籍の上に突っ伏し、寝息を立てているタシェルの姿が彼の動きを止めたのだ。
しかし、思考は止まっていない。呼吸をする度に上下している肩や白い首筋、寝息で揺れる艶やかな髪の毛、そして、到底穏やかとは言えない彼女の寝顔をまじまじと見つめた彼は、すぐに頭を振って自制し、自省する。
音をたてないようにそーっと近づき、彼女の様子を伺う。眠りは深いように見えるが、その表情は険しかった。それが、寝づらい体制によるものなのか、はたまた、悪い夢を見ているのか、当然だが、彼には分からない。
そんな彼女が下敷きにしている書物に目を向ける。
「……精霊術と医術の密接な関わり?勉強してたのか。」
文中の一部を読んだオルタは、改めてタシェルに目を向ける。どうやら余程疲れてしまったようだ、この体勢のまま寝かせるのは、却ってよくないのではないか?そんな思考が彼の脳裏を過り、突き動かされるようにタシェルの肩を叩く。
「タシェル。タシェル。こんなところで眠っていたら風邪をひくぞ、あと、首とか色々傷めるかもだ。」
彼の呼びかけに一瞬顔をしかめた彼女は、ぼんやりとした様子で半目を開き、オルタを見上げてくる。その様子が、どこか小動物のように見えてしまったオルタは、思わず自身の表情が緩んでしまいそうになるのを必死にこらえた。
「はへ?オルタさん?」
まだ回らない頭と口で、ようやくオルタの存在を認識した彼女が、ぼそりと呟く。そうして呟いたことをきっかけに、彼女は自身の状況を少しずつ理解していったようで、目が見開いていくにつれて、顔が赤く染まっていくのが見て取れた。
「え?あれ?オルタさん!?なんでここに?待って、ちょっと、待って。やだ、恥ずかしい。」
慌てふためき自身の顔を両手で覆った後、彼女は指の隙間からこちらを伺いながら、一言だけ尋ねてくる。
「見ちゃいました?」
「何をだ?あぁ、勉強してることか?別に恥ずかしい事じゃないだろ?それより、ちゃんとベッドで寝た方が良いと思うぞ。」
しっかりと問い掛けに答えているようだが、彼はかなり動揺していた。思わず敬語を使えていないのがその証拠だ。先ほど見た彼女の寝顔を思い出しながら、深く頷き、改めて提案する。
「やはり、ベッドで寝た方が良い。さっきもどこか痛そうな顔をして……あ。」
「見てるじゃないですか!」
そう言って立ち上がったタシェルは、両手で顔を隠しながら廊下の方へと駆けていき、ドクターファーナスの行った方へと消えてゆく。うまくフォローできていた筈だったが、最後の最後で失敗したようだ。
「何かあったのかい?」
お盆でお茶を持って戻って来たドクターファーナスに対し、オルタは苦笑いで応える。
「そうかい。なるほどねぇ。」
何を理解したのか、ドクターファーナスは楽しそうにそう言うと、オルタにお茶を勧めてくる。勧められるままに温かいお茶を口にし、喉へと流し込む。先程から感じていた胸のあたりの温もりが、少し和らいだ気がした。
「ちゃんと味わって飲みなさいね。」
ドクターファーナスに軽く注意を受けつつも、再びお茶を口に運ぶ。彼は生まれて初めて、朝のひとときを楽しめているのかもしれない。そう思えるほどに、彼は今充実感を覚えている。
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