第52話 勇気

 拘束された状態の足は男に抑えられているため、目の前で息を荒げている男を蹴とばすこともできない。


 徐々に近づいて来ようとしている男の顔面から顔を背けようとするが、正面を向くように顔を掴まれた。


 嫌悪感。恐怖。屈辱。痛み。ありとあらゆる負の感情が溢れかえり、涙として零れて行く。


「おいおい、どうした?泣いてるのか?大丈夫だ。安心しろ。すぐ慣れるからなぁ」


 そんなことを耳元で囁いた男は、彼女の顔を掴んでいる手とは反対の手で、零れる涙をそっと拭い、そのまま舌で舐めとる。


 その様子を見た彼女は、一瞬で背筋が凍りつくような寒気を感じ、同時に吐き気を催す。


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!


 頭の中を巡るそんな言葉が、彼女を支配する。必死に体をねじり、もがく彼女だったが、それが男たちの機嫌を損ねてしまった。


「おとなしくしやがれ!!」


 不意に顔を自由になったと思ったのも束の間、右の頬に強烈な痛みが走り、彼女はそのまま倒れ込んでしまう。


 倒れ込んだ状態のタシェルに跨るような体勢になった男は、彼女の髪を鷲掴み、痛がる彼女の耳元で再び囁いた。


「選ばせてやる。俺は女を拷問するのがたまらなく好きなんだ。指を折って、腹を殴って、毛を剃って、歯を抜いて、泣き叫ぶ女の顔を失神するまで殴ってる時が一番楽しいと思ってんだ。だけどよぉ、それをすると死んじまうからよぉ。お前は生かさないとならねぇ。つまりだ、死なない程度なら何しても良いってことだよなぁ?どうだ?そっちを選ぶか?それとも、ここにいる男全員の相手をするか。選ばせてやる。俺らはそれに従うぜ?お前が選択した方に、俺らは喜んで従ってやる。嬉しいだろぉ?」


 タシェルは男の言葉を聞いて、生まれて初めて血の気が引くと言う状態を実感した。住んでいる世界が違う。この男たちと私は、見てきたものが違うのだと。


 それと同時に、絶望を感じる。シルフィの助けが間に合うとは到底思えない。ましてや、他に助けに来てくれる人など、いるわけがない。


 逃げ場のないこの場所で、こんな私を助けてくれる人なんか、いるわけがない。


 残酷。苦痛。恐怖。絶望。それが、今私がいるこの世界なのだ。そんな世界に、足を踏み入れてしまったのだ。


 いつから?


 精霊術師の勉強を、もっと頑張っていれば。何か変わったのだろうか。精霊術師の勉強をやめて、別のことをしていれば、何か変わったのだろうか。本当なら、こんな目に合わなかったのだろうか。


 今のこの状況が、本当であり、現実であり、結果なのだ。


 理不尽なほどに突然突きつけられた現実に、彼女は抗う術を持ち合わせていない。恐怖のあまり涙は引いていき、震える口で男に告げる。


「……痛いのは、いやです。相手をしますから。ひどい事はしないでください!」


 告げてしまう。それは、男たちに屈服してしまうことを意味した。それを、タシェルは重々承知している。


 告げ終わった後の男のニヤけた顔が近付いてくる。男が少しずつ彼女の体を弄り始めたその触感に悪寒を感じていた時だった。


 ジャラジャラジャラジャラ………カランッ


 牢屋中に、鎖の音と何かの金属音が響いた。


 一瞬、その場にいた全員の動きが固まる。何やら異変を感じた様子の目の前の男が言葉を発するかと思いきや、それは突然響いてきた。


 一度目の音。何やら硬いものが衝突したかのような低くて鈍い音と、崩れていく瓦礫が転がるような音。そして、その後に続く、足跡のような低くて規則的な音が、徐々にタシェルのいる牢屋へと近付いてくる。


 二度目の音。近付いて来ていた足音が隣の牢屋との仕切りである壁に到達したかと思うと、爆破されたかのようにはじけ飛び、大人一人が通れる程の大穴が開いた。その穴が開くのと同時に、一人の大男が飛び込んでくる。


 その男は、背丈が2メートル程あり、首も腕も脚も、何もかもが強靭な筋肉で出来ているように見えた。しかし、そんな身体でも牢屋の壁に大穴を開けるのは非常に難しい筈である。


 それを示すように、男はありとあらゆる場所から血を流し、目に至っては右目が真っ赤になっている。


 そんな男は、壁を突き破ってきて数秒で、一番近場にいた一人の男の頭を鷲掴みにし、牢屋の壁に叩きつけた。


 タシェルを囲むように立っていた男たちの影になっており、彼女からは良く見えなかったが、恐らく、命は無いだろう。それほどの勢いと鈍い音が辺りに響いたのだ。


 その様子を見た男たちが一目散に牢屋から逃げ出そうと駆け出すが、同時に大男も雄たけびを上げながら動き出す。


 一人、一人と打ちのめしてゆく大男の姿を、タシェルは呆然と見つめる。先程、自身が屈服せざるを得なかった男たちに、たった一人で立ち向かっている大男。しかも、牢屋の壁をぶち抜いてまで、助けてくれたこと。


 こんな残酷な世界で、それでも戦おうとしている人がいる。


 そんなことで、彼女は不思議と心に勇気が湧いたように感じた。


「大丈夫ですか?」


 ふと見上げると、彼女が寄り掛かっていた牢屋の壁に一匹の狼が立っており、あろうことか、安否を問いかけてきた。


 思わず叫びそうになった彼女だったが、その狼の傍らにシルフィがいることに気が付く。


「タシェル!タシェル!大丈夫?あの大男は敵?敵?やっつけて良い?」


「ダメ!彼はそこに転がってる男達から私を助けてくれたの!ケガがひどいから、助けてあげなくちゃ!」


 シルフィに向かって告げたつもりであったが、タシェルの言葉に反応したのは狼の方だった。


「分かりました。ちょっと待っててくださいね。」


 それだけを言うと、暴れている大男の元へと近寄る狼。そんな狼の様子を眺めながら、彼女は当然の疑問を口にした。


「……話してる……」

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