49話 陸の人魚

「わ、我の大切なヒレが……ないのだー!」


 自分の足が見慣れない姿になっていることに気がついたセパルは大きな声を上げた。

 青く美しい鱗だった部分は、きらきらとうろこ状の金属をあしらわれたスカートに変化したようで、彼女の腰から下を覆っている。

 そして、スカートの下に隠されている部分は人間と同じような二本の足に変わっていた。


「少し魔法をかけただけだ。……後で戻り方を教えてやる。立派な悪魔ならいちいち赤子ガキみたいに喚くな」


 セパルの大きな声に耳を塞いでいた手を下におろしたアビスモは、そういってルリジオと一緒にいる聖女の方へと向かう。


「さて、聖女様、王都からの使者の頼みを聞いていただきたいのですが」


 片膝立ちで跪いたアビスモは、肉厚でふかふかとしている聖女の右手を取った。

 離れた小さな目には、僅かだが真剣な光が宿っているように見える。


「どうかこの悪魔に歌声をお返しください」


「いいわよ」


「え?やったー!我の豪華ゴージャスで蠱惑的な歌声!早く!早くしてくれ!」


 意外だと言いたげに目を大きく見開いたアビスモの後ろで、よたよたとなれない様子で歩くセパルが両腕を天へ突き上げた。ぴょんぴょんと跳びはねて大喜びしているセパルの声で、我に返ったアビスモが聖女を見る。しかし、そんなアビスモの視線から逃れるように彼女は小さく鼻を鳴らして、目を逸らした。


「あの田舎臭い悪魔とのものといっても、約束は約束だし……ね。それに、王都の使者からの頼みなんて実質王様からの頼みじゃない。気が弱くて優しい私にはそんなもの断れるわけないでしょ。で、どうすればいいのかしら?」


「我の歌声、早速返してもらうのだ!へっへーん」


 立ち上がった聖女の体を青い光が包む。光は粒上になってセパルの方へ吸い込まれていった。

 胸元に手を当てて少しだけ寂しそうな表情を浮かべている聖女の肩を、ルリジオがそっと抱き寄せるのを見ないふりをしてアビスモはセパルの方を振り向く。


「歌うのは、女神像の前についてからにしろ」


「嫌なのだ!歌声が戻ったらお前なんかの言うことを聞く必要は」


 アビスモにあっかんべーをして見せたセパルが、小さな口を開いて息を胸いっぱい吸い込む。


「んきゅ……!!!」


 紫の光を発してから倒れた彼女の口から漏れ出たのは、美しい歌声ではなく小さな動物があげたような可愛らしい悲鳴だった。

 それを見て呆れた顔をしたアビスモは、額に手を当てて深い溜め息を吐く。


「……俺とお前は契約関係で結ばれている。俺が雇い主、お前は雇われた悪魔。逆らおうとすれば痛い目に遭う」


「ほら、立ちなさいよ。田舎臭いあんたが砂浜に這いつくばっているなんて、似合いすぎて気の毒になるわ」


「うるさい醜女ブスゥ……」


 目元を腕で拭い、鼻をグズグズさせているセパルは、差し出された聖女の手を取って立ち上がった。


「それにしても、歌声を返せば聖女の印もなくなると思ったけどそうじゃないのね。やっぱり私は見た目も性格も完璧で特別な歌声なんてなくても聖女の器だったってことなのかしら?」


「そうだね、海月の聖女。君という海原に悠然と浮かんでいる沈むことのない双子の満月がそれを物語っているよ。しっかりとした骨格によって支えられているその素晴らしい月の上は確かな筋肉で支えられている。鎖骨の下から伸びるその曲線はどの美術品にも出せないくっきりとした健康的な……」


「……外見の賛辞は間に合ってるわ剣士様。さあ、行きましょう」


「海月の聖女……まだ語り足りないのだけれど、これを書にして神殿へ奉納してもいいのだろうか?」


「金貨も付けてくれるなら、かまわないわよ」


「この任務が終わったらすぐに奉納します。任せてください」


 背中で続けられる会話に耳を立てながら、アビスモとタンペットは決して振り向かないように注意しながらお互いに目配せをする。


「あのルリジオの猛烈な乳語りを聞いてもぽーっとしないところだけはすごいなあの聖女」


夢魔インキュバス魅了チャームも、悪魔との取引にも物怖じしない強靭な精神力が聖女に選ばれた条件だったりするのかしら?」


「そういうわけでもないと思うが……まあ、あいつが寝ぼけて印をつけたってところだろうな」


「あいつ……?聖女について心当たりがあるって言っていたけれど、そろそろ妾にも教えてくれていいんじゃない?」


「聖女の印に異常が出たか、間違えた相手に印が浮かんでいるのかもしれないという予想はしていた。あの女神……いや、悪魔は適当だからな」


 アビスモはチラリと聖女を肩越しに見てから、再び前を向いて肩を竦めた。タンペットはゆっくりと瞬きをして、唇の両端を持ち上げて微笑んだ。


「知り合いだったのなら、そうと言ってくれれば話が早かったのに……」


 拗ねたフリをするタンペットにジトリと睨まれたアビスモは、気まずそうに視線を泳がせる。

 ふふっと笑った彼女を見て、安心したように息を漏らしたアビスモは、頭を振ってから再び口を開いた。


「悪魔は信用ならない。この世界にいることに飽きたヴェパルが、異界を開いて別の悪魔を呼んでいる可能性もあった。だから事情を説明する前に状況を把握したかったんだ」


 元来た道を戻り、寝ている夢魔インキュバスたちの横を通り過ぎて、一行は夜の港街に戻ってきた。


「ヴェパルも貴方と契約を?」


「いや、俺はヴェパルと契約をしていない。あいつの契約者は旧い神々の血を引くニンゲンだ」


 静まりかえった神殿の前でそう告げたアビスモに、ルリジオ以外の視線が注がれる。

 彼は、小さな声で「まあ、本人から話が聞けるだろう」と言って、両開きの神殿の扉に手をかけた。

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