第9話 8月2日(月)KYな奴③
坪井牧場は国道沿いにある、大きな牧場だ。
みんなも知ってると思うけど、農業・酪農業の現場では、労働力不足・後継者不足の問題は深刻な状況になっている。それは摩周でも例外ではない。その解消のため今から15年程前に美紀のお爺ちゃんが世話役となって、近隣の中規模・小規模酪農家6軒が1つの法人を作った。それが今の株式会社坪井牧場だ。
美紀のお爺ちゃんである坪井友蔵さんは元町議会議員で、今でもJAや乳業会社にも影響力を持っている。その美紀のお爺ちゃんが近隣の酪農家に声をかけて、まだ各々に余力があるうちに経営基盤を統合し、設備の近代化を進める投資をして、また、労働力と乳牛を集める事で効率化を進めようとした。折からの労働力不足、後継者不足の事もあって話はうまく纏まり、形の上では有限会社坪井牧場が近隣酪農家を吸収して株式会社坪井牧場になったのだ。
美紀のお爺ちゃんが銀行から融資を引き出して設備の近代化、機械化をすすめて搾乳や給餌などの負担を減らし、また労働者確保の為の待遇改善や住宅の提供、非労働日の確保などを進め、同時に育成に努めた結果、10年掛かって経営の安定化に成功した。
『メガファーム』と呼ばれるようになる定義は完全には定まってないみたいだが、概ね年間出荷乳量が千トンを超えるとメガファームと呼ばれる事が多い。中には1万トンを超え『ギガファーム』と呼ばれる酪農家もある。坪井牧場は摩周でも1、2位を争うほどのメガファームだが、経営が安定しているのには2人の人物が大きく関わっている。それについては後程話したい。
その坪井牧場の事務所兼住宅が美紀の家になるのだが、その事務所前に母さんと慶子伯母さんが車を止め、僕たちは5年ぶりに美紀の家に来た。
ここは1階の半分が坪井牧場の事務所で、残る半分がキッチンと、お爺ちゃん、お婆ちゃんの部屋になっている。2階と3階部分が居住スペースになっていて、美紀や美紀の両親、お兄さんたちの部屋がある。
僕たちは一番先に事務所に顔を出して挨拶をした。
その事務所の一番奥には背の高い中年の男性が座っていて、その人は僕たちが事務所に入ってきたのを見ると、立ち上がって出迎えてくれた。
「おー、来たかあ」
「「こんにちはー、お邪魔しまーす」」
「お父さん、ただいまー」
「あー、おじさん、お久しぶりです」
「おお、久しぶりだなあ。4年ぶりに会ったけど、二人共随分背が伸びたなあ」
「よして下さいよお。これでもクラスでは下から数えた方が早いですから」
「おお、そうかあ。まあ、ノンビリしていってくれ」
そう言うと、この人は屈託のない笑顔を見せて笑った。この人の名前は坪井城太郎と言い、美紀の父親であると同時に株式会社坪井牧場の社長である。美紀の家は明治の頃に入植した開拓民の直系で、美紀の父さんは5代目にあたる人だ。
坪井牧場が安定している要因の1つは美紀の父さんの存在だ。美紀のお爺ちゃんが町議会議員を務めていた関係もあり30代半ばで坪井牧場の社長になったが、人心の掌握術に優れていることと、個人経営の会社にありがちなワンマン社長とはほど遠い調整型の人で、一社員の意見でも、取り入れられる物は取り入れていくという、ある意味決断力と実行力に優れた人でもある。従業員の労働環境の改善に日々努めたり、従業員の為に格安で住宅や賃貸を提供したりするなど、常に周囲への配慮も忘れない人である。もちろん、美紀のお母さんの内助の功も大きいが、全社員からの信頼も厚い。
この美紀の父さんの特徴は、何と言ってもその背の高さだ。身長は190センチを超えていて美紀のお母さんとは40センチ近くもの差があり、まさに凸凹夫婦である。もう1つの特徴は、声が低い事である。恐らく、バリトンより低いバスに相当すると思われる声の低さである。美紀が女の子にしては背が高く、それでいて声が低いのは、父親からの遺伝なのだろう。
そんな美紀の父さんに挨拶を済ませた僕と姉さんは、母さんを追いかける形で美紀の家の玄関に行った。そう、今日から一週間ここでお世話になるのだ。だからその為の荷物を運び入れる事をしなければならないし、事前に恵南や札幌で買った土産、それと帯広で買った物なども運ばなければならない。
冷蔵庫に入れなければならない物もいくつかあるのだが、美紀の家の冷蔵庫は2つあるのだ。さらに専用の冷凍庫まである。もっと凄いことに、春から秋にかけては単なる食品棚だが、冬になると冷蔵室に早変わりするスペースがある事だ。原理は非情に簡単で、この部分にだけ断熱材を入れてないので、冬になると床と壁の冷気が直接この部分を冷やすので、一種に冷蔵庫のようになるのだ。だからと言って凍結する事もない、冬場限定の電気代無料の冷蔵庫だ。
因みに北海道では、冬場にはマイナス10℃以下になるのは普通にあり、摩周のような道東や道北の内陸部は冬場はマイナス20℃を下回ってマイナス30℃前後まで下がる事も珍しくないので、屋外に普通に置いておくと全て凍結してしまうのだ。だから建物全体を断熱材で覆わないと部屋と部屋の温度差で室内が結露してしまうのだが、これが逆に『ちょっとだけ冷たい場所』という所を用意できないという欠点がある。だから冷蔵庫は必須で、電気代無料の冷蔵室は美紀の家では非常に重宝している。
「伯母さん、たい焼きはどこに入れるの?」
「あー、それは明日使うからとりあえず冷蔵庫。私がやるからテーブルの上に置いておけばいいわよ」
僕がたい焼きをどうするか聞いたら、伯母さんが間髪入れずに答えた。
明日?という事はお昼に使うんだよな・・・
「あのー、もしかして明日のお昼用に用意したんですか?」
「そうよー。網で焼けばカリカリのたい焼きのなるからねー。明日の炭火の準備は猛君に任せたわよー」
「りょーかいでーす」
でもなあ、明日の昼はたい焼きと大判焼きを主食にする訳じゃあないし、そうなると、残り物は・・・
「あー、猛君、たい焼きが残ったらどうするか考えていたでしょ?」
「あー、バレましたかあ。でも、大判焼きや三方五もあるから、明日で全部食べ切れなかったら、マジでどうするんですか?」
「たい焼きも大判焼きも冷凍しておくのよ。食べる時は一度電子レンジで軽く温めた後にトースターで焼けば、まさに出来立てに早変わり!」
「あー、そういえば父さんもいつもそうやってたなあ」
「そうよ。教えてくれたのは猛君の父さんよ。こういう田舎だと、欲しいと思っても直ぐには手に入らないからねえ。だからこうやって冷凍しておけばいつでも食べられるから、急な来客とかにも対応できるわよー」
「へえ。だから冷凍庫も大きいんだ」
「そうよ」
そう言いつつ、伯母さんはスーパーで買ってきた野菜や肉を冷蔵庫や冷凍庫に入れている。姉さんや美紀も手伝っているが、不意に美紀がニヤニヤしながら僕の方をむいて
「猛、その話、半分は本当だけど半分は嘘だぞ」
と勝ち誇ったかのような顔をした。
「へ?」
「冷凍しておいて、半分位はいつの間にかお母さんの胃袋行きに変わるんだ。まさにKYだろ?」
「はあ?あんたさあ、また母親をエゾシカ呼ばわりするつもり?いくら何でもあんな
「お母さん、図体だけがデカい生き物だったらZDIになっちゃうぞ。正解は
「みーきー、そんな話をしてもいいの?」
「あたしは事実を冷静に述べただけでーす』
「あらそう?事実を冷静にねえ。じゃあ、『あれ』を猛君に教えてもいいの?」
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