盲者と王女の建国記

第２項５話 捲られ始める二項目

　夕飯のいい匂いに誘われて、二人が木扉を勢いよく開く。

　すきっ腹に早く何か入れたいケルンとエイシャだったが、ふわふわと揺蕩うような声がそれに待ったをかけた。

「ケルン、エイシャ。先にお風呂に入ってきて。お腹空いてるだろうけど、さっぱりしてからご飯にしよう？」

　二人が競うようにして家に入ったその先、手ぬぐい（タオル）と着替えを持ったミゥが靴脱ぎ場の前に立っていた。

「あ、はい、ミゥさん。ケルン、行こう？」

「えぇ、お腹空いてるのに……」

　いつものように、ケルンはエイシャに手を引かれながら、脱衣所までの廊下を歩いてゆく。

　――エイシャがケルンの手を引くのは、目が見えない彼を誘導する為である。

　ケルンが空間魔法を習得した今、エイシャはそれをする必要は無い。

　脱衣所に向かうまでの短い距離。それも駆け足ながらでは、二人ともそんな瑣末なことに気を向けなかった。

「……ん、しょ」

　お風呂場へと続く脱衣所の中、先に入ったエイシャが麻製の上着を脱ぎ、洗濯物入れ用の籠に投げ入れる。

　次いで彼女は、手触りのいい絹製の下着（キャミソール）に手を掛けた。

「あれ？　義姉（ねぇ）さんの、俺とちょっと違うのか……」

　自分も上着を脱ぎ終え、ズボンも脱ごうとしていたケルンは、自分が置かれている状況に気づく。

　彼の視界に写り込んでいたのは、初めて見る他人の、それも女の子の裸。

　すらりとした女性の曲線。無垢な少年は、自分とエイシャのそれを見比べていた。

「早くお風呂済ませよう、私もおなか減って倒れそうだし。早く脱いでケルン」

　一糸まとわぬまま、手慣れた様子でケルンのズボンに手を掛けようとするエイシャ。

　彼女の行動に性的な側面は一切なく、純粋に目の見えないケルンを気遣っているので迷いというものが無い。

「いや、義姉さん。もう脱がせて貰わなくても大丈夫だよ、俺見えてるし」

　ケルンがそう言った瞬間――ピタッ、と赤髪の少女が手を止める。

　少年の体感にして、長い長い数秒の間が空いたように感じた。

「きゃぁっ……！？」

　やっと状況を理解したエイシャは、ボンッ！！　と顔を髪よりも真っ赤に染めて、慌てて胸と下腹部を手で覆う。

　これまで聞いたことの無い可愛らしい彼女の声に、ケルンは首を傾げた。

「え、どうしたの義姉（ねぇ）さん……？　そんな声初めて聞いた」

「ぅ……あの。私が、先に入るからさ、ケルンは後で、ね？」

「えぇ、やだよ！！　入らないとご飯食べれないし、汗でべたべたしてるし。一緒に入ればいいでしょ、なんで急に――」

「――裸を見られるのは、恥ずかしいことなのっ！！！！　ケルン、いいから早く出てって！！」

　目に涙を溜めながら、ものすごい剣幕をするエイシャに押され、ケルンは慌てて引き戸を開いて外に出る。

　少年が外に出ると同時に――バァンッ！！　と音を立て、エイシャによって扉が閉められた。

（いや、扉閉めても見えちゃうんだけどさ……『視界（モノクローム）』の有効範囲、お風呂の義姉さんが見えないように小さくしておこう。裸を見られるのは、恥ずかしいことなのか……なんでだろ、良く分からないけど）

　暫くお風呂場の前に立ち尽くしていたケルンは、不思議な顔をしながらその場を後にする。

　一方、ぽつんと取り残されるように脱衣所で一人になったエイシャは、ゆっくりとうずくまるように頭を抱えた。

「～～～～～～っ、私の、エイシャの馬鹿ぁ！！　ケルンに見られたっ、もう見えるの、忘れてたぁ……！！」

　暫くそうしていた後、お風呂前に、お風呂上りのような上気した顔で。

　彼女は水はけのいいタイル地へ、ふらふらと踏み出した。

＊＊＊

「あれ、ケルン？　どうしたのその恰好、上だけ裸で」

　とぼとぼとお風呂場から一人戻ってきたケルンに、ミゥは怪訝そうに尋ねる。

　覗き込んだ息子の顔は、不思議という文字が書いてあるかの如く顰（しか）められている。

「あ、母さん。裸を見られることって、恥ずかしいことなの？」

　しきりに首を傾げるケルンと、窓から見えるお風呂場に灯る灯りを見比べて、ミゥは微妙そうな表情を浮かべる。

「あー……うん、そっかあ。例えばケルンはさ、なんで目が見えないことを隠したがるの？」

「……目が見えないってことは、他の誰かとは違うことだから。ヒトは、ヒトの違いに敏感で、違うってことが大嫌いだから」

　数秒考え、ケルンは答えを出す。

　ミゥは静かに頷いて、息子を諭した。

「だよね。ヒト種は、誰かが見てるときには服を着てることが当たり前なの。だから裸を――他の誰かと違う状態を見られることは、恥ずかしいって感情に繋がるの」

「そっか。裸でいること自体が、服を着てる他のヒトと違うからか。義姉さんが今まで俺とお風呂に入って平気だったのは、俺の目が見えなくて、その違いを気にしなくて良かったからなんだ」

　納得がいったと、ケルンは一度コクリを頷く。

　そんなケルンをじとーっと見つめて、ミゥは息子を嗜める。

「思えば、ケルンは空間魔法で、どこにいてもどこでも覗き放題だね？」

　――「しかもケルンがどこを見てるのか、他人には分からないし」と割と真面目に考えるミゥに、ケルンは苦笑交じりでツッコみを入れる。

「いや、もう見ようとしないから！！　お風呂あがったら見たこと義姉さんに謝るし！！」

「くれぐれも、悪用禁止だよ？」

　念を押すように母親に言われたケルンは、「しないよ……」と疲れたように言い、がくりとうなだれた。

＊＊＊

　やや気まずくなりながらも、ケルンはエイシャが上がった後にお風呂を済ませ、食卓に着いていた。

　食事中は特に会話も無い――といっても、訓練のキツさからケルンとエイシャ二人はお腹が空きすぎていて、食べるのに集中しているというのが主な理由だ。

　凄まじい勢いで夕食をかき込んでゆく二人をミゥは微笑ましく見守り、テインも静かに箸を扱う。

　――そんな中。テインの着流しの懐中にある『拾音器』から、凛と澄んだ声が聞こえて来た。

『あー、あー、聞こえてるかしら？　こちら、リセリルカ・ケーニッヒよ。通信が『都市台座』外壁の破魔の石に阻害されてるみたいだったから、突貫工事で改良してみたのだけど』

　聞こえて来た声に、ケルンとエイシャがピタリと手を止めてテインを見る。

　視線を受けた彼は、懐から石型の魔法具である『拾音器』と『伝音器』の二つを取り出し、互いを十分に離して食卓の上にコトリと置いた。

「聞こえています、リセリルカ様。『都市台座』からでも問題なく通信できるようになったみたいですね」

　テインの代わりに、隣に座るミゥがその金声玉振の声に答える。

　エイシャはその声に覚えが無かったが、興味よりも食欲の方が勝ったようで、黙々とミゥ手製の料理を口に運ぶ作業に。

　一方ケルンの方は身を乗り出して、『伝音器』に向けて声を出した。

「……リセ？　聞こえてる？」

「ん……ケルン？　久しぶり、進捗はちょくちょくミゥから聞いてるわ！！　随分苦戦してるみたいね？」

　『拾音器』の向こうの声のトーンが、嬉しそうに跳ねる。

　ツィリンダー家で、外出担当といえばミゥだ――というのも、彼女は食事の材料や生活必需品の買い出しをしたりと、家事全般をこなしている。

　ケルンとエイシャは言わずもがな訓練に明け暮れ、テインの方も工房で魔法具の作成をしていることがほとんどで。

　買い物ついでにミゥは、リセリルカの居る『都市台座』まで週一の頻度で向かい、情報交換とケルンについての話をしていた。

　そして、彼女が王女の元を訪れたのは、先週の事だ。

「聞いてよリセ！！　今日俺、ついに空間魔法使えるようになったんだっ」

『まったく……禁書の魔法よ？　簡単なことではないからって、励まそうと思って通信をかけたのに、当てが外れたわ。おめでとうケルン、それは、間違いなく偉業よ』

　ケルンの話を聞いたリセリルカは、驚き半分、呆れ半分を声に滲ませて言う。

　それでも彼女の声には、隠しきれない祝福の気持ちが乗っていた。

　暫くリセリルカは沈黙した後、小さく『……良し、決めたわ』と呟く。

　声色を変えて、リセリルカは王女として少年に話しかけた。

『ケルン。貴方が仕上がるのは、あと三か月は先になるかと思うけれど、今話しておく事にするわ』

『仕事の話をしましょう、ケルン・ツィリンダー。成功の暁にはその功績で、私はケルンを家臣に迎え入れるつもりよ。貴方の成長を、努力を、弱者でないという証明を。その結果で示しなさい』

　堅苦しい口調をしていても、声色を通して伝わるリセリルカからの期待に、ケルンはにやりと挑戦的に笑った。

「リセ、俺やるよ――いや、試してみたいんだ。覚えたこの魔法が、この剣が、きちんと役に立つかどうか。俺が君の役に、立つかどうか」