放送室を出ると、古びて床のほとんど抜けたいっそ梯子と言った方がしっくりくるような階段があった。それをどうにか降りた先には、古びたボールを一杯に納めた錆びた籠。つまりここは、体育館の倉庫というわけだ。

 倉庫の扉を開けば、広い空間が広がった。フロアの左右に据え付けられたバスケットゴール。二階のギャラリーの更に上には天井がなくて、宇宙の闇が広がっている。先にそれを見たという龍祈たつきは、それを【石炭袋のようだ】なんて言ったけれど、僕にはピンと来なかった。『銀河鉄道の夜』にも出てくるみなみじゅうじ座付近の暗黒星雲のことらしいけれど、暗黒という割には星が点々と見える。

 ……しばらくその暗黒を見ていたら、なんだか妙な気分になった。胸が痛むような、ばつが悪いような。道端で泣いている子供を知らん振りして通り過ぎようとしているような心地。掌に刺さっても血すら出ないような小さな棘がぷつぷつと心臓に刺さってくる気がして、僕は頭を振り、空から目をそらすことにした。相変わらず、空からのコウコウという鳴き声はやまない。

 ステージには舞台幕がかかっていて、フロアは伽藍堂。出口は磨りガラスのドアだった。特にやることもないので、僕は真っ直ぐに出口に向かった。縁が錆びている割に、すんなりと開いた。先に龍祈が開けたから滑りが良くなったのかもしれない。ドアを横にスライドさせるとカラカラと軽快な音が響いた。

 廊下には天井があって、暗かった。夜の校舎を怖がった時期もあったなあと、ふと子供の頃が懐かしくなる。今は特に怖くはない。廊下の壁には針金で刻んだような文字があって、光を薄らと透かしていた。よくよく読んでみると、それが『銀河鉄道の夜』の一部なのだと、物語の内容なんてほとんど忘れている僕でさえわかった。

 日本人の最初の星の子が宮沢賢治で、その後は僕らの代まで観測されていなかった……という龍祈の話が本当であれば、龍祈が言った『ここは過去の星の子の記憶でできた場所』説は正しいのかもしれない。あまりにも非日常すぎるけれど、今は信じてその前提で景色を見るしかない。

 廊下には確かに四つの扉が見えたけれど、どうせ鍵が開かないならここに留まる理由はない。最奥からうっすらと聞こえてくる話し声を頼りに、僕は先へ進んだ。

 辿り着いた先で、やはり古びたのドアを横にスライドさせようとして――開かないことに気づく。嫌にドアがガタンと音を立てた。

 誰、と声が聞こえた。こよみ? たつ? 花織かおりの声だ。僕は自分の名前を短く告げる。カタン、と内側から鍵が開く音がして、扉が静かに開いた。影。

 僕を、影が覆う。僕より頭一つ背の高いそれはこうのもので、僕は急に目の前に現れた昂の顔に驚いて、息を止めた。薄暗い室内から僕を見下ろすその瞳はオニキスみたいに真っ黒だ。そして、綺麗だった。

「……怪我とかか?」

「あ、うん……」

 しばらくじろじろ見られていると思ったら、そんなことを気にしていたらしい。花織は泣きそうな顔で僕に突進してきた。正しくは、抱きついてきた。僕は反射的に昂を見たけれど、その無表情からは感情が読み取れない。違うよ、と言いたいのに唇が乾いている。花織は、僕がたつを好きだと思ってるから、平気で僕にこんなことできるんだ。僕が特別とかじゃない。

 お願いだから、君まで僕を誤解しないでいてよと、そんな心は言葉にすらならず、吐息にすら混ざらず、僕はただ体を強ばらせただけだった。

「たつは!? たつはどこにると? こよちゃん知らん!?」

 花織が泣きそうな顔で僕を見上げる。僕の口は心のこもってない言葉を吐き出した。まだ眠いからって、放送室で仮眠してる、あ、放送室って体育館の倉庫から上って二階にあるんだけど。……そんな、龍祈に用意された言葉が無機質に落ちる。

 早く合流したいと急く花織を、柳楽なぎらさんがまあまあ落ち着いてと軽い調子でたしなめ、そんな柳楽さんを昂が不快そうに睨んでいる。花織は唯一龍祈の無事を知る僕しかもう見えていないみたいだった。なんだか馬鹿らしいし気持ちが荒む。

 ねえ、たつは皆を利用して実験してるんだよって言いたくなる。あのレポートを読んでから、僕の心は揺れていた。僕はどうするのが最善なんだろうと。僕なんかじゃ皆の救いになんてなれないんじゃないか。だって僕は、僕だけは星の子じゃない。ただの巻き込まれた――

 僕は縋るような花織の眼差しから目を逸らして、改めて教室を見渡した。そこは確かに古い部屋だった。机も椅子もパイプなんて持たず古びた木と螺子だけで出来ている。体育館と同様に天井はなく、星空が広がっていた。そして黒板には、ほとんど消えかかった文字が書かれていた。

『僕だって、君を愛していた』

「何、これ」

「さあ」

 僕の呟きを、昂が拾ってくれる。柳楽さんは拾ってくれない。それを意識したら、心臓が燃えあがるような妙な気分になる。

「何かわからん。最初から書いてあった。あ、あと、鍵束、教卓から出てきた。柳楽さんが持っとる」

 昂の言葉を受けて、柳楽さんがじゃらりと鍵束を顔の横で揺らして見せた。そこで初めて、僕と柳楽さんの目が合った。その眼差しは居酒屋で見せた冷たいものではなかった。まるで今までと変わらないような、仲のいいルームメイトや、あるいは同級生に対するものと違いなかった。僕はほっとして――けれども無性に腹が立った。そして、

「とにかく、鍵もあるし、こよちゃんの放送の通り床を掃除したけど……何も無いし、早くたつのところ行こう? 離れ離れは嫌だよ」

……焦りを隠せないでいる花織にも、苛立ちが募った。

「何も無い? まさか」

 何があるとも知らないくせに、気づいたらそんなことを言って、僕は笑っていた。

「龍祈があれを放送しろって俺に言った。それなら何かあるはずだろ。というか、みんな俺に話すことはないの」

 柳楽さんが小馬鹿にしたように笑った。

「何かって何? 本当に何も無かったんだよ。ああ、後から来た暦海こよみクンはわからないだろうから説明するね。オレ達が目が覚めた時、みんな椅子に座ってたんだ。フルーツバスケットって遊び知ってる? あんな感じで椅子同士向かい合ってさ。それで、床にはパチパチ弾ける光の屑のような欠片が一面に敷き詰められてた。片付けるって、これのことかと思って、そこのロッカーから掃除機出して、全部吸い終わった後なんだよ。うっかり真っ暗になっちゃったよねえ。まあ、目も大分慣れたけど」

 柳楽さんはぺらぺらといつものように話し出す。花織が捕捉する。

「そう、それでその後でこの空のランプも見つけて……ここに光の欠片を入れたら明かり代わりになるんじゃなかかなって、この掃除機からどうやって取り出そうかって話してたとよ……足元が見えんとは危なかし」

 花織は透明なランプボトルを持ち上げて見せた。

「足元? ?」

 僕はといえば、煮立ちつつある腹の中のものに吐き気がしてきていた。三人が何かを隠しているのだ。それともこれは、龍祈のせいの、思い込みだろうか?

「足元より目の前を見なよ、花織。たつにいいように利用されてるじゃんか。それから柳楽さんは何? 何事も無かったかのように暦海くん呼び? こんな非現実的な場所に来て、安否確認はいいよ、でもその次に話すことがそんなことしかないのか? 俺が案外取り乱してないから安心でもしたの、みんな」

 胃が痛い。背を丸めて胃を押さえながらも僕は三人を――いや、主に花織と柳楽さんを睨んだ。ふつふつと煮えたぎっていたものが弾けて、涙にはならなかったけれど、それが悲しみだと僕は自覚した。

「それとも、たつに説明してもらったと思った? それなら自分たちは話さなくてもいいとか思った? なんだよ星少年だの星の子だのって。なんだよこの場所。あんたらなんとなく分かってんじゃないの。俺だけわかってないんだよ。俺だけはわかってなくてもいいって、そういうこと? 馬鹿にせんでくれん? 馬鹿にするな! お前ら嫌いだ!」

 僕の声は、嫌に反響した。しん、と辺りが静まりかえって、しばらくして、花織が、ちがう、そんなつもりじゃない、と声を震わせる。柳楽さんは耳を小指で掻いた後、「まーた発作か」と軽い調子で言った。

「暦海クン、かんしゃくもちだから二人は気にしなくていいと思うよ。多分混乱してるんでしょ。まあ、言わないでいいと思うって話つけてたのオレだしね。ごめんごめん」

「かんしゃくもち……?」

 昂が、奇妙なものを見るような目で僕を見た。僕はそれがいたたまれないと思ったし、柳楽さんの言い様にまた腹が立った。なんだこの変わり身はと。花織に出会う前の柳楽さんだったら、こんなこと二人の前で言わないでいてくれたはずだった。僕のデリケートな部分でもあった。柳楽さんはやっぱり、僕を粗雑に扱っている。今まで僕は柳楽さんを優しい人だと思っていたのだけれど、柳楽さんにとっては単に僕には何かしらの価値があって、花織と出会ってからはそれがなくなったというだけのことなのだ。そうと理解してしまったら、無性に傷ついた。僕の中の柳楽さんが崩れていって、僕は何を信じていたらよかったのか、軸がぶれていく心地がして。

「……柳楽日向ひなた、最低だね」

 僕は口を歪めて、そんな捨て台詞しか言えない。結局聞きたかったことも聞けないまま、僕は一つの扉の方へ逃げ込んだ。廊下へのドアとは別の、黒板の隣にあるドアだった。鍵は柳楽さんが持っているということすら失念するほど、頭が真っ白だった。けれど鍵は開いていたから、その真っ暗な空間に僕は雪崩込むように飛び込んで、蹲った。



「……花織、その人と二人で大丈夫か」

「え? あ……うん、任せる、ね……こよちゃん、今私の話も、もう聞いてくれん気がする」

「あれー、ここはオレが行けって言われると思ってたのになぁ」

「……自分の言動ば省みたらどうすか。二人のこと知らん俺でも分かりますよ、ギスギスしよるって。暦海のとこ行ってくるけん。……あんたは変なことはすんなよ。したらぞ」

? どういう意味?」

「えっと……殴る、的な……」

「こわ」


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