第36話

「あのさ、なつ。キス……してもいい?」


「ムードもへったくれもないね。シチュエーションは完璧なのに」


「ごめん。こういうのに慣れていなくって」


「わたしだって慣れていないよ。というか、そもそもキスなんてしたことないし。どこかの誰かさんはもう初めてを済ませちゃったのかもしれないけどさ……」


 言いながら、ニヒルに笑う。頭のなかで浮かべているイメージは小悪魔だ。悪意のないようにからかってみた。――ごまかせているかな、うるさい胸の鼓動を。


 そっと胸に手を当てる。ばくばく鳴っていて、止まりそうにない。まあ、止まっちゃったら死んじゃうんだけど。でもこの胸の高鳴りが愛おしいとさえ思う。


「手厳しいね……あんなの、ノーカウントにしたいくらいだよ。僕からじゃないし、不本意だったし。四葉さんには悪いけどね」


「かなたをキスの練習台にしたくせに、なにその言い草。プレイボーイ?」


「そうかもしれない……なんてね。僕はともかく、なつが初めてだなんてびっくりだよ。もうそういうことはあらかた済ませているんだと思っていたから」


「なにその偏見。わたしをなんだと思っているの」


「高2の女子はだいたいそんなもんだ、って賢一が」


「ふーん? とりあえず賢一くんには明日の朝いちばんに、不意打ちビンタをお見舞いするとして。えっと、キスってほんとにするの? 練習とかしたほうが良い?」


「あれ、練習は不埒なんじゃなかったっけ。したくなかったら、いつでもいいし」


「雄二のいじわる。そんなこと言われたら、いましないとダメみたいじゃん」


 雄二の顔に、特に唇に熱い視線を送ってみる。リップクリームを塗っているみたいに潤っていて、清潔感のあるピンク色をしていた。思わずそれに吸い込まれそうになるが、長年のあいだ培ってきた我慢強さと理性が、わたしに力をくれた。


 ――でも。


 わたしの身体は自然と雄二に近づいていく。理性ではどうにもならないことだってある。もう彼への想いを止めることは誰にも――わたし自身ですらできないかも。


「あのね、雄二。お願いがあるんだけど」


「お願い? 僕ができる範囲のことなら、叶えてあげられるよ?」


「ええと、その。わたしを抱きしめてほしいんだ。ぎゅってしてほしいの」


「抱きしめる……こ、こんな感じ?」


 ぎこちない手つきで雄二がわたしを包み込んでくれる。温かい。いままでずっと望んでいたことが現実になるなんて。幸せだ。なんだか涙がとめどなく溢れてくる。


「ご、ごめん。やっぱりやめるね――」


「――違うの。このままでいいよ、雄二。わたしね、ずっとこうなることを夢見てたの」


 つまりは、幸せという形のないものを具現化してくれることを。温もりを感じることを。雄二と気持ちが繋がることを。雄二がわたしを抱きしめてくれることを。


「……雄二。キス、して」


「うん。うまくないかもだけど、許してね」


 夕暮れの公園で、ふたりの影が重なる。――これが、ハッピーエンドなんだ。

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