物語の断片
フィオリーニア・フェルムという舞姫
「もったいないことするわねぇ、フィオ。貴女なら一座の花形にだってなれるのに、それを棒に振って『教育を受けに行く』なんて」
「学校なんてつまらなくてくだらないところよ、今からでも止めときなさいよぅ」
ダンサー仲間たちの呆れたような台詞群を聞き流し、フィオリーニア・フェルムは粗末なトランクに荷物を詰める。
何とでも言うが良い。
自分はこんな――こんな場末の劇場ダンサーで終わるつもりなどないのだから。
フィオリーニアは、教育を受けるということの意味も知らない者しかいないような、こんな場所で終わりたくなかった。だから行く。教育を受けるために。
そう。
教育を受けて『こんな場所』から抜け出すためにだ。
「これ、貰ってくださいな。トランクに入らないの」
むやみに大きいばかりが取り柄の香水瓶を放り投げると、案の定ダンサーたちはそれに群がる。
フィオリーニアは教育を受けに行くのだ。こんな甘ったるくて安っぽい香水は、そうした場にはふさわしくないだろう。荷物に入れるだけ無駄だ。
香水瓶を奪い合い始めたダンサーたちを尻目に、荷造りを終わらせて、さっさと寝台に入る。
船出は明日に迫っていた。
ダンサーたちが香水瓶を奪い合う賑やかな声が、やかましい。
……自分は、ああなりたくない。
絶対ならない。
なってたまるか。
執念にも似た苦い思いが溢れてくるのを無理矢理噛み潰し、フィオリーニア・フェルムはぎゅっと瞳を閉じた。
フィオ――フィオリーニア・フェルムは、イタリアの下町に生まれた少女だ。
けれど幼い頃から、運動神経と容姿は周囲の子供たちよりあきらかに抜きん出ていた。
そんなフィオを、場末の劇場オーナーが雇ってくれた。
しかし、フィオの持ち物は運動神経と容姿だけではなかった。
周囲が面白半分に文字を教えればすぐさまそれを覚え、次は計算を教えれば数字を自在に操り、本を与えてみれば内容を何ページでも暗唱し――
つまるところ、フィオリーニア・フェルムは賢い娘だったのだ。
やがてフィオは悟った。
この下町の外にはもっと広い世界があること。そこには知識がいくらでもあること。そしてそれらを理解することが自分にはできるだろうということ。
しかしながら、それを知った後もフィオはひたすらダンサーとして研鑽を積み続けた。
自分には優れた容姿がある、高い運動神経もある、そして賢さもある。
しかしそのほかにはなにもない。智慧はあるが知識も人脈もなく、金もないただの小娘にすぎない。
だからこそ、それらを手に入れるためにずっと己を鍛え、そして、立ち回っていたのだ。
フィオはその時が来るのを待ち続けた。
そしてある日、とある物好きな上得意客がオーナーにこう提案したのだ。
「彼女にアルストロメリア学園の試験を受けさせてみないか?」
アルストロメリア学園。
世界最高峰の教育機関の一つ。
魔女と仕立て師を育成することにかけては抜きん出て頂点にあるといっていいだろう。
そこに入学し、卒業することさえできれば――
アトランティスの港風が、長い黒髪を揺らす。
ここに来るまでの船旅で、フィオリーニア・フェルムは十八歳になっていた。
これから魔女科の入学試験を受けに行く。そしてそれに合格すれば、ちゃんとした教育を受けることができるのだ。
ここまでの船代や、試験代や、滞在の費用はパトロンになってくれた客に払って貰っている。だが、アルストロメリア学園では、特に成績優秀な者であれば学費だけではなく、さまざまな奨学金や支援金が受けられる。
誰にも恥じない、立派な学を身に着けることが出来るのだ。
けれど、それだけ満足はしない。
今は無学なフィオリーニアにも、それなりの野心はあった。
――私は、アルストロメリア学園で一番になってみせる。
そのためには、まずは一番で入学しなければいけないだろう。
やる気をあらたに試験会場へ向かう道すがら、緑やピンクの賑やかな髪色の少女たちが楽しそうに、フィオと同じ目的地へと歩いているのを見た。
……フィオは思わず、自分の長いだけの野暮ったい黒髪をつまみあげる。
アトランティスの住人には、ああいう変わった髪色や目の色の者が生まれるという。
それなら彼女らは地元の少女たちといったところだろう。それに、身に纏う雰囲気が明らかに華やかで垢抜けて、おしゃれだった。
……あの少女たちも、試験に合格すれば同級生として学園に通うことになるのだろうか。
きゅっ、と胸が締め付けられるような思いを、理性でもって落ち着かせて、フィオは試験会場へ歩みを進めた。
――それでも、自分は負けない。負けられない。
自分が常に一番でありつづけよう。
ふわり。アトランティスを渡る海風が頬を撫で、黒髪をなびかせる。
「……そうですね、試験に合格したら、この髪は切ってしまいましょう」
もう、場末の見習いダンサーのフィオとは決別する。
過去を抱えたこの黒髪はばっさりと切ってしまおう。
フィオリーニアは一度だけ港を振り返った。
――そう。もうきっと、二度と
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