4-3

 まだ、事情がはっきりするまで父さんや母さんには言えない。

 そう思って、僕は美琴みことさんを円満に送り届けてきたていを装って、家に帰ってからも努めて普段どおりしていた。

 眠れない夜。

 スマートフォンで撮影したエプロン姿の美琴みことさんの画像を、開いては眺め閉じては開いてを繰り返し、気がつけばいつの間にか空がゆっくりと色を取り戻し始めている。

 水を飲もうとキッチンへ下りた。

 リビングで顔を合わせた葉月はづきのひと言に少し驚く。

「おはよう、お兄ちゃん。ふぅん、ミコっちゃんとなんかあったでしょ。顔に書いてあるよ?」

 さすがは妹だ。

 小さいときから、ずっと僕の顔色をうかがってきた葉月はづき

 遊んで欲しくて寄ってきても、僕の機嫌が悪いと罵声を浴びせられたり、ぞんざいに扱われたりして腹立たしい思いをしてきた葉月はづき

 でも葉月はづきは一度も面と向かって僕に抗議してきたことは無い。いつも苦虫を噛んだような顔をして、我慢して、そして何事も無かったように僕を放免する。

 いまになって、美琴みことさんと出会って、そして美琴みことさんを思うお兄さんの存在を知って、僕はようやく気がついた。

 どんな思いで葉月はづきが毎日暮らしていたのか。どんな思いで僕の顔を見ていたのか。

 だから今日、葉月はづきが僕の内心に気がついたのは、その思いを胸にひそめてきた葉月はづきだから、僕のことを本当に大切に思ってくれている妹だからだ。

 本当にありがたいという気持ちと、とても申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。

「そう? 心配してくれてありがとう。話せるようになったら、葉月はづきに一番に話すから」

「うん」

 葉月はづきは最近よく言う「素直すぎて気持ち悪い」という言葉を、今日は言わなかった。

 学園祭は今度の土日。

 一般公開は日曜日だけで、土曜日は学生向けの学内公開。

 僕らの「むかし制作」は、日曜日の午前と午後にそれぞれ一回ずつ上演される予定だ。

 上演が終わった後は、制作に使用したカセットデッキやテープなんかとあわせて、あゆむさんから借りた学生時代の番組制作風景の写真を展示して、ちょっとした資料展示会もやる。

 あゆむさんには、先日お誘いのメッセージを送っておいた。しおりさんと一緒に聴きに来てくれるらしい。

 あゆむさんが「光風こうふう伝言でんごん」のかなでさんを想ってつむいだ「図書室の幽霊」の物語。

 その大切な物語を、僕が美琴みことさんのために新たに作り直したこの作品を、二人はどう聴いてくれるだろうか。


「すいません橋本先輩、ちょっと横とおりまーす」

 学園祭前の追い込み、部室は長椅子やテーブルが持ち出されて、雑多な作業場に化している。

 すでに編集を終えて仕事が無くなってしまった僕は、昨日きのう美琴みことさんのメッセージを失意のまま何度も読み返しながら、部室の隅っこで何をする訳でもなく力なくうなれていた。

 その、眺めていたスマートフォンが突然鳴る。

「父さん?」

 画面には「橋本法律事務所」の文字。

 珍しい。夕方のこんな時間、たぶん仕事はまだ忙しいはず。わざわざ電話してくるなんて、そうそう無いことだ。

 僕はちょっと不思議に思いながら、僕の方を振り向いた作業中のみんなにちょっと頭を下げて通話のボタンを押した。

「もしもし?」

『あ、すまんな。いま、いいか?』

「どうしたの? こっちは別にいいけど」

『ああ、ちょっと困ったことになってな。この借りている事務所、今日突然、来週中に出て行ってくれって言われてな』

「え? なんかやらかしたの?」

『やらかすわけないだろう。家賃だってきちんと払ってるし、他のテナントさんとも仲良くやってるのに、寝耳に水だ』

「なら、どうして出て行けなんて言われるのさ。それも来週中なんて」

『分からん。それでだ。お前の先輩、ええっと、優花ゆうかさんだったか? この湯浦ゆのうらビルの経営者の娘だよな? ちょっとそれとなく聞いてくれないか?』

「聞くって、何を?」

『いや、湯浦ゆのうら建設の経営上の問題なのか、それともうちの事務所に何か落ち度があるのか、これじゃまったく分からないだろう?』

「そんなこと僕が聞けるわけないよ。だいたい、優花ゆうか先輩が父親の会社の経営のことまで知ってるとは思えないし」

『まぁそうだろうが、こちらも突然出て行けと言われてもなぁ。何かうちに問題があるんなら改善すると言ってるって、社長に取り次いでもらえるよう頼んでくれないか?』

「うーん、仕方ない。分かったよ」

『頼む』

 父さんは真剣だった。

 いま抱えている案件が一段落するまで、事務所の場所がどうだとか悩んでいる暇はないのが実情のはずだ。

 僕はすぐに部室を見回した。

 いつもその辺に居て僕の邪魔をしてくる優花ゆうか先輩は、今日に限って部室には見当たらない。

 荒木や他の後輩たちも、誰も優花ゆうか先輩の居所を知らないらしい。

 気は進まないが、あとは電話するくらいしか手段がない。

「荒木、すまん。ちょっと優花ゆうか先輩を捜してくる。どうしても聞きたいことがあって」

「え? そうか。他のみんなはいま下で呼び込み用のポップを貼る立看板を作ってるところだ。まぁ、手は足りてるから気にするな」

 ここ最近、荒木とはまったく揉めていない。

 奴が大人になったのか、それとも僕が完全に諦められたのか。

 部室を出ると、僕はイヤイヤながら優花ゆうか先輩に電話を架けた。数回の呼び出し音のあと、通話がつながる音がする。

 最初に聞こえたのはゴゴーっという風の音。

 それからガサガサと衣擦きぬずれのような音がして、突然明るい優花ゆうか先輩の声が響いた。

『おおー、はじめくぅん。お疲れさまぁ』

「あ。先輩すいません。いま、いいですか?」

『どーしたのぉ? はじめくんから電話してくるなんて珍しいねー』

「ちょっと話したいことがあるんですが、いま、どこに居ます?」

『いま? サークル棟の屋上だよ?』

「ちょっと話できますか?」

『うーん、ちょっと別の人と大事な話してるんだけど、ま、いいか。はじめくんにも関係あるし』

「誰ですか?」

『来たら分かるよ? すぐおいで』

 僕が「分かりました」と言う前に、優花ゆうか先輩は一方的に電話を切った。

 胸騒むなさわぎがする。

 僕はすぐに階段を駆け上って、サークル棟の屋上を目指した。

 部室のすぐ上、階段を上り詰めた先にある屋上は、ユーの字型のサークル棟の東半分。高い金網フェンスで囲まれていて、見晴らしはあまりよくない。

 ただ、他人に聞かれたくないちょっと面倒くさい話をするには、なかなかおあつらえ向きの場所だ。よほど用事が無い限り、ここに上がって来る学生は居ない。

 重い鉄の扉がうなる。

 扉を開け放ったとき、そこには二人の人物が居た。

 真正面に見えたのは優花ゆうか先輩。秋らしい茶色ベースのふわりとしたフレアスカートが、ゆったりと風に揺れている。

はじめくん、いらっしゃーい」

 そう言っておどけて見せる優花ゆうか先輩の目は、まったく笑っていない。笑うどころか、その目は冷淡で何かを見透かした目、僕が一番嫌いな目をしていた。

 優花ゆうか先輩の手前には、僕に背を向けてひとりの男性が立っていた。

 作業服の上に緑色のMA-1エムエーワンジャンバーを引っ掛けている。

 この後ろ姿には見覚えがある。少し赤い長髪を首の後ろでひとつ結びしていて、ちょっと不機嫌そうに腕組みをしている。

 間違いない。美琴みことさんのお兄さん、美弦みつるさんだ。

橋本はしもとくんか。何しに来たんだ」

 半身振り返った美弦みつるさんが、少し顔をゆがめてそう吐き棄てた。

「ちょうど良かった。三國みくに先輩にもお聞きしたいことがあったんです」

「お前から先輩なんて呼ばれる筋合いは無いんだがな」

「あーら、同じ大学の卒業生なんだから『先輩』でいいんじゃないですか? そうでしょ? 三國みくにせーんぱい?」

「俺たちの話はまだ終わってないぞ? 橋本くん、もう少し席を外しておいてくれないか」

「もぉ、いいじゃないですかぁ、先輩。この話はこれで終わりでーす。美琴みことちゃん、もう出発したんでしょ?」

「出発? なんの話ですか?」

「お前には関係ない。美琴みことのためだ」

「どういうことですか? 優花ゆうか先輩」

「あら、美琴みことちゃんから聞かなかったの? 図書館司書になるための学校に行くって」

「いえ、聞いてないですけど」

「ふぅん。はじめくんに言わなかったんだー。そっか、もうこっちに戻って来ないかも知れないからねぇ」

優花ゆうかちゃん、俺はその『戻って来ない』という話は聞いてなかったんだ。それを聞いていたら行かせなかった」

「いーえー? 私、言いましたよ? でも、いい話じゃないですかぁ。お金はうちのお父さんが出すんですし」

湯浦ゆのうら建設が出すだけで、お父さんが出すわけじゃないだろ」

「おんなじことですってー」

美琴みことさん、戻ってこないかもって、どういうことです?」

はじめくん? はじめくんは、来年、うちのパパの会社の入社試験、受けに来てくれるよねー?」

 美弦みつるさんの肩越しに見える、ニヤリと笑った優花ゆうか先輩の顔。なんとも不気味な笑みをたたえて、僕の様子を覗っている。

「突然、何の話です? 僕はいま美琴みことさんの話をしているんですが」

はじめくんはぁ、美琴みことちゃんの事は心配しなくていいのよぉ? ちゃーんと湯浦ゆのうら建設が彼女の将来を保障するし」

「将来?」

「そ。そして、あなたの将来もよ? 卒業したら湯浦ゆのうら建設の社員になるんだから。ね? はじめくん?」

「何ですか? 誰がそんなこと決めたんです?」

「私よ? 悪い?」

「悪いですね。僕はそんな気はありません」

美琴みことちゃんの将来がダメになっても?」

「どういう、……ことでしょうか」

「橋本くん、実は優花ゆうかちゃんの、……いや、湯浦ゆのうら建設社長令嬢のはからいで、美琴みこと湯浦ゆのうら建設が福祉事業として行っている障害者支援を受けさせてもらえることになったんだ」

「そうよー? その支援枠でぇ、来春から美琴みことちゃんを資格取得のための学校に行かせてあげるのー。で、その事前教養ってことでさっそく今日出発したのよー?」

 美弦みつるさんは一瞬だけ優花ゆうか先輩をにらみつけると、それから視線を落としながら肩をすぼめてポケットに両手を入れた。

「キミには悪いが、ずいぶん悩んだ上で、美琴みことの将来を考えて行かせることにしたんだ」

「その学校って、どこにあるんですか?」

「東京だそうだ」

「東京?」

「あのね? はじめくん。学校自体は二年なんだけどぉ、その学校へは地方への人材誘致のための推薦枠で入ることになってるからぁ、残念だけど美琴みことちゃんは卒業したらそのままどこか指定された県の図書館で働くことになるの。どこか分かんないけど」

「だから、それは聞いていないって言っているだろう? 優花ゆうかちゃん」

「あらー? 言いませんでしたっけー?」

「わざとやってるのか?」

「なんの話ですかぁ? 三國みくに先輩」

 美弦みつるさんの声が一段階下がって、優花ゆうか先輩のしたたかな顔は一層色づいてゆく。

「分かりました。なら僕はその昔に大先輩がしたように、何もかも捨てて美琴みことさんを追いかけるまでです」

「ふぅん。えっとねぇ、はじめくんのお父さんの事務所立ち退きの件だけど、はじめくんがちゃんと美琴みことちゃんを諦めて湯浦ゆのうら建設に入社して、それからずっと私の隣で頑張ってくれるって約束してくれたら、出て行かなくていいようにもできるんだけど」

「そういうことですか」

 僕はふつふつと沸きあがる怒りを抑えながら、ゆっくりと視線を上げて優花ゆうか先輩のニヤリと上がった口角を凝視した。

優花ゆうかちゃん、やっぱりやめる。美琴みことを呼び戻す」

「あら、それなら湯浦ゆのうら建設の物件で使ってあげている先輩の会社の契約は全部解約ですね」

「なんだって?」

「二人ともぉ、美琴みことちゃんのこと、本当に大切に思ってます? せっかくの機会なんだから邪魔しないであげたらぁ?」

 これは脅迫だ。

 どうしても、僕たちから美琴みことさんを遠ざけたいらしい。どうしてそんなに美琴みことさんをかたきにするんだ。

 美弦みつるさんはずっと黙っている。

 以前、美琴みことさんから聞いたことがある。いま、みくにビルメンテナンスが順調に会社を回せているのは湯浦ゆのうら建設のおかげだって。みくにビルメンテナンスの全契約数の三分の一が湯浦ゆのうら建設の物件で、しかもずいぶん割高な料金で契約をしてくれているそうだ。

 その湯浦ゆのうら建設との契約が全部無くなれば、みくにビルメンテナンスは立って行けない。たぶん契約は一年更新。契約が満了する年度末にまでに、全体の三分の一もの顧客と同等の新たな契約先を探すのは不可能だ。

 実は、父さんが経営している弁護士事務所も事情はそう変らない。

 いま、父さんの事務所の経営がそれなりに成り立っているのは、悔しいが、湯浦ゆのうら建設のおかげと言わざるを得ない。

 近隣の企業から容易に仕事を持ちかけられる非常に良い立地の湯浦ゆのうらビルに事務所があり、湯浦ゆのうら建設自体が抱える法律問題の案件もその一部が仕事として父さんに依頼されている。

 その依存度はみくにビルメンテナンスほどではないが、それでもやはり湯浦ゆのうら建設に頼るところが大きいことは変らない。

 それに、僕も美弦みつるさんも、冷静になって美琴みことさんの将来を考えてみれば、やはり資金を出してもらえて美琴みことさんの夢が叶えてもらえるのなら、このまま優花ゆうか先輩が言うとおりにする方がいいと言う結論に達するのは必至ひっしだ。

 ならこのまま、この脅迫に屈するのか。

 僕の美琴みことさんを好きだという気持ちは揺るがない。

 でもそれはエゴだ。みくにビルメンテナンスの社員たちの生活や、父さんの法律事務所には関係のないことだ。

 風が強くなって、耳の横でゴゴーッと空気が流れる音がする。

 その音が途切れたとき、不意に美弦みつるさんが僕のほうを振り返った。

 怒りに満ちた瞳。

 でも、それは僕に向けられたものではないことはすぐに分かった。

 美弦みつるさんは食いしばった歯を僕から隠すように顔をそむけながら、ゆっくりと力なく歩き出して僕の横を通り過ぎた。

 背後で鉄の扉がガシャンと音を立てる。

 優花ゆうか先輩は笑っている。

「どうするの? はじめくん」

 美琴みことさんが最後に言った「さようなら」。

 それは彼女が、自分の将来のため、自分の夢を叶えるために、僕の気持ちを無視することを承知の上で言った「さようなら」なんかじゃない。

 あの輝きを失った瞳に、あの寂しそうにしていた姿に、そんなよこしまな気持ちが内在していたはずがない。

 彼女は純粋だ。

 自分のことより、他人のことを先に想う純粋な子だ。

 その純粋さに、僕は心を奪われたんだ。

美琴みことさんに何を言ったんです?」

「なにも? ただ、美琴みことさんが一緒でははじめくんは幸せになれないわって言っただけよ」

「そうですか。そうやって美琴みことさんがその学校とやらに行くように仕向けたんですね」

「仕向けた? 失礼ねぇ。美琴みことちゃんもその方がいいに決まってるわ? 夢が叶うんだから。私はね? すべてにおいてはじめくんの幸せを一番に考えているの」

 優花ゆうか先輩が可愛らしく首をかしげて、満面の笑みを投げる。

「そうですか。それはありがたい話ですね。でも、余計なお世話ですから。僕は自分の力で幸せになります」

「どうやって? あの聴覚障がい者の女の子と一緒に居て、ちゃんと幸せになれるって言うのっ?」

「はい。なります」 

「ふぅん。たいそうな自信ね。でもね? はじめくんは、何にも分かってない」

「そういう優花ゆうか先輩に何が分かるって」

「分かるわっ!」

 突然大声を出して僕の言葉をさえぎった優花ゆうか先輩は、力いっぱい握った両手を真っ直ぐ下に突き下ろした。

 小さな肩が小刻みに震えている。

 そしてみるみるうちに、その瞳をあふれんばかりの雫が満たした。

「考えてごらんなさいよっ! あの子は、赤ん坊の泣き声も、後ろから近づく危険な車の音も、一切何も聞こえないのよっ? どうやって子どもを守るのっ? 子どもがお遊戯会で歌う声も、楽しそうに鳴らす楽器の音も、なんにも、なんにも聞こえないの! そしてなにより……」

 そうして、その雫のひとつが音も無くその頬を伝うと、優花ゆうか先輩はゆっくりと近づいてきてそっと僕の手をとった。

 怒りを訴えると言うよりも、何かを懇願するようなその瞳。

「そしてなにより、はじめくんが心を尽くして作った音を、ちゃんと聴いてあげることが、……出来ないじゃない!」

 僕の、……音?

 僕が作ってきた音楽や物語の音のこと?

 それがどうした。

 そんなの、どうってことない。

 確かに、僕はずっと音の世界に生きてきた。

 その素晴らしい魅力に取りかれて、これこそ我が人生と豪語してきた。

 でも、もうそんなのどうでもいいんだ。

 美琴みことさんは言った。

『私たちは「不便」ではあるけど「不幸」じゃない』

 僕が心血を注いで生み出してきた音たちは、聴く者にメッセージを伝えたり感動を与えるためのものだった。

 確かに美琴みことさんに伝えられない。どんなに伝えたくても、音では伝えることができない。

 でも、方法はたくさんある。

 手間が掛かったり、時間が掛かったり、「不便」をいられることが多いかも知れない。でもどんな方法でも、一つひとつ丁寧に確実に伝えていけば、絶対その想いを伝えることができる。

 想いを伝え合える、それはとても素敵なことだ。

 この世に命を受けて、たくさんの人に出会って、助けて、助けられて、そして誰かを本当に大切に想って心から愛することができる、それはとても幸せなことなんだ。

 それなのに、それに思いをしない者がその「幸せ」の享受きょうじゅが当然だと勘違いして、感謝することを忘れ、そして「不便」に不平をらすんだ。

 美琴みことさんの笑顔があれば、僕はもう音なんて要らない。

 もうとっくの昔に、音の世界を捨てるって決めたんだ。

優花ゆうか先輩」

「分かってくれた? はじめくん」

「よく分かりました」

「ほんとっ? ずっと私のそばに居てくれるっ?」

「残念ですが、それは出来ません。僕は今から美琴みことさんを追いかけますので」

「え? い、いま分かったっていったじゃないっ!」

「ええ、改めてよく分かりました。もう僕には音の世界なんて必要ないってことが。僕、この学園祭が終わったら放送研究部を辞めます。僕には美琴みことさんの笑顔があれば、それだけで充分です。では」

「ま、待って! お願いっ! 私、わたしっ!」

 あっさりと背を向けた僕の腕を優花ゆうか先輩がつかむ。

 振り返ると、うつむいていた優花ゆうか先輩がゆっくりと顔を上げて、それから意を決したように震えた唇を開いた。

「わたしっ! わたしねっ? はじめくんが好きなの! 大好きなのっ! 誰にも渡したくないのっ!」

 屋上に響いた叫喚きょうかん

 不意に吹いた強風が、それをかき消すようにフェンスを鳴らした。

 耳を突き刺すような風音が、僕たちの間に割り込む。

「だからずっと私のそばに居て? ね? 美琴みことちゃんとでははじめくんは幸せになれないの。お願い、お願いだから」

 独善的な自己主張のみで、何一つ心に響かない、吹き去る風音かざおとと同程度のただの放言ほうげん

 僕はおもむろに優花ゆうか先輩に向き直って、しっかりと言葉を返した。

「ありがとうございます。嬉しいです。でも、僕の気持ちは、僕らの間に割り込んだ風が教えてくれたとおりです」

 そう言って僕は、再び優花ゆうか先輩に背を向けた。

はじめくんっ!」

 鉄の扉がガシャンと閉まったあと、階段を駆け下りようとした僕の背後のから、優花ゆうか先輩の割れんばかりの慟哭どうこくが聞こえた。

 恋焦がれるものを奪い、そして自分のものにしたいと思う感情。それは否定しない。そういう愛し方もあるだろう。

 でも、僕は共感しない。

 奪うものが恋で、与えるものが愛だとある先人が言った。

 僕は与える愛が好きだ。

 それも、憐憫れんびんの情ではなく、真に相手のために心から与え続ける無償の想い。

 美琴みことさんに会う前の僕には理解できなかったその想いが、いまの僕にはよく分かる。

 伝えたい。僕はいま、その想いをどうしても彼女に伝えたいんだ。

 美弦みつるさんはまだ近くに居るだろうか。

 美弦みつるさんなら、美琴みことさんの居場所を知っているはずだ。

 コンクリートの階段を駆け下りる僕の足音が、まるで無人の音楽ホールに居るかのように響いている。

 そして僕はそのままサークル棟の階段を下まで駆け降りると、すぐに美弦みつるさんを追いかけたんだ。

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