第22話 仲直り


翌日も朝から板戸は開け放された。あいにくの曇り空だったが、閉じこめられるよりは遙かに気持ちがいい。

朝食を運んできたのも秀次だ。藤木の顔を見ると、秀次はほっとしたように笑った。


「殿には来客がござりまして」


そう言いながら、どこか楽しげに食事の世話をやく。


「当主のくせにここに籠もるのが悪いんだよ」


あんの馬鹿殿、んっとに馬鹿なんだから、そうわざと憎まれ口を叩いても秀次は嬉しそうにする。


「何、秀次、さっきから」


青菜の煮浸しを口にいれながら藤木が睨むと、秀次は慌てて手を振った。


「なっ何でもござりませぬ。ただそれがしは、仲直りなされたようでよかったと…」


藤木は赤くなった。秀次は自分達の関係を気にかけているせいか結構鋭い。夕べ、結局互いに離れがたくなって、そのまま身を寄せ合って眠ったことを察したのかもしれない。


「なっ仲直りって、別に僕たちは」


照れかくしにしかめっ面をすると、秀次がまた慌てた。


「あ、いや、そうではござりませぬ」

「何がそうじゃないのさ」


ごほん、と秀次は咳払いをした。そして真面目な顔できっぱりと言った。


「御渡り様の仰せらるるとおりでござります。それがしも殿は馬鹿じゃと思いまする」

「すまぬな、馬鹿な殿で」


むすっとした声が降ってきて秀次は飛び上がった。


「とっ殿っ」

「国明」


むっつりとした顔で国明が立っていた。


「そうだ、馬鹿殿だ」

「そそそそれがしはっ」

「別にかまわぬぞ、馬鹿殿だからな」

「めめ滅相もござりませぬっ、そそそれがしっ」

「馬鹿殿なのであろう」


秀次の狼狽えようがおかしくて藤木は吹き出した。


「おっ御渡り様~」


秀次が情けない声を上げる。もともと、馬鹿殿のネタを振ったのは自分だ。笑いながら藤木は助け船を出すことにした。


「国明、お客さんじゃなかったの」


国明の顔がふっと曇った。


「…たいした用向きではない」


藤木から目をそらした国明に首を傾げていると、どたどたと荒い足音が響いてきた。忠興の足音だ。なんだか久しぶりに聞くような気がして藤木は嬉しくなった。待ちかまえるように茶碗を膳の上に置く。ほどなくして忠興が姿を現した。


「忠興」

「おぉ、おぉ、御渡り様」


忠興の強面がくしゃっと歪んだ。廊下にへたっと両手をついて座り込む。


「御渡り様ぁ。おいたわしや、御渡り様」


忠興は武骨な手で目頭をぐっと押さえると国明に噛みついた。


「殿っ、いい加減になされませよっ。警護じゃいうて御渡り様を外へお出しせぬなど、本末転倒じゃ。我ら勇猛で知られた榎本党がお守り申し上げておるのじゃ、御渡り様へかようなご不自由を強い申し上げる必要なしと存ずる」

「であるから、もうしばしの辛抱だと言うておる。叔父貴はお使者殿を丁重にお送り申し上げてくれ」


国明は渋面を作った。忠興は不満そうに、それでも、諾、と答え、ついでに文句も付け加える。


「殿の愛想のなさも時と場合によりけりじゃ。嫁御のご実家のお使者じゃいうに、ああも素っ気なく扱うて婚儀がこじれなばいかがされる」

「婚儀…?」


藤木は思わず国明を見る。渋面のまま国明は視線を逸らした。かわりに忠興が返事をする。


「婚儀の日取りを決め、子細を話し合わねばならぬというに、殿がこれじゃ。なりかわって走り回る我らの身にもなってくださらねば、殿、聞いておられるか、殿っ」


そっぽを向いたまま国明はぼそっと言った。


「叔父貴の好きにすればよい」

「えぇ、わしが嫁を取るわけではないわっ」


かーっ、と身を乗り出さんばかりに忠興が吠えた。


「わかったわかった、お使者殿に挨拶してこよう」


渋々藤木の部屋を後にする国明に続こうと腰を浮かせた忠興は、藤木にへにょっと笑いかけた。


「待っていて下されよ。御渡り様、殿のお許しをいただいて、馬の稽古をいたしましょうなぁ」


そしてまたどたどたと廊下をかけていく。遠ざかる足音を藤木は寂しい思いで聞いた。


「御渡り様…」


秀次の声にはっと我に帰る。


「あ…国明も大変だね、色々」


取り繕うように笑って藤木はまた食事にとりかかった。婚儀、という言葉が喉に引っかかった魚の骨のようにちくちくと藤木を刺す。機械的に箸を使うが、味も何も感じなかった。







垂れこめていた雲からとうとう雨粒が落ちてきた。雨足は次第に強くなり、開け放した廊下にしぶきが跳ねる。

藤木は一人、円座に座って雨を眺めた。臙脂色の直衣が湿気を含んで重い。膝には薄青い陶片と土鈴がある。鬱々とした気分が晴れなかった。


婚儀か…


藤木は夕べ、国明から貰ったかけらを指で撫でた。つるりとした感触が指先に気持ちいい。


これ、僕にくれたくせ。


理不尽な言い分だと自覚はしている。ここへ来たはじめから、国明の結婚が間近だということは聞いていた。あまりに国明が己の婚儀に無頓着なので忘れていた。


僕のこと、好きなくせ…


藤木を好きな国明は、会ったこともない女を妻に迎える。そして子をなすのだろう。じくじくと胸が疼いた。所詮ここに藤木の居場所はない。それにいつまでも神様扱いされる保証もない。榎本の庇護を失えば、藤木などひとたまりもないのだ。そこまで考えて藤木ははっと頭を振った。まるでこれではずっと鎌倉時代にとどまるようではないか。


「帰るんだから」


誰に言うともなく藤木は呟いた。


「僕は帰るんだ、元の世界に」


母親の、家族の元に、佐見のいる世界に帰るのだ。そして帰れる日はそう遠くない。白い光に包まれて時空を越えるたびに元の世界が近づいている。


「帰りたいよ…」


胸が痛い。この疼きは何なのか、何に自分は傷ついているのか、藤木は自分の気持ちを量りかね、途方に暮れる。ざぁざぁと屋根を打つ雨音だけが部屋に響いていた。



午後になっても雨足は一向に衰えなかった。雨雲のせいで辺りが薄暗い。昼食を運んできた秀次が気をきかせて平仄を点した。国明と忠興は榎本の庄境まで「お使者殿」を送っていったらしい。この雨だ。全身濡れ鼠だろう。


「大変だね…二人とも」


食事をとりながら藤木がそう言うと、秀次は人好きのする笑みで答えた。


「直に戻られましょう。これしきの雨、なんということもござりませねば。」


秀次の言葉通り、昼の膳を下げた頃、国明達は帰ってきた。上がり口の辺りが騒がしくなり、しばらくすると国明が藤木の部屋へやってきた。直垂は着替えているが、髪の毛はまだしっとりと湿っている。折り烏帽子はかぶっていなかった。


「国明…」


藤木はぼんやりと男の名を呼んだ。国明は何も言わない。静かな部屋に雨の音だけが満ちている。

きしり、と床を軋ませ、国明が藤木の傍らに歩み寄った。僅かに藤木が目を上げる。どこか苦しげな顔で国明は藤木を見ていた。藤木の袂で土鈴がころ、と小さな音をたてる。衣擦れの音をさせ、国明が腰を下ろした。

じっと見つめられるのが苦しくて、藤木は目を伏せた。ざぁざぁと雨音が響く。さらり、とまた衣擦れの音がする。

藤木は国明の胸の中にいた。直垂の飾り紐が頬を掠める。国明は藤木を胸に抱き込んだまま黙っていた。藤木はふっと体の力を抜く。静かだった。降りそそぐ雨に切り取られたように、ここでは国明と藤木の二人きりだ。


「雨の匂いがする…」


国明の胸に頬を寄せ、藤木が微かに囁いた。藤木を抱く腕に力がこもる。

力強く温かい国明の腕、もう、今は何も考えたくなかった。元の世界のことも、国明の結婚のことも、何もかも。

己を包むぬくもりに藤木は静かに目を閉じた。



二日間降り続いた雨がようやくあがり、三日目の朝、明るい太陽が顔を出した。藤木は鎌倉時代に留まったままだ。まだ時空を越える兆候はなかった。だが、藤木にはおぼろげにわかっていた。


次がきたら帰れる。


何故、と聞かれたら答えに困るが、妙に確信があった。だが、それがいつになるのかはわからない。

この二日、悶々と思いにふけっていた。雨音を聞きながら、国明のくれた陶片を眺めながら、自分が何に思い悩んでいるのかすら定かでなかった。

藤木は畳の上から外を眺めた。朝陽が廊下に射している。空の高みからピチュピチュと鳥の声が聞こえてくる。廊下に出てのびをした。陽を浴びて気持ちがいい。部屋の板戸は国明が起きたときに全て開け放してくれた。


国明…


雨の降り続いた二日間、国明はずっと藤木の側に寄り添っていた。藤木の傍らで執務をとり、手が空くとそのまま藤木を胸に抱き込んでじっとしていた。何を話すわけでもなく、ただ藤木を腕の中に囲っていた。夜は藤木を胸に抱き込んだまま眠った。藤木も黙って国明に身を寄せかけた。静かで濃密な空間、そこに存在するのは藤木と国明だけ、雨音だけが響いていた。


「それっておかしいだろ、僕…」


思い出して藤木はかか~っ、と一人赤くなる。


何やってんだよ、僕はっ。


ずっと国明にだっこされていたなんて、相当自分もおかしかったのだ。


だって、すごい雨だったし、結構冷え冷えしてて国明にひっついてるとあったかかったし…


色々理由をあげてみるが、言い訳にもならない。


「あ~、考えるのやめたっ」


藤木はぶんぶんと頭をふった。じっとしているのがいけないのだ。だからろくな事を考えない。だいたい、閉じこめられてかれこれ一週間、体がなまってしかたがない。


「よしっ、今日こそ庭に出るっ」


国明の態度も軟化してきているし、忠興と秀次は藤木の味方だ。雨も上がった今日がそろそろゴネどきかもしれない。藤木は朝日に向かってぐっと拳を突き出した。


「二日間も大人しくだっこされてやったんだっ、借りは返してもらうよっ」


冷静に考えるとものすごく情けない啖呵だが、この際それは無視することにした。


「ジャージに着替えて馬に乗ろうっと」


くいっと腕のストレッチをしながら藤木は部屋へ入った。鬱々と落ち込んだ反動か、考え込むのをやめたらすっきりした。天気がいいと気分も上向くらしい。


我ながら単純。


朝食がくるまで、藤木は準備運動に専念することにした。






結局、忠興と秀次の援護射撃もあって、渋々ではあったが庭での乗馬が許された。大喜びで馬の轡をとったのはもちろん忠興だ。他の郎党達も、久しぶりに御渡り様のお姿を拝見できると、仕事はそっちのけで見物に集まった。館周りの警護の郎党ども以外は国明も大目にみたせいで、しまいには下人、下女まで集まってくる始末だ。

藤木は楽しかった。雨上がりの風が肌に心地いい。久しぶりの開放感だ。昼食を用意されてやっと馬から下りたが、食事中、忠興に弓の稽古の約束をとりつけて国明に渋面を作らせた。

弓の稽古を始めるとまた郎党達や下人、下女達が見物をはじめる。業を煮やした国明が忠興に用を言いつけ弓の稽古を終わらせても、藤木は外をうろうろして部屋へ戻ろうとしなかった。


「わかった、おれが悪かった」


日も暮れようかという頃、とうとう国明が音を上げた。


「ふ~ん、一応悪かったって思ったんだ」


半眼で見据える藤木に国明は両手を上げて降参した。


「明日はなんなりと藤の好きにするがよい」

「ほんと?」


藤木はぱぁっと顔を輝かせる。国明は苦笑を漏らした。斜めに射した夕陽が二人を赤く染めている。


「国明、僕、馬で砂浜に降りてみたい。出来ればね、ちょっと走らせてみたいんだけど」

「好きにしてよいと言うておる。おれが見てやろう」


嬉しくなって藤木はにこにこした。


「じゃあさ、国明、砂浜でピクニックしよう」

「ぴくにく?」


国明はどこかぽぅっと藤木の顔を見つめていたので、よく聞き取れなかったようだ。藤木は肩を竦めた。


「つまりね、何か食べ物をもっていって、外で一緒に食べるって事だよ」


そうしよう、きまり、楽しげにそう言って藤木は館の中へ入る。後に続く国明もどこか嬉しそうだ。


「御渡り様、夕餉の膳をお持ちいたしましょうか」

「あ、お願いするよ、秀次」


体を動かし、適度な疲労が心地よい。腹も減った。上機嫌で藤木は部屋へ向かった。



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