第76話 休息5
海釣を終えた健人は、再びクルーザーを運転する。目指す先は、青の洞窟だ。健人とエリーゼがシュノーケリングを楽しんだ場所。そこに、今回のメンバーを招待する予定だった。
青の洞窟に到着したクルーザーが、ゆっくりと入っていく。
「うぁ……キレイ……」
クルーザーから身を乗り出し水面を見ているミーナ。光を反射し、青く光る海水は、彼女の心を奪っていた。いや、ミーナだけではなく、この場にいる全員が青く光る神秘的な空間に心が奪われていた。
「ここでお昼を食べようか」
健人とエリーゼが作ったサンドウィッチ。先ほど釣った魚をさばき、トマトやアサリを入れて煮た、アクアパッツァもどきなどが並んでいる。
「食べる前に、もう少し遊びたいの。いいかしら?」
エリーゼのお願いに健人がうなずく。
「ミーナ。海に入るわよ!」
許可が下りると、服に手をかけて一気に脱ぐ。むろん裸になったわけではない。服の下から、水着がでてきた。あっという間に着替え終わったエリーゼは、ミーナに飛びつく。
「早く脱ぎましょ!」
恥ずかしがって服を脱ごうとしないミーナの服を、無理やり剥ぎ取ろうとするエリーゼ。
「じ、自分で出来ますー!」
「いいから! 早く入りましょ!」
ミーナも服の下には水着を着用しているので問題ないはずだが、男性がいる前で、服を脱ぐ行為そのものに羞恥心を覚えていた。
エリーゼのように自由奔放ではなく、控えめな性格なのも羞恥心に拍車をかけている。
「あっ……」
必死の抵抗空しく、ミーナの服が体から離れる。
露わになったのは、未成熟な体と、フリルのついたピンクのビキニが、絶妙なバランスを保っている。
「きゃぁぁ!」
服が無くなり、戸惑っているミーナをエリーゼが抱きかかえ、浮き輪と共に海にへと飛び込む。水しぶきを上げて海に沈み、しばらくしてから、2人とも水面から顔を出した。
「ちょっと冷たいけど、気持ちいわね!」
ドーナッツ状の大きい浮き輪に2人がしがみついている。
「強引です!」
ほほを膨らませて抗議するミーナ。
「でも、もう恥ずかしくないでしょ?」
「そうですけど……」
水中にいることで視線が気にならなくなり、先ほどまでの羞恥心が無くなったことに、ミーナは気付く。かなり強引ではあったが、エリーゼなりの気遣いだった。
そんなやり取りをしていると、シャチの形をした浮き輪が、エリーゼの頭上に降ってくる。健人がクルーザーから投げたのだ。
投げ込まれたシャチに登ろうと必死になっているエリーゼを見ながら、健人は隣に立っている礼子に話しかける。
「あの2人の遊びに参加しないんですか?」
「私は、ここでゆっくりと過ごす方が性に合っていますから」
「むさい男ばっかりですよ?」
クルーザーに残っているのは健人、明峰、梅澤、ヴィルヘルムと男ばかりだ。しかも離れたところで、酒盛りを始めている。女性があの輪に入るには少し戸惑う環境だ。
「そっちの方が慣れていますから。むしろゆっくりできますよ」
「健人さんは?」
「俺が入ったら、ミーナさんが楽しめなくなりますから。それに礼子さんとは、少し話がしたかったんです」
「私に……ですか?」
健人にはエリーゼ、礼子には明峰が常にいるからだ。話すタイミングをうかがっていた健人は、出発ギリギリになってしまったが、ようやく礼子と話す機会が作れたのだ。
「そうです。明日から長期間、ここを離れます。ダンジョンの運用は梅澤さんに任せておけば問題ないでしょう。ですが、彼は戦えません。戦闘関係のトラブル対応は、礼子さんに頼みたいのです」
健人は責任者としてダンジョンの運用と共に魔物やダンジョン探索士のトラブルにも対応してきた。その責任者が不在になれば、指示を出せる人間がいなくなる。
それは、緊急なトラブルであればあるほど、致命的な問題になってしまう。それを防ぐために、不在時の責任者として礼子を指名したのだ。
「私で大丈夫でしょうか……」
下を向き、自信なさげにつぶやく。
今までの頑張りが認められた。そのように感じた礼子は、喜びはしたものの、すぐに心は不安に塗りつぶされてしまった。
「トラブルと言いましたが、ケンカの仲裁か、未帰還者の探索になるでしょう。どちらも可能性は非常に低い。不安になるようなことは、ないと思いますよ」
「はい……」
安心させようと話しかける健人。だが礼子の不安が払拭されることはなかった。
「自信がないのですか?」
健人は、いつも活動的で、自らの意見もはっきりと言う礼子なら、すぐに引き受けると考えていた。だが実際には違った。それは表面的な評価だ。
礼子は黙ったままだ。
眼下で遊んでいるエリーゼとミーナを眺めながら、健人は辛抱強く返事を待つ。
「…………男性社会で認められようと、私なりに努力してきました」
遊び疲れて浮き輪でのんびりし始めた頃になり、ようやく礼子が口を開いた。いつもの凛とした声とは違い、弱弱しく震えている。
「ですが結果は、ご覧の通りです。成果を残すことができず、退職してしまいました」
当時の出来事を思い出し、下を向いたまま、涙がポツポツと落ちる。
「何をやってもうまくいかない。そんなことが続いたせいか、最初の頃に持っていた”私ならできる!”といった自信はなくなってしまいました。誰かの指示で動くことに安心し、そして捨てられないようにと、必死にしがみついているだけなんです」
礼子は普段から、自衛隊時代の話はない。それは彼女にとって、辛い思い出でしかないからだ。自信をもって入隊し、失意のどん底で除隊する。そんな状況で、健人に拾われたことは幸運であったと、礼子は感じている。
明峰に厳しく接するのも、空回りしているように見えるのも、自信のなさを隠したい思いの裏返しであった。
「そんな私が、健人さんの代わりに、自分の頭で判断する、責任者が務まるのでしょうか?」
それでも誰かの指示で動くだけなら問題ない。誰かに頼ってよい。そんな安心感があるからだ。だが責任者になれば、頼られる立場になる。
健人のように、自信をもって指示をしなければならない。そんな想像をしただけで、礼子の心は縮み上がっていた。
「何に失敗したのか、挫折したのか、無力さを感じたのか分かりません。過去の礼子さんの事は、何一つ知らないのですから、当然ですよね」
礼子の告白を聞いた健人が、肩に手を置いて話しかける。
肩に手が置かれて驚き、ようやく顔を上げる。その目は、涙で赤くなっていた。
「俺は、明峰さんを引っ張り、気性の荒いダンジョン探索士と対等にやり合う。魔物との戦いになれば、背中を任せられる。そんな今の、礼子さんしか知らないのです」
空いていたもう一つの手も、礼子の肩に置く。お互いが体を向けて、見つめ合う。
「いつも当たり前のように行動している礼子さんで十分なんです。自信なんていりません。だって、いつも通りで構わないんですから」
「いつも……通り、ですか?」
不安に押しつぶされそうだった礼子の心が、少し軽くなる。
「そうです。いつも礼子さんは自分で判断して、指示を出していたじゃないですか」
「それは……」
心当たりがあり、否定できない礼子。
実際、シェイプシフター討伐時も、自らの判断で魔物に切り込んだのだ。過去の失敗に囚われているだけで、健人の代わりなど十分できる。健人は、ただその事実を教えればいいだけだ。
「ケンカの仲裁も、魔物の討伐も、全て、礼子さんの判断で対応したじゃないですか。それだけで十分です。礼子さんが、良いと思ったことをしてください」
「でも……」
「大丈夫。責任は俺が持ちますから。思うがままに行動してください」
責任まで持つと言われると、否定する言葉が出てこない。今の体勢では、顔を背けて逃げることもできない。礼子は観念したかのように、言葉を絞り出す。
「……分かりました。いつも通りですね…………それなら、私でも出来ると思います」
その表情は、自信に満ち溢れているとは言えない。それは当然だ。言葉だけで自信が出せるほど、簡単な内容ではないからだ。だが今は、その答えだけで十分だった。
健人は、笑顔でうなずいて手を離し、去ろうとした。しかし途中で立ち止まり、振り返る。
「小さい成功を積み重ねていけば、きっと自信は取り戻せます。今はゆっくりと小さい成功を積み重ねてください」
礼子が、かつて持っていた自信は取り戻せる。健人は、そう信じて酒盛りの場へと向かった。
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