第115話 烏と錫杖
葵が持ってきていたおにぎりで腹ごしらえを済ませた二人は、引き続き侵入者を探して山中を歩きまわっていた。他の狗賓の群れは無事なようなので、侵入者はまだ通常門付近に潜伏しているかと考え、そのあたりを重点的に探し回る。
さっきまで冲天にかかっていた太陽は少し西の方角へずれ、時間の経過を葵たちに知らせてくれる。狗賓たちが殺されているのを発見したのはまだ朝も早かった。殺された狗賓たちは死後それほど時間が経過しているようには見えなかったが、一体いつ殺されたのだろうか。もっと早朝か、それとも昨晩か。考え込みながら、葵は手を顔の前にかざして太陽を見上げる。暑い暑いと思っていた陽光の激しさもいつの間にか和らぎ、太陰三山へ来てからの時間の経過をも知らされる。
別に気分がふさぎ込んでいるわけでもないのだが、葵は小さくため息をこぼした。杖代わりに地面へ突き立てていた錫杖を持ち上げて肩をトントンと叩きながら、先を行く五色の後を追う。
「やっぱり、匂いがすると思うんだ」
葵が追いつくのを待ってから、五色が眉をひそめながら呟いた。
「血の匂いが。あれだけ大勢殺したんだ。侵入者からも血の臭いがするはずだよ」
言ってから、五色はいきなり地べたに座り込むと目を閉じた。五感を研ぎ澄ませようとしているのだろう。
「狗賓の血と匂いが混ざらないか?」
集中する五色へ話しかけると、「静かに」と刺すような口調で言われたので、葵はおとなしく口をつぐむ。その時、頭上で鳥の羽ばたく音と濁った烏の鳴き声が大きく響いたので、葵は少しびっくりして頭上を仰いだ。案の定そこにいたのは一羽の烏だった。太陰三山の烏は、天狗や烏天狗たちによって訓練され、見張りや間諜の役目を担っているらしい。あの烏が何か見たり聞いたりしていないだろうか、と思って思わず声をかけそうになったが、烏と意思の疎通などできないという当たり前のことを思い出してやめた。それから五色の隣に座って、自分も目を閉じる。だが、また騒々しい烏の鳴き声が響き渡り、五感を研ぎ澄ませようとする暇もなく雑念が入る。
目を開けると、さっきまでブナの木のてっぺんで鳴いていた烏が、葵たちとそう離れていない地面の上へ降りてきていた。艶のある青みがかった黒い羽毛が美しく、葵はぼんやりとそれを眺める。烏は賢そうな顔で首を傾げて、ある一点を凝視しているように見えた。それから不意に葵の方へ嘴を向けて、カアと一声鳴く。続いて何かを訴えるように何度も鳴いた。
隣でずっと目を閉じている五色は微動だにせず集中しているようだ。よく気が散らないものだと感心しながら、葵はそっと立ち上がる。それから、やかましく鳴き立てる烏の方へ足を向けた。
烏は、葵が近づいてくるのを見るや嘴を閉じ、パッと翼を広げてどこかへ飛んで行ってしまった。
「なんだったんだよ」
散々何か言いたげに喚いておいて、と心中で毒づき、葵は烏が凝視していた方向を見遣った。特に何かがあるようには見えなかった。目前の茂みをかき分けてみてもそれは同じだ。一応、苔に覆われたむき出しの木の根で足を滑らせないよう、注意してその先へ足を運ぶ。すると、近くの木に人一人が入れそうな大きさの洞があるのを見つけた。もしやと思い覗き込んでみる。しかし、中はもぬけの殻だ。葵は落胆して、洞に背を向けた。そのまま五色の元へ戻ろうとしたところで、後ろから誰かに見られているような気配を感じて立ち止まる。油断なく錫杖を構えて四方を見渡すが、やはり誰もいない。何とも形容しがたい気味の悪さだ。
またその時、頭上で烏の鳴く声が聞こえた。さっきの烏が戻ってきたのだろうか。見上げれば、樹冠の上で体を揺らしながらカア、カアと繰り返し鳴いている。そして時折鳴くのをやめて、可愛らしく首を傾げては葵を見下ろしてくる。明らかに何かを伝えたがっているように見えた。
「葵」
振り返ると、ちょうど茂みをかき分け顔を出した五色と目があった。じっと座って五感を研ぎ澄ますのはやめにしたらしい。それとも、何か発見があったのだろうか。
「あの烏……」
葵の隣へ来ると、五色は何か言いたげな様子の烏を見上げた。すると、烏は身を枝から大きく乗り出して、下に向かって大声で鳴きわめいた。
「一体なんだってんださっきから」
お世辞にも綺麗な鳴き声とは言えない騒々しい声に、葵は顔をしかめる。しかし、五色はハッと何かに気づいた表情で辺りを窺った。
「どうした?」
「音が」
「音?」
葵に喋るなと手で合図してから、五色は目を閉じる。それから、葵と同様持ってきていた自分の錫杖の柄の底を、勢いよく地面へ突き立てた。その反動で、錫杖の先端部である遊環に通された遊輪がぶつかり合って、シャランと透き通った音を発する。五色は目を閉じたまま、それを何度か繰り返した。やがて確信を得たとばかりに目を開ける。
「やっぱり変だ」
「何が変なんだ」
何が言いたいのかいまいちわからない葵に、五色は丁寧に説明する。
「音だよ。この場所、音の響きがおかしいんだ。葵も目を閉じて、耳に全神経を集中させてごらん。そして、ほら、持ってる錫杖を鳴らすんだ」
言われるがままにそうしてみるが、やはりどこがどう変なのか、葵にはわからなかった。錫杖の音はいつもと変わらないように聞こえる。五色はもどかしそうに身をよじる。
「なんて言えばいいんだろう。音の響きが妙なんだよ。遠くまで響いてないというか。何かに遮られているような。どうも不自然なんだ」
五色はきっと、五感が通常より研ぎ澄まされた状態でいるのだろう。だから、微妙な音の変化に気づくのかもしれない。葵は、五色の言葉に耳を貸しながらも、視界を遮断したまま錫杖を鳴らし続けた。もはや日常の一部になってきた毎日の修行で行っていることを、ここでも実践してみる。目を閉じて、じっと動かず、周囲の景色に、身を包む空気に、身体をそっと委ねるように。いつもと違うのは、錫杖を鳴らすために右腕を動かしていることだけ。
幾度鳴らし続けただろうか。暗い瞼の裏を透かして、周囲を囲う木々や草花とは明らかに異なる何かが見えるような気がした。「見える」という表現が、果たして正しいのかどうかもわからない。木々に反響する音を伝って、「感じる」と言ったほうが正しいのか。錫杖から放たれる遊輪のぶつかる音、その音が響く範囲、錫杖を打ち鳴らし続ける腕の筋肉の動き、身体を覆う澄んだ山の空気、どこで感じているのかもわからぬ、誰かに見られているような気配……それら捉えどころのない視界以外の五感で満たされた世界。その世界が、不意に明確な像を結んだような気がした。音の流れをせき止める、見えない壁の位置が、見えた。
弾かれたように目を開けた葵は、ある一点目掛けて錫杖をまっすぐに投擲した。投げられた錫杖は、突如虚空で停止する。が、自然の摂理を捻じ曲げた奇妙な現象は一瞬で終わり、錫杖はそのまま力を失ったかのように、地面へポトリと落ちた。葵と五色は、緑の草の上に落ちた錫杖の、先端部が示す先を揃って見遣った。今まで何もなく、誰もいなかったその場所に、緑と赤の派手な色合いの着物をだらしなく纏い、罰の悪そうな顔を浮かべた壮年の男がいた。
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