第100話 門

 霧深い太陰三山の一の広場に到着した葵たちは、霧の隙間から垣間見える数々の拝殿や、参拝客の宿泊用らしき建造物を見上げた。

 天下に名を轟かすこの霊場には、多くの参拝客が訪れているはずなのだが、山の清涼な空気を震わす人の声というものがまるでない。清涼な空気は乱されることなく霊場を囲い、満たし、安寧を保っている。人の気配は、微かな衣摺れの音や、足音のみから感じとることができたが、姿は見られなかった。

 なんとなくこの空気を壊すのがはばかられ、葵たちは押し黙ったまま霊場を見渡す。


「あ、みつけた!」


 いきなり、静謐な空気をぶち壊す大きな声が背後から聞こえ、葵はびっくりして飛び上がりかけた。振り返ると、栗色の髪を揺らしながらこちらへ走ってくる楓の姿が見えた。人のいるオモテの領域であることを考慮してか、背中の翼は術で巧妙に隠されている。


「楓さん」


 京介がどこかホッとした様子で言った。


「よかった。早々に合流できて」


 実は、太陰三山へ着いたら一の広場という場所で、天狗の出迎えを待ち、その天狗の案内でウラの領域へ来るようにとあらかじめ文に言い含められていたのだ。だが、地図というものもないし、なかなか人も掴まえられなかったので、ここに来るまで葵たちは相当難儀する羽目になった。


「なあ、ここでそんなに大きい声出していいのか」


 囁くような声で葵が尋ねると、楓はきょとんと目を丸くする。


「別にいいけど」


「いいのか」


「禁じられてるわけじゃないし」


 ひらひらと手を振ると、楓は「じゃ、あたしに着いてきて」と、先に立って歩

き出した。


 楓に連れられ、葵たちは広い霊場を随分長い間歩かされた。幾度も階段を上り下りし、幾度も角を曲がった。時折拝殿や人影を見かけたし、地面もむき出しの土ではなく白い砂利に敷き詰められていたから、人の手の行き届いている範囲を歩いていることはわかったが、それ以外のこと、どこをどう歩いきているのかはさっぱりわからなかった。一人でさっきの場所に戻れと言われても、絶対無理だろう。


「おい、まだつかないのか」


 足元の地面が白い砂利から茶色い土に変わった頃、人の姿に変じていた九尾がとうとう不満を漏らした。


「どれだけ歩かせるつもりだ」


「ちょっとあなたね」


 せっかく案内してくれているのに、と沙羅が九尾をたしなめる。

 先頭を歩く楓は、「ごめんごめん」とちょっと困った調子で返した。


「定められた道順で歩かないと、ウラの領域にはつかないようになってるんだ。うっかり人が入り込まないように、道順もわざと複雑に、かつ、遠回りするように定められてるから、こんなに歩いてもらわないといけないわけ」


 でも、と楓は言葉を続ける。


「こうして喋ってる間にも、もうそろそろ門が見えてくるよ」


「門?」


 眉をひそめていた九尾が、前方を見てピクリと眉を上げた。それにつられ、葵

も前方を注視した。正直、視界は良くない。周囲がなにも見えないほどひどいわけではないが、相変わらず霧が立ち込めているからだ。だが、森の中を辿る道の先に、進路を阻むようにして、何か大きなものが立ちはだかっているのが確認できた。あんなもの、さっきまであっただろうか。


「あれが、門?」


「そ」


 葵の言葉に楓が短く相槌を打つ。


「あの門をくぐれば、ウラの領域」


 門まで来た葵たちは、自分の背丈の何倍もある巨大にして珍妙な門を見上げた。

 門は木でできていて、両側に開くのであろう門扉は堅く閉ざされている。そこまでは、巨大以外は別になんてこともない門なのだが、明らかに建っている場所が変だった。門は、森を切り開いて作った小径を完全に遮断する形で建っているのだが、門の左右には何もない。塀も、柵も。ただ扉だけがそこにあった。


「これこれ!許可証を見せい許可証を!!」


 不意に、バサバサと翼を羽ばたかせる音と、けたたましい声が頭上から降ってきた。ぎょっとした一同が振り仰ぐと、門の上から烏の顔をした人型のあやかしが飛んでくるところだった。


「さあ見せい見せい!天狗と一緒となると、お主ら許可証を持っているのであろう!?」


 葵は慌てて懐から入山許可証を取り出した。おそらく目の前のこの烏天狗が、入山許可証を見せなければならない門番なのだろう。

 門番はこちらに向けられた入山許可証を、目をカッと開いて凝視する。そして一呼吸おいてから、「クワァッ」と疳高く鳴いた。耳をつんざくような鳴き方だったので、葵は思わず耳を塞ぐ。


「ウラ門番烏天狗・彦丸が許す。葵、京介、沙羅並びに九尾!!門をくぐれい!」


 宙で翼を激しく打ち鳴らしながら、彦丸は、手に持つ錫杖の鉄の輪をシャランと鳴らした。すると、彦丸の背後にそびえる巨大な門の扉が、音を立てて一人でに開きだした。


「さあああ!くぐれくぐれえええぇぇい」


 上でやかましく彦丸が騒ぎ立てるので、葵たちはまだ門が完全に開ききる前に、急かされるようにして扉の隙間に体を押し込んだ。扉を抜けた先には、相変わらず霧の立ち込める森の景色が広がっている。

 ウラの領域に来た実感のないまま立ち尽くす葵の背後で、門扉の閉まる音が響いた。同時に彦丸の騒がしい声もピタリと止む。だが、それと入れ替わるようにして、立ち込める霧の向こうから、荒々しい獣の息づかいと、霧の中で互いを呼ぶようにして四方へこだまする狼の遠吠えが聞こえてきた。

 ハッと身をすくませた沙羅の身を守るようにして、九尾が彼女の前へつ、と歩み出る。葵と京介も、未だ姿を現さぬ狼へ警戒心をにじませた。


「大丈夫。狗賓ぐひんだよ。正式な客人は襲わないから」


 楓が殺気立つ皆をなだめるように、口を開いた。


「ぐひん?」


 聞きなれぬ名に、葵は問い返す。楓はそれに対し、「ほら」と前方を指差した。


「あれ」


 楓の指し示した方向に、葵だけでなくその場の全員が視線を向けた。

 さっきの門の時と同じだ。いつの間にそこにいたのか。森に鎮座する灰色の岩の上に、狼によく似た姿の獣が立っていた。黒みがかった赤錆色の体毛に埋もれた、金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見据えている。その瞳に敵意はなく、ただ物珍しげにこちらを観察しているといった風情だった。


「狼……ではないの?」


 わずかに緊張を解いた沙羅が、獣から目をそらさずに楓へ尋ねた。楓は「違うよ」と答える。


「狗賓は狼じゃない。天狗の一種。門付近に住んでて、万が一門を破って侵入してきた奴がいたら……食い殺す」


「食い……」


 葵は思わずぞっとした。いわば第二の門番というやつだろうか。


「さ、行こう」


 そう言って、楓は物怖じせずに狗賓の群れがいるであろう霧の中へ向かって歩き出した。

 どこか不気味な狗賓の視線を背に受けながら辛抱して歩いていくと、次第に霧が晴れてきた。いつの間にか踏みしめる地面も白い砂利に戻っている。やがて、幽鬼のように漂っていた霧は完全に消え、代わりに季節を無視して花弁を開く、美しい花々が現れた。


 薄藍色に染まった花を開く紫陽花、赤紫の朝顔、くんと匂い立つ金木犀の花、薄紅色の桜、赤い椿、赤と白の躑躅。同じ時期に咲く花も、同じ時期には決して咲くはずのない花たちも、あちこちで咲き乱れている。もちろん今の季節には見られない花もある。まるで現実味のないその光景は極めて幻想的で美しかったが、季節の理を無視しているという事実のせいで、どこか恐ろしげだった。


「気味が悪い」


九尾が眉をしかめて言い放った言葉に、葵も「同感だ」と賛同する。二人のように口には出さなかったが、沙羅と京介もどこか不安そうな目を花たちに向けている。異常な光景に、素直に綺麗だとは喜べないのだろう。


「怖がる必要はない」


 行く手にあるこんもりと茂った紫陽花の葉の陰から、穏やかな男の声が聞こえた。続いて、声のした場所からすらりと背が伸びた男が現れる。葵たちは驚いて立ち止まった。白い短髪に白い肌、淡雪色をした着流しを着たその男の背にあるのは、これまた雪のように白い烏の翼だった。


「頭領!」


 面食らった顔をして先頭の楓が叫ぶ。


「わざわざ頭領がお迎えに来なくても」


「いや、いいんだ。私が彼らを呼んだのだから」


 そう言って葵達をひたと見つめてきた壮年の男の目は、白く濁っていた。


「ここはね、こういう場所なんだよ」


 つぶやいて、楓が頭領と呼んだ男は、そっと紫陽花の花弁に触れた。


「ここは陽より陰が勝っているから、わずかに理が崩れている。だから季節外れの花が咲く」

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