第98話 不思議な子供
子供の着地と少し遅れるようにして、布を体に固定する帯がふわりとたなびいてから下に垂れ下がる。よく見ると、帯にも衣服にも、金色の見事な刺繍が施されていた。
「こんばんは、葵」
きょとんとする葵に、子供は話しかけた。 葵は訝しげに眉をひそめる。
「なんでお前、俺の名前を……」
見知らぬ子供はまたクスクスと笑った。だが笑うだけで問いかけに答えようとはしない。葵はその態度に少しムッとして、子供に詰め寄った。
「お前は一体なんなんだ。答えろよ」
「あててごらん」
腕を後ろに回して子供は言った。どこか挑発的な態度だった。
「あててごらんって……。わかるわけないだろ、初対面なのに」
「初対面?ひどいなあ。初対面じゃないのに」
そう言われても、葵には全く思い当たることがなかった。こんな不可思議な奴と会っていたら、忘れるはずがない。
「ほうらほうら、当ててごらん。僕が何なのか当ててごらん」
「知らねえよ」
ぶっきらぼうに葵が言うと、子供はしゅんとうなだれる。
「つまんないの。僕は君のこと知ってるのに」
どうも調子が狂う。葵はため息をついて頭の後ろを掻いた。
「知らないものは知らない。だから教えろ」
「うむうむどうしようかね」
「いや教えろよ」
「でもすぐに言うのも面白くない」
そう言って、子供は葵の周りをぐるぐる走り回る。葵は迷惑そうに顔をしかめた。
「何だよ急に」
「君はあれだよね。好かれてるよね」
「何にだよ?」
一向に的を得ない言い方ばかりする子供に、葵はうんざりしてきた。
「神様にだよ」
「神様?」
葵の周りをぐるぐる歩くのをやめて、子供はまた舞うようにその場でくるんと体を回転させた。
「森の神、羽衣神宮の神、火の神、みーんな葵に協力的だったでしょう?たまにいるんだよね。やたらと神様に好かれる人間って。まあ、すべての神様にってわけではないけれど」
まるで葵の旅路を見てきたような口ぶりだ。なんなんだこの子供は。葵は目を見張る。
「驚いた顔をしてるね。なんでそんなに俺のことを知ってるんだ?って思ってるんでしょう」
葵はますます驚いた。
「俺の心が読めるのか?」
「まさか」
子供は笑い飛ばす。
「君は感情が顔に出やすいみたいだからね。そこから考えを読むなんて造作もない」
言いながら、人差し指を立ててくるくると回す。
本当におかしな子供だ。今御山にいるのは、天狗と葵たちだけのはず。一体どこから来たというのか。葵はもう一度尋ねる。
「それで、お前は一体何者なんだ?」
「またそれを聞く。少しは自分で考えてごらん。考えたらわかるよ」
「わからないから聞いている」
そこまで言って、葵は質問を変えることにした。
「お前、俺が墓前にいたところをこっそり見てただろう。どうしてだ」
「君のことがちょっと気になった。だから見てた。わざと音を立てたら追いかけてきて、姿をあらわす気になったんだ」
これには素直に答えるんだなと思いつつ、葵は黙って目の前の子供を見つめた。子供の言う通りにするのは癪だが、しばし子供の正体について考えてみる。直感的にあやかしには思えなかった。だが人間かと問われれば、素直にうんと頷けない。
「幽霊……」
「冗談はよしてよ」
小さく呟いた葵の言葉を聞き漏らさず、子供は心底呆れた様子で目を眇めた。葵は今まで出会ってきた人外の存在を思い出しながら、「じゃあ」と別の答えを述べる。
「神様……?」
すると、子供は「そう!」と目をキラキラさせながら飛び跳ねた。
「そうだよそう!」
「それにしては落ち着きがないな」
葵は旅の途上で会った、神と呼ばれる者たちの姿形や身にまとう空気を思い起こす。どの神も多少性格の差はあれど、皆落ち着きというものがあった。が、目の前の子供には全くそれがない。
「嘘だろう」
「本当だよ。こういう神様もいるの」
まだにわかには信じがたかったが、葵は「そうか」ととりあえず自分を納得させる。それから恐る恐る尋ねた。
「まさか、山神様とか言うんじゃないだろうな」
「何を言うのやら。僕はここの山神だよ。君らが崇めている正真正銘の」
葵は頭を抱え込みたくなった。何となく抱いていた自分の想像上の山神様と正反対と言っていいくらい違う。子供の頃からずっと、頭領のような優しい老人の姿をしているとばかり思っていた。
「何なのその態度は。普通、有り難くなるものでしょう?君たちが敬愛してやまない守り神様が、せっかく目の前にいるのに」
腰に手を当て唇を尖らし、山神らしいその子供はわざとらしく怒りを表現する。
「悪い。いや、すみません」
「今までどおりの接し方でいいよ」
葵は改めて子どもを観察する。やはり目の前に山神様がいるのだという実感はなかった。雰囲気は確かに人間離れしているし、子どもじみた性格もまあこういう神様もいるのだろうと自分を納得させることはできる。だが、御山の守り神である山神様だとはなかなかどうも。
「君は随分と神様に向かって不躾な視線を送ってくるんだね」
眉をキッと上に吊り上げて、子供——否山神がこちらを睨みつけてきた。今度は本当に怒っているようだ、ただ、怒っていると言っても姿が子供なのであまり迫力はない。
「すまない。ただ、ちょっとびっくりしただけだ。子供の姿をしているとは考えたこともなかったから」
肩をすくめて葵がそう言うと、山神は「子供の姿ね……」と自嘲気味に笑った。その様子は葵に少し違った印象を山神に抱かせた。天真爛漫な幼子のような振る舞いだが、どこか大人びた側面も兼ね備えているようだった。葵はおもむろに口を開く。
「なあ、お前が山神だというのなら、俺はお前に感謝しないといけない」
「感謝?」
「ああ」
葵は目を伏せた。
「他の神様から聞いたんだよ。紫紺が襲ってきたあの夜、全滅を免れたのは、お前が紫紺に幻を見せて追い払ってくれたからだと」
「ふん、当然のことだ。僕は守り神なのだから、御山を、御山に住む命を守るのは当然のことだからな」
山神は得意げに言う。だが、そのまま踏ん反り返るのかと思いきや、すぐに顔を曇らせてしまった。
「などと、あまり偉そうなことは言えん。あの夜、守り切れなかったものは大勢いた。守ろうと手を伸ばしたのに、僕の手の間からこぼれ落ちてしまった。こんなのでは守り神としての名が廃ってしまう」
手のひらを広げ、山神は項垂れるようにして自分の小さな子供の手を見下ろした。
「そんなことはない」
葵は真剣な眼差しで山神を見据えた。
「お前のおかげで助かった命もあるんだ。俺もそうだ。どうか自分を責めないでくれ」
かつて葵は、行き場のない気持ちを山神にぶつけたことがあった。神様は強いんじゃないのかと、なぜみんなを守りきれなかったのかと。どうして椿丸は死んだのだと。山神がどんな気持ちで御山を守ろうとしたのか知りもしないで、己の心に巣食う苦しみを少しでも他者に押し付けたくて、葵は情けなくも怒りをぶつけてしまったのだ。それが山神にとって理不尽なものだとわかっていながら。
「本当に感謝してるんだ……。紫紺に襲われたところは、例外なく全滅になっていると聞いたから……」
「感謝の言葉は、もういいよ。全員死なずに済んだのは山神様の加護のおかげだとかなんとかって、すでに天狗達から散々供物を捧げられたからな」
山神は少し笑顔を取り戻した。
「僕のことは気にするな。人のように自分を責めるあまり、自分で自分を潰してしまうようなことはないから。むしろ心配なのは君だよ。君はどこか危ういところがある」
山神はビシッと葵を指差す。それから肩をすくめた。
「まあ、僕の加護があるから、そんなに困ったことにはならないと思うけれど。気をつけなよ」
「はあ……」
その時、遠くの方で葵の名を呼ぶ誰かの声が微かに鼓膜を震わせた。葵は弾かれたように声のした方へ顔を向ける。
「ああ、お友達が来たようだね」
「五色かもしれない」
おそらく、葵の帰りが遅いから探しに出てきたのだろう。御山に帰って早々、彼にあまり心配はかけたくなかった。
「それじゃあ僕はお暇しよう」
「え?」
葵が振り返ると、山神は美しい衣を翻し、葵の前から立ち去ろうとするところだった。葵はどうしても伝えたいことを思い出し、慌てて「待て」と呼び止める。
「なあに?せっかく空気を読んで帰ろうとしてるのに」
「これだけ伝えときたい」
むむ、と山神は訝しげに首をかしげる。
「紫紺がまた、ここを襲うかもしれない」
葵の言葉に、山神の表情にわずかな動揺が走る。瞳孔が開き、青みがかった大振りの黒目が震えていた。
「……わかった。警戒しておくよ」
山神はしっかりと頷いてくれた。葵は少しだけホッとする。
「じゃあね、葵。早く友達のところへ帰っておやり」
それだけ言い残すと、山神はポーンと地面を蹴って軽やかに飛び上がると、衣をひらりと翻した。その体は瞬きの間に忽然と消え失せ、後には、揺らめく月の光が幻のようにそこに揺蕩っていた。
葵は、夢でも見ていたような心持ちで誰もいない空間を見遣った。椿丸の霊魂ではなかった。だが、死した者と会うのと同じくらい、もしくはそれ以上に、稀有な存在を目にしたのかもしれなかった。
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