第66話 弓で打ち抜け

 鬼姫にせめて武器を持っていけと言われ、沙羅は武器屋から譲り受けたあずさの弓のことを思い出した。鬼姫はさらに何か言っていたようだったが、ろくに聞かずに飛び出してきてしまった。


 沙羅は自室として滞在中に与えられている部屋に夢中で駆け込み、置いてあった弓と練習用の矢と矢筒を引っ掴む。

 走りながら矢筒を背に負うと、沙羅は一段飛ばしで下に向かう階段を降りた。

 街へ伸びる渡り廊下と接続している階まで降りると、宵の塔に避難してきた鬼の国の住人たちが、心配そうに外の様子を出入り口付近で伺っているのに遭遇した。そこに走り込んできた人間の沙羅を、あやかしたちは一瞬驚いた様子で見入っていたが、すぐに不安そうな顔で外を伺うことに徹し始める。


 あやかしたちの間を縫うようにして走り、沙羅は外へ飛び出した。まっすぐに街の中央部まで伸びる渡り廊下を走り、少しでも、せめて叫べば声が届くくらいの距離まで葵たちに近づこうと走る。しかし、間も無く走る足を止めてしまった。沙羅のいる渡り廊下の先が、巨大な獣に食いちぎられたようにして地上に落ちてしまっていたのだ。これでは先に進めない。引き返すしかない。

 そう思ってくるりと踵を返そうとした沙羅の頭上から、九尾の声が降ってきた。


「沙羅?」


「九尾!」


 沙羅はパッと顔を輝かして、九尾へ駆け寄った。

 獣姿の九尾は沙羅のいる橋の上に降り立つと、信じられないと言った様子で沙羅を見遣った。


「なぜこんなところにいる?まさか自分も戦うと言うんじゃないだろうな」


「違うわよ。私は葵たちに伝えなきゃいけないことがあって……」


 その時、沙羅の言葉を遮るようにして、恐ろしい咆哮があたりに響きわたった。突然のことに、沙羅はびくりと肩を震わせる。


「何。今の」


「剣から出てきた龍だ。さっき試しに思い切り狐火をぶつけてやったんだが、まだ懲りてないらしい」


 九尾は歯をむき出しにして唸ると、大きな目を沙羅へ向けた。


「続きは飛びながら聞く」


 九尾の言葉に、沙羅は「うん」と頷いた。それから、九尾の背の上へよじ登る。

 沙羅が九尾の背中へ腰を降ろした途端、前方から凄まじい量の水が激流として迫ってくるのが見えた。

 白い波頭の立つ先頭部の水が渦を巻きながら、龍の頭部を形作っている。沙羅は目を丸くして九尾に尋ねた。


「ねえ、あの龍一体なんなの」


「龍神の牙から出てきた。龍神の化身みたいなもんだろ」


 沙羅の問いかけに答えながら、九尾は空へ舞い上がった。その途端、龍が九尾を捉えようと首を伸ばして迫ってくる。

 九尾は難なく龍の追撃から逃れてみせた。九尾を捉え損ねた龍は悔しげな咆哮を上げて、こちらを恨めしげに睨みつけてくる。


「それで何を伝えるって?」


 龍の姿を見て呆気にとられていた沙羅は、九尾の呼びかけにハッと我に帰った。よく聞こえるように、九尾の耳元で答える。


「あの女の人のそばで浮いている丸い玉。あれを破壊しなくちゃいけないのよ。龍神の牙は、あの玉の力を浴びて強化されてるって、鬼姫様が言っていたの。あれを壊さないことには、きっと龍神の牙も倒せない」


「丸い玉?そういえばそんなのあったような」


 九尾は地上で葵たちと戦っている女の方をちらりと見た。それから、何かいいことを思いついたと言わんばかりに口角を吊り上げた。


「なあ、沙羅。お前、あの玉。その弓で打ち

抜いてみろ」


 思わぬ九尾の言葉に、沙羅は口から「へ」と間の抜けた音を出した。打ち抜けとは、九尾は本気で言っているのか。


「私が、壊すの?」


 やっとの思いで言葉を吐き出すと、九尾は


「ああ」と返事をした。


「葵たちをよく見ろ。あれはかなり苦戦している。この上玉を壊すとなれば、あの女も死守するだろうし、なかなか難しいだろうよ。だがお前の矢ならあの女も気づくまい。全く見当違いなところから攻撃が来るんだからよ」


「でも、外したら」


「葵に稽古をつけてもらってるんだろう」


「そうだけど……」


 葵に稽古をつけてもらっていると言っても、自分の腕前がまだまだなのは沙羅も痛感している。練習で的の中央に当たることは滅多になかったし、そもそも実戦の経験もまだだ。それがこんな、いきなり皆の命運を分けるような場面でなど、できるわけがない。九尾は一体何を考えてこんなことを提案してきたのだろうか。


「私には、無理よ。外し方によっては、みんなに矢が当たってしまうかもしれない……」


 強張った顔で言う沙羅に対し、九尾はおかしそうにせせら笑った。


「いつも強気なお前が珍しい。何もしないでいるのは嫌だと、言ってなかったか?」


「ええ。言ったわ。言ったけれど……」


 沙羅は、手に持っていた矢を強く握りしめた。

 この弓を譲ってくれた武器屋で葵に言ったことを、沙羅は思い返す。確か自分はこう言ったはずだ。無力で守られているだけのような、そんな存在のままなのは嫌だと。龍神の牙の襲撃の際、それを止めようと飛び出して行った葵たちの姿を見届けた時もそんなことを考えていた。あの時は、自分の弓の腕前じゃまだまだ足手まといになると思い残ったが、内心ああして戦いに行ける葵や京介、九尾が羨ましかった。自分だけが何もできない役立たずのようで、何だか虚しかった。火の神を呼び出し、助力を願うことに成功した今でも、その気持ちがなくなったわけではない。

 もし九尾の提案を飲んで、龍の宝珠を弓矢で射抜くことができたとしたら、この気持ちは変わるかもしれない。だが、それが成功する確率は限りなく少ない。


「おい、そろそろ腹を決めろ。なるだけ近く

には行ってやる」


 九尾は沙羅の気持ちにお構いなしにこう言ってくる。ダメ元だと思っているのかどうかはわからないが、九尾はどうしても沙羅にやらせるつもりらしい。腹を決めろと言われれば、ここで引き下がるのも癪にさわる。沙羅は、ええいと両頬を手の平で叩いた。


「わかったから、やるわよ。でも失敗してもごちゃごちゃ言わないでよ」


「はいはい」


 九尾は満足そうに言うと、女の方へ向かって少し高度を下げ始めた。女にはあまりこちらの動きを気取られるわけにはいかない。おそらく、九尾は女に気取られないギリギリまで近づくつもりだろう。

 沙羅はいつでも矢を放てるように、矢筒から矢を一本取って弓につがえた。

 弓を握る手が小刻みに震えているのに気がついたが、沙羅はこれは武者震いだと自分に言い聞かせる。


「向こうに気付かれずに近づけるのはここまでだ」


 九尾の言葉に沙羅は顔を上げ、弓柄を握り、弦を強く引きしぼった。狙いを玉に定めようとするが、玉は女の動きに合わせて激しく動いている。さらに、女と葵たち両者の位置が入れ替わり立ち替り、激しく入り混じっている。下手を打てば味方を矢で打ちかねない。


 沙羅は、自分の心臓が早鐘のように脈打つのを感じた。深呼吸しながらも集中力を途切らせないように気をつける。もともと集中力はある方だ。魂鎮めを行う時には、並外れた集中力がいる。これも同じだ。同じくらいの集中力がいる。いつもと違うのは、それに体の動きも加わることだけ。


(同じだ、祈るときと同じ)


 沙羅は待った。入り混じる両者のほんの一瞬を、龍の宝珠がこちらへ無防備に姿を晒すときを。そして、目で、耳で感じた。彼らの呼吸、律動、手足の運びを。彼らに当たらず、矢を玉へ至らせる道筋を。


(今、ここ)


 直感的にそこだと思った時宜で、沙羅は弦を離した。矢は弦から勢いよく放たれた。沙羅の霊力が移ったのだろうか。矢は白い輝きを纏いながら、流星のような速さで一直線に球へ向かって飛んだ。

 

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