第37話 託宣
紅鳶は、葵たちに神楽殿の前で少し待つように言うと、どこかへ姿を消してしまった。しばらくすると、彼女は手に美しい扇を抱えて戻って来た。
「今から舞いを奉納し、この身に神を降ろします。神は私の身を借りて、あなたたちに託宣を授けるでしょう」
紅鳶は葵たちにそう告げると、かすかな衣擦れの音を残して神楽殿の舞台へ続く短い階段を駆け上がった。
葵たちは、紅鳶に手で差し示されたので、自分たちも階段を上って神楽殿の隅の床に腰を下ろした。
木板を張った床はひんやりとしていて少し身に応えたが、葵は黙って正座をして腰をすえる。
間も無く、静寂の中で紅鳶の舞が始まった。
夜の闇の中だったが、月が明るく神社の境内を照らしていたので、その舞を葵たちはしっかりと目にすることができた。
笛の音も太鼓の音もない静寂の中、紅鳶はつ、と足を一歩前に踏み出した。手に持つ白い扇を、まるで己の腕そのもののように優雅にひらめかせながら、また足を一歩前に踏み出し、くるりと身体を回らせる。それを、何度も何度も彼女は繰り返した。
彼女の舞に合わせる拍子や囃子は何もないのに、彼女の舞は恐ろしく調和がとれていた。そして美しかった。月の光が彼女の白い頬を照らし、洗練された指先から足の先までが一本の糸でつながっているかのように、その姿勢を乱すことなく舞台の上で回っては回ってはを繰り返す。
やがて、どれだけ経っただろうか。彼女はピタリとその動きを止めた。手に持っていた白い扇が、静寂を打ち破るかのようにひどく大きな音を響かせて床に落ちた。
その扇にちらりと目をやってから、紅鳶は今初めて葵達がいることに気がついたかのような顔をしてこちらを眺めてきた。しかしその顔は、葵達の知る紅鳶の顔ではなかった。
確かに顔かたちは紅鳶そのものなのだが、その表情や身にまとう空気が一変していたのだ。
これは紅鳶であって紅鳶ではないと葵は思った。中身が違う。彼女に、羽衣神宮に祀られた神が降りたのだ。
人の姿を借りた神は、無表情なまま葵たちの方へと近づいてきた。
京介や沙羅までもが、その様子を畏れおののいた面持ちで出迎える。葵は身を硬くして、紅鳶を、否神を見つめた。いや、見つめたというよりかは、目が離せなかったのだ。
神は葵の目の前まで来ると、片膝を立てて葵の顔を覗き込んだ。
漆黒の瞳に葵の顔が水面に映る虚像のように映り込んでいる。
託宣を告げられるのだろうかと、葵は黙ってそれを待った。しかし、葵へ届いたのは声ではなく、紅鳶の手だった。
神は葵の顎先に手をあてがい、くいっと自分の視線と交わらせる。
葵は今にも息が止まるかと思った。人の体を介しているとは言え、神に触れられるとは思いもしていなかったのだ。
声を発することもできず、葵は神と見つめあった。その時間は短くも長くも思えた。永遠に続くとすら思えた。
しかししばらくすると、神はそれまでずっと無表情だった顔の相好を崩した。一瞬紅鳶の体から神が離れたのかとも思ったが違った。
紅鳶の口から、神のことばが溢れる。
『そなたは神に、愛でられているね』
葵の目をしかと見つめながら告げると、神は葵の顎先から手を離した。
それから葵たちに背を向け、衣摺れの音を響かせながら舞台の中央へと歩み出る。そしてくるりとこちらへ顔を向けた。今度は葵だけではなく、沙羅と京介へも目を向けている。
沙羅も京介も固唾を飲んで、神の発する言葉を今か今かと待ち望んでいるようだった。
神は少し笑ったように見えた。そして再び口を開く。
『
紅鳶の口を借りて発せられた神のことばに、沙羅が畏まった態度を崩して身を乗り出した。
「そこにいるんですか?東の森のあやかしたちを殺した、陰陽師が」
沙羅の問いに、神は艶然とした笑みを以って返した。
『我はそなたたちに行くべき道を示しただけ。それ以上のことは、自身で行って確かめるがいい』
それだけ言うと、神はひたりと目を閉じてしまった。そうして再び目を開けた時には、もう紅鳶の体に神は宿っていなかった。
「どうでした?託宣は得られましたか?」
きょとんとした様子で紅鳶は葵たちに尋ねた。神に憑依されている間のことを彼女は何も知らぬらしかった。
「美村鹿へ行けと言われました」
代表して京介が答えた。
「それ以上のことは何も」
紅鳶は「そうですか」と頷く。
「神は多くを語りませんからね。ですが、神がおしるしになった行く先です。きっと、あなたたちのこれからを決定づける何かが待っているのでしょう」
***
託宣を得た葵たちは来た道をたどって、待たせてある九尾のもとへと戻った。
いつの間にか、九尾の足元には葵、京介、沙羅の荷物が置かれてある。確か泊まっていた宿の部屋に置いてきたはずだが、葵たちが託宣を授かっている間に、九尾が気をきかせて持ってきておいてくれたらしい。
九尾は葵達が戻ってきたのに気がつくと、
「どうだった?」と顔を上げて尋ねてきた。
「美村鹿へ行けと言われたわ。」
沙羅が答えると、九尾は「三村鹿ね……」とどこか遠くを見る目つきをした。しかしそれも一瞬のことで、九尾はすぐさま姿を大きな化け狐のものへと転じさせる。
「そうと決まればとっとと行くぞ。さあ、乗れお前ら」
九尾が体を地面に伏せて乗りやすいようにしてくれたので、葵と京介は紅鳶に軽く会釈すると、荷物を取ってすぐに九尾の体によじ登り、めいめい居心地の良い場所に腰をすえる。
沙羅はというと、「ちょっと待って」と言い放つと、紅鳶と向かいあった。
「沙羅どの、どうかお気をつけて」
「はい。紅鳶さんも、お体に気をつけてください。そういえば、呪いの徴は?」
沙羅の問いに、紅鳶は少しだけ襟元を崩すと、なんの痣もない綺麗な白い肌を見せてくれた。
「ご覧の通り、綺麗に消えています」
「よかった」
それを見て、沙羅はホッと息をつく。
「沙羅どの、あなたにはいくらお礼を言っても足りません。子供達の魂を清らかに鎮め、私をあの子達と向き合わせてくれた。これまでずっと目を背けてきた現実と、向き合うことができます」
紅鳶は、言いながら沙羅の目を見つめた。
「できることなら、私もあの子達を殺めた陰陽師を追い、復讐してやりたい。しかし、神にお仕えしている以上、ここを離れるわけにもいきません。何より、殺生を禁じられている身では、どうすることもできません。だからといって、あなたにあの陰陽師を殺してくれなどとは言いません。ただ、止めて欲しいのです。あの陰陽師は、他でもここでしたのと同じようなことをしているのかもしれない。それを止めて欲しいのです。でもそれは、きっと危険な旅路になるのでしょう。こうして頼む以上は、私も共に行くべきなのでしょうが」
申し訳なさそうに目を伏せた紅鳶に、沙羅は言った。
「わかりました。というか、もとよりそのつもりです。紅鳶さんの分まで、必ず止めてみせます。それが私のやるべきこと。紅鳶さんにも、ここでやるべきことがたくさんあるのでしょう」
沙羅の言葉に、紅鳶は伏せていた目を開いた。
沙羅はそのまま言葉を続ける。
「私も、元は巫女として育てられました。だから、巫女のことはよく知っています。巫女は神に仕え、神楽を舞い、祈祷を行い、時にはその身に神を降ろして人々に託宣を授ける。だから、その身は清浄に保たれていなければならい。紅鳶さんの舞と神おろしを拝見しましたが、あれほど美しい舞を見たのは初めてでした。私にだってあんな神楽舞はできません。あなたは、素晴らしい巫女なんだってことが、あの舞と神おろしを見てわかったんです。あなたのような、優しく清らかな人のやるべきことは復讐や戦いではなく、神に仕え、人々を導くことでしょう。あなたはそれに誇りを持ってやってください。あなたができないことは、私がやります。だから、そんな申し訳なさそうな顔、やめてくださいね」
沙羅はニコリと笑いかける。それから、「また会いましょう。」と手を振って、紅鳶から離れ九尾の背へまたがった。
沙羅がしっかり座ったことを確認すると、九尾はゆっくりと伏せていた体を起こす。
「みなさん、お気をつけて」
紅鳶が駆け寄ってきて言った。
「皆様の旅路の無事を、日々願っております」
沙羅はそれに応えようと、九尾の背から身を乗り出す。
「ええ。ありがとう。紅鳶さん、私、すべてをやり終えたらあなたにもう一度会いに行きます。それまで元気でいてくださいね」
沙羅の言葉の最後の部分は、尻すぼみになって紅鳶の耳から遠ざかっていった。
沙羅を乗せた九尾が空へ飛び上がったからだ。
九尾の背の上で、紅鳶の名前の知らない二人の少年も手を振っている。それに手を振り返して、紅鳶は白み始めてきた空に浮かぶ、
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