虹色の細胞㊸

 正太郎の子供の頃と言えば、まだ世界に気候変動の荒々しい波すらやって来なかった時期である。

 しかしその反面では、以前に鳴子沢大膳が彼に語っていたように、

「羽間君がまだ生まれるよりずっと以前から、この戦いは始まっていたのだよ」

 ということだった。

(俺がこの世に生まれ出る前から、今みてえな世界を望んでいた奴がいたってことか……。そういうことなんだよな、鳴子沢さん?)

 人は、自分で見聞きし、体験したものでしか判断出来ない性質を持っている。それだけに、経験が浅く知識の上でもその造詣に深く思慮を巡らせていなければ、現実に起きている目の前のことにすら認識が出来ない。

(この海の下にあるものは一体なんだって言うんだ? なんでこんなものがこの下にあるって言うんだ? さすがにまだまだ分からねえことばっかりだ……)

 正太郎はそこでたじろいだ。

 このまま足元にある〝不可思議な現実〟を見て見ぬふりをすれば、何事も無く好きな女と何不自由なく一生を添い遂げることが出来るだろう。

 だが正太郎は、そのどこかになにやら不安めいたストレスのようなものを感じていた。

 しかしそれは、かのヴェルデムンド世界で生活していた時のような、生死の境をさまよう命懸けのストレスなどではない。彼が、生き物として、羽間正太郎個人として生まれ出て来たを放棄しているかのような得も言われぬストレスだった。

「そうなんだよな、俺ァ……。いつもそうだった。そして、それは死んだ悠里子やじいちゃん博士もよく言っていたんだ。俺には俺にしか出来ねえ役目があるんだってな」

 ぷかぷかと海上に身を預け、美しい日の出に目をむけると、そこには小さな人影があった。

「羽間さん……ぼ、僕」

 小紋が今にも泣き出しそうな表情で泳ぎ近寄って来た。

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