第六十五話 天界にて―――女神の願い

 そこに立った瞬間、ジュンヤは全知全能であり、同時に無知蒙昧むちもうまいであった。呆気ないほどの永遠と、途方もない刹那の中、どこにでもあってどこにもない、確固たる空虚の上に立っていなかった。


 そこでの過去は過ぎ去った未来であり、現在は前人未到の過去である。時間の矢が辿る軌跡はいくつもの交差を生み、そこから生まれたすべての可能性が無限として彼の脳を圧迫した。


 なるほど、このような場所では、普通の人間は一秒と持たず発狂するか廃人となる。命は永遠程度に無ければ足りないし、膨大な魔力は流れ込む無限から身を守る唯一の盾となる。


 ジュンヤは、やや魔法力が足りなかったせいで三十回ほど発狂死してしまったが、次第にコツを掴んでいった。


 知覚と情報の激流に身を置くと、自分が飲み込まれ、消えて無くなってしまう感覚が立ち上がる。


 その中で自分を保つには、“無視”が一番だ。


 己は全知でもなければ無知でもない。

 命は永遠でもなければ一瞬でもない。


 あきらめの境地。


 この世すべての人間が幸福になる未来と、すべてが死に絶える暗黒の未来を同時に見せられたが、だからといって、自分にはどうすることもできないと知る。


 禅の境地。


 所詮、自分は世話になった人の命を助けたいだけの矮小で普通の人間であることを認める。いうなれば適当だ。やってくる無限の情報を適当に取捨選択し、有限にしてしまう。人間の脳みそ一つに収まる程度に、天界という高次元の空間を定義・解釈してしまうのだ。


「……よし、大体できるようになりました。お久しぶりですね、女神マリアン」


 目の前に現れた凄絶な美しさを持つ女性に、軽く挨拶をする。この姿かたちすら、ジュンヤ自身の貧困な想像力でこしらえたまやかしの女神像だ。が、概念でしかない神を視覚出来るのは便利ではある。


「アンタの送り込んだシリズ―――じゃなくて、雑賀翔さいがかけるのせいで、随分とアンタの世界はおかしなことになっちまいましたよ」


 女神は哀しく微笑み、ジュンヤにこうなった顛末を伝えた。


 最初の勇者クリーフ・リーヴァンズとの、種どころか概念を超えた婚姻と、幸福な家庭生活。そして破綻。


 愛ゆえに狂い、女神を求めたクリーフが魔王を復活させたこと。


 再び現れた魔王を倒すため、より強い勇者として転生させたのが雑賀翔であり、彼と約束した望み―――転生勇者の増加が、世界の在り様をさらに歪めてしまったこと。


 クリーフがシリズを殺すため、別世界で死んだ子供たちの魂を転生させ、自らの手勢として育てたこと。


 それらすべての元凶が自分の浅慮からで、そのことを後悔していることを、訥々とつとつと、人間味のある様子で語ってくれた。


「気を悪くしないでもらいたいんスけど、なんかアホ亭主とバカ息子に振り回されてるみたいですよね、マリアンさんて」


 ジュンヤの端的過ぎる物言いに、クスリと笑う女神。


「あれ? ひょっとして―――」


 そこで、ジュンヤは一つの可能性に思い至り、疑問を彼女にぶつけた。


「クリーフが子供しか転生させられなかった理由って?」


 異世界から死んだ子供の魂を転生させられる。およそ『死霊魔術師ネクロマンサー』の異能から外れるほどの大能力の意味を問う。


 女神から答えはない。だから、先ほど思い浮かんだ仮説をぶつけた。


「家族、ッスか?」


 女神は、曖昧に微笑むのみだった。


 ジュンヤは、二人の間に子が授けられなかったことを知らない。


 それでも、彼女の“願い”を、“心”で理解した。


ってことですよね」


 なんともなにやら、一事が万事、こんなのばかりだ。


「何をやっているんスかね。あのアホ、否、クソ亭主は」


 ジュンヤはどこか清々しい気持ちで、クリーフを罵倒した。


「女神マリアン。今から俺が行って、あのオヤジのデカいケツを蹴っ飛ばしてきます。いいッスよね?」


 女神は一寸驚き、やがて破顔し、こくり、と頷いた。


※※


 クリサリア西部が、夕陽に染まる時刻に差し掛かる。


 一旦は山の守りを固めていた荒野のゾンビたちも、数があぶれてくると、次第に村々を襲い始めた。


 ジムの町の酒場では、人々が立てこもり、臨戦態勢を作っていた。


 店主のルーファスが、男たちに檄を飛ばす。


「いいか、そろそろここも持たねぇから言っておくが、尻尾巻いて逃げた奴からあの腐った魔物の餌にしてやるし、金輪際、俺の店の酒は飲めねぇと思え。勇者が守ってくれるなんて甘い考えも捨てな。テメェと、テメェの嫁や子供の命は、その腕で守りやがれ。その腑抜けて萎んだタマ袋に筋を通せ。分かったな」


 得物をめいめい手にした男たちが、緊張した面持ちで、それでも頷く。ルーファスはその様に、少しだけ光明を見る。だが、いくら心構えができても、多勢に無勢である。絶望的状況は僅かも動いていない。


「ルーファスさん。なにか、様子がおかしくはありませんか」


 服屋の少女マリーから疑問が呈され、ルーファスもそれに気付く。少し前から、木の板で徹底的に補強した酒場の扉や窓を無遠慮に叩き続ける音が消えている。


「俺、様子を見てきます」

「まぁ待てわけぇの。さっきはああ言ったが、勇気と蛮勇は違う。こういうときは、老い先短い年寄りが人柱になるもんだと相場が決まってる」


 立候補した若者を制し、年寄ルーファスが先頭を切る。


 一人店の外に出た彼の安否を全員が固唾を飲んで案ずる数秒が流れ、ややあって、大きな声が上がった。


「おい! クソゾンビ共がいなくなってやがるぞ!!」


 驚きと歓喜の輪が、長い時間をかけて作られた。やったぞ、酒盛りだと騒ぐ連中が「おめぇらなんにもしてねぇじゃねぇか! とっととほかの町や村の救援に走らんか馬鹿どもが!」と、ルーファスに怒鳴られる。


「……ジュンヤさん」

「え?」


 マリーがこぼした言葉に、男たちを追い立てたルーファスが反応する。


「いえ、可笑しな話なのですが、あの人が、また魔物をはらってくれたんじゃないかって、そんな気がしたんです」

「奇遇だな。俺もだ」


 お互いに顔を見合わせて笑い、赤い空を見上げた二人の直感は、当たっていた。


※※


アンタの復活させた死霊どもは、全部お祓いさせてもらいましたよ」


 突然、眼前に現れたことに驚く暇も与えず、ジュンヤは宣言した。


「……マコトがいないようだが?」


「紳士たるもの、このような死地にご婦人をお連れすることなどできません―――ですよね、兄貴」


 クリーフの恫喝に軽妙な口調で応じ、縛り縄から解放したビリーに同意を乞う。


『男子三日会わざれば刮目してみよ』という言葉をビリーは知らなかったが、それでも、僅か三日でただならぬ気配を身に着けているジュンヤに「……そうだな」と、多少狼狽うろたえた反応を見せる。


「クリーフ、アンタには選択肢があります。このまま天界に行くのを諦めてバーゼに出頭するか、死ぬか」


「選ぶ価値もねぇな」


「そうですか。―――なんで女神マリアンが、アンタに異世界から子供の魂を転生させる力を授けたんだと思いますか」


「なに?」


「そうして転生した子供たちを―――向こうの世界で絶望しながら死んでいった子たちを幸せに育ててあげれば、それは、自分マリアンとクリーフの家族になる。そう、あの女神様がいじらしく思ったからですよ」


 クリーフは、表情を動かさなかった。それでもジュンヤは言い募った。


「嫁さんは、アンタに幸せになってもらいたかったみたいですよ。どんなに世界の形を歪め、乱しても、ただひたすら、アンタの幸せを、女神は願い続けていたんだ」


「やめとけ、ジュン坊。もう、このオッサンは止まることができないのさ」


「兄貴……」


 ビリーが右手で腰をポンと叩いた。


「これで最後だ。落とし前は、キッチリつけようじゃないか」


 ビリーとクリーフ、二人の決闘が始まろうとしていた。

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