第232話 取り返しのつかない事

 俺は東西線に乗っていた。俺は立っているが目の前の座席に座っているのは舞だ。



 俺は結局、舞に抗う事が出来なかった。いや、正しくはもうどうでもいいような気になって・・・事の重大さに気付いたのはだった。

 取り返しのつかない事をやってしまったと今更のように思った。まさに『後悔先に立たず』を身をもって教えられた気分になった。それに、舞は泣いている。

「・・・舞・・・ゴメン」

「・・・拓真先輩、気にしないで下さい。わたしが勝手に先輩を巻き込んで、勝手に泣いているだけですから」

「・・・・・」

「先輩、今あった事は忘れて下さい。わたしも忘れます。夢の中の出来事を責める人はいませんよ」

「・・・・・」

「・・・わたしは今まで通り、藍先輩にも唯先輩にも迷惑を掛けません。それに、わたしは藍先輩と唯先輩を差し置いて拓真先輩を横取りする事はしません。だから今の事は忘れて下さい。わたしはただの後輩です。スナバでコーヒーを奢ってくれる以上のことをたった今拓真先輩はしてくれました。かえって貰い過ぎです。これ以上を望むと本当にわたしは二人から見放されます。それだけは避けたいのです。今の境遇を失いたくないのです。だから・・・お願いだから、今あった事は忘れて下さい」

「・・・分かった」

 だが、事の重大さだけは分かっていた。唯に弁解できない。当然だが藍に相談できるレベルの話ではない。

 俺はふと思い立って泰介に電話をした。いわゆるアリバイ作りというのもあるが、1年生の時の泰介の外泊とか歩美ちゃんとのラブラブデートの際の親へのアリバイ作りの貸しを使って強引に泰介を巻き込もうとしたのだが、予想に反して泰介が市内中心部、それも大通付近に歩美ちゃんと一緒にいる事が分かったので、大通りの地下街にあるマイスドで落ちあう事にした。巻き込むというより、あまりの俺の切羽詰まったような口ぶりに泰介自身が俺に来るよう要求してきたからだ。

 俺は電話を一度切った後、卑怯なのは承知で舞の知恵を借りる形でメールで何度か泰介とやり取りをして大通り地下街に行く事になったのだが、藍をも上回る舞の計算深さに恐怖すら感じる。もしかしたら『大事の前の小事』と言った時点から計算されていたのかと勘繰ったくらいだ。「そんな事は臨機応変ですよ」とサラリと交わされたが、さすがに「さっきの出来事も臨機応変か?」と聞いたらその意味を理解したようで顔を真っ赤して「恥ずかしいから言わせないでくださいよお」と言ってポカポカと俺を叩いてきた。でも本気で叩いてなくて、あくまで照れ隠しのようだった。

 で、それに間に合うように大慌てで支度をした。

 財布は舞が乾いたタオルで丁寧にふき取った後に扇風機で乾燥させていたし、硬貨やカードも水気を拭きとって1枚1枚丁寧に新聞紙の上にならべてあったし、お札は当て布してからアイロン掛けで水気を飛ばしていたから使えるようになっていたし、あちこち気を回してくれていた。舞の髪も俺の靴も乾いて、俺の服が着れる状態になった所で着替えて舞もトレーナーから外行きの服に着替え、さっきまで俺と舞が使っていた服とはドラム式の洗濯乾燥機に入れて動かした後に俺と舞は一緒に家を出た。そのまま速足で地下鉄の駅へ行き東西線に飛び乗った。

 さすがに雨は上がっていて8月になったから既に夕暮れ時だ

 さっきから俺も舞も何も喋らない。いや、俺は舞に話し掛けるのを躊躇っている。唯にどうやって弁解するのか、藍にどうやって弁解するのか、この状況をどう説明すればいいのか、正直混乱していて舞に何を話せばいいのか分からないというのもある。

 当然ではあるが、俺はマンションにいる間を含めて舞と手を繋ぐとか腕を組むとか、そういう事は一切していない。まあ、あの「1分間だけの彼女」の時に俺の胸の中で舞が大泣きしていた事はあったけど、というイレギュラー(?)な事をやってしまったのだが、その事はお互いの超の上に超を2、3個使うくらいのトップシークレット扱いなので、あくまで普通の先輩後輩の関係で俺たちは東西線に乗っている。



「・・・拓真先輩」

「ん?なんだ?」

「何か考え込んでいるようですけど、何を考えていたんですか?」

「・・・この後はどうすればいいのかなあって思っちゃってさ。泰介と歩美ちゃんは二人して結構危ない橋を渡るのに俺を何度も使ってるから、その貸しを返せって言えば渋々だけど協力してくれると思うけど、なーんか気が進まなくてね」

「・・・今夜はうちに泊まってもいいんですよ」

「はあ?」

「母は今夜は絶対に帰ってきません」

「どういう事だ?」

「母が看護師で三交代の勤務をしている事は中学の時に拓真先輩に話した事がありますよね」

「ああ」

「母は、とある勤務形態の時は絶対に家に帰ってこなくて、そのまま出勤してその仕事が終わってから帰ってきます。今日と明日の勤務がそれになっていますから絶対に今夜は帰ってきません」

「意味が良く分からないんだけど・・・」

「・・・簡単に言うと、不倫相手のところに行くからですよ」

「はあ?」

「母は娘の年齢の割に若いです。来年2月の下旬に38歳になるけど、わたしを産んだのが22歳になった半月後です。いわゆる美魔女などと言われて4年ほど前から病院の事務部長との不倫関係にあります。年々大胆になっています」

「・・・・・」

「でも、不倫には違いないですけど『元カレ』ですよ」

「マジかよ!?」

「大きな企業や官庁などでよくある話ですけど、キャリア入社の人が出世するには上司から勧められた縁談を断れないってやつですよ。だから部長さんも奥さんとの結婚を選択して母を捨てた形になったのですが、その人が4年前に母が勤務する病院の事務部長として戻ってきたから母が不倫に走ったんです。その少し前から父は日本にいない状態ですから願ったり叶ったりですよ」

「・・・・・」

「父はわたしには甘い、というか今でも親馬鹿ですが母とは感情的な対立で家庭内別居してました。いわゆる『仮面夫婦』ですよ」

「・・・・・」

「そう言えば分かると思いますけど、元々はいわゆるデキ婚です。簡単に言えば若気の至り、傷心の結果がわたしです。父も母もわたしが小学校にあがるくらいまでは仲が良かったと記憶してますが、「私立校にするか公立校にするか」とか「お稽古は何がいい」とか「どの学習塾にするのか」という考えの違いから始まった教育方針を巡っての争いから不仲になって5年生の夏ごろから家庭内別居をしていました。こうなるのも必然ですね」

「・・・・・」

「拓真先輩から見たらさっきのわたしは母と同類かもしれませんが、昔も今もわたしの気持ちは変わってません。それだけは断言できます」

「分かった。でも、さすがに却下。百歩譲って泰介と歩美ちゃんが望むなら舞の部屋を使わせてもらうかもしれないけど、俺の父さんや母さんに何も話してない段階では承知する訳にはいかない」

「それもそうですね。失礼しました」

「でも、なーんか、解決の糸口が見えてきたような気がする」

「ありがとうございます」

「ただ、唯に謝らないといけないからな」

「そうですね。最優先事項ですからね」

「でもなあ、正直、帰りたくないなあ。今は顔を合わせたくないからなあ」

「・・・・・!!!!!  (・・! 」

 なんとなくだが、今の会話で舞が中学時代に図書室に入り浸っていたり推理小説にのめり込んでいたりした理由の一端が分かったような気がした。こいつは以前の藍に似ていて家庭内はボロボロなんだ。藍は中学でも高校でも学校内で孤立している事はなかったが、少なくとも中学の時の舞は周りに頼れるような友達もいなくて完全に孤立していて、唯一頼れるというか信用している人物が俺だけだった。だから藍と同じく、いや、藍以上に俺に固執しているんだ。

 ただ、舞は同時に自分の立場も理解している。状況判断力も持ち合わせているから、自分が一歩控える事で学校内での自分の立場を確立する事ができた。ある意味、立ち回りの上手い子だ。それに、さっきは先輩である俺に全力のビンタを喰らわせて、ある種の度胸も兼ね備えている。

 あいつは常に冷静沈着で、どうすれば正しい答えを導き出せるのかを考える知力と判断力、決断力も兼ね備えている。それはトキコー祭の準備作業で実証されている。相沢先輩や藤本先輩も脱帽していたし黒田先生も感心していた。それに、恐らく校内で舞と論戦をして勝てる人物がいるとは思えない。山口先生を始めとした教師陣でも舞に勝てるとは思えない。

 藍と唯も舞の事は認めている。それはクイズ勝負の2回戦で舞が説明役をやった事が何よりの証拠だ。篠原や長田も舞には敬意を払っているのだから、2年生と3年生を代表する人物が揃いも揃って舞に一目置いているということだ。

 もしこいつが本気を出したら間違いなく藍や唯をも凌駕する大物に化けるだろう。いや、もう既に度量と知性を兼ね備えた大物だ。

 しかもルックスだけでいったら典型的な幼児体型(忘れろと言われてもさっきからなあ・・・)のロリ顔だから藍や唯に遠く及ばないというのを自分でも承知しているから決して驕る事もしない。

 姉貴や藍、唯とは違ったタイプの子だ。

 少し見方を改めないと俺も藍も唯も、舞の手の内で踊らされる可能性がある。それだけは忘れないようにしないと・・・

「・・・拓真先輩」

「ん?なんだ?」

「もう降りますよ」

「あれ?もう大通駅なんだ」

「そうですよ。行きますよ」

「はいはい」

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