15 アンジェリカとメドロ

 パリから少し南に下った、オルレアンとの中間にある農村にて。

 瀕死の重傷を負ったサラセン人メドロは、放浪の美姫アンジェリカに救出され、手厚い治療を受けていた。


 アンジェリカは幾度となく、この場面を繰り返してきた。

 その度にメドロを死の淵から救い、看病を続けるうちに庇護欲めいた感情が湧き起こり、やがてそれは恋に至る。


 一方メドロもまた、献身的に尽くしてくれる美女アンジェリカに惹かれ、同じく恋心を抱く。

 やがて二人は愛を育み、出逢えた事を感謝する詩文を各所に書き残し、お互いの将来を誓い合ってカタイの国へと旅立つのである。


 ところが――アンジェリカにとって誤算だったのは、今回に限ってメドロの傷が深かった事だ。

 生命の危機は早々に脱する事ができたが、メドロの視力はいつまでも回復せず、アンジェリカの顔を認識できなかったのである。


(どういう事なの? どうして……? 今までの世界線だったら、メドロはすぐに立ち直れていた筈なのに……!)


 槍で刺された傷は癒え、身体も不自由なく動かせるようになったのに、どうしても視力だけが戻らない。

 アンジェリカは焦燥していた。自分の顔を見る事ができない以上、自分をどう思ってくれるのだろうか――自信がない。


「――アンジェリカさん。オイラなんかの為に、ありがとう。

 でもどうして、ここまでしてくれるんですか?」


 メドロの治療は、協力してくれた牛飼いの家を借りて行われていた。

 アンジェリカが朝食の用意をし、メドロの口に運ぶ。目が見えない以上、彼女が介護する他は無い。


「どうしてって――その。ほら。えっと――ほ、放っておけないじゃない。

 あんなに血を流して、死にかけていたんですもの」


 放浪の美姫は、自分でも不思議なくらい言葉に詰まっていた。

 数多くの男たちを魅了し、手玉に取り、利用してきた筈の彼女が。

 この平凡で何の取り柄も無い、朴訥ぼくとつな若者に対してだけ、ひどく不器用になってしまう。まるで初めての恋に戸惑う少女のように。


(ああ……今すぐにでも打ち明けてしまいたい。

 何度もこの物語世界を繰り返していて、貴方と出会うたびに貴方に惹かれ続けていたって事を。

 今こうして出会うずっと前から、貴方を好いていて心待ちにしていたんだって――)


 無論、そんな突拍子もない事を言い出せる筈がない。相手を混乱させるだけだ。アンジェリカは口をつぐんだ。

 今のしどろもどろな言葉も、詭弁もいい所だ。戦場で傷を負っていたのはメドロだけではない。

 怪我人を放置できず助けようとしたというなら、他にもいた犠牲者にだって手を差し伸べて然るべきなのに。

 アンジェリカはメドロを選んだ。そう、メドロだけを。


「…………」


 朝食の介助をしている間、二人は無言だった。

 この辺鄙へんぴな農村では、水同然の薄味のスープやカチカチに固まった黒パンくらいしか手に入らない。牛飼いの家族もアンジェリカから報酬を受け取ったとはいえ、好意で自宅を貸与してくれているのだ。余り無茶な要求はできなかった。


「大分、持ち直してきたようね。食欲も増してきているし」

「そう、ですね――本当に。

 フランク騎士に囲まれた時、死を覚悟していたのに……こうして生き延びられるなんて、思ってもみなかった。

 これも全部、アンジェリカさんのお陰です」


「そんな事――ないわ。だって未だに、メドロの目は治っていないのだし」

「ここまで尽くしてくれたアンジェリカさんのお顔を拝めないのが残念です。

 きっとさぞかし、お美しい方なんでしょうね」


 メドロは微笑んで、食事を続けたが――黒パンが手からこぼれ落ちた。

 咄嗟にアンジェリカは、床に落とすまいと手を伸ばす。

 しかし勢い余って、アンジェリカはうっかりメドロの手を掴んでしまった。


「あっ、その――ご、ごめんなさい!」


 二人の距離が縮まる。何故だろう。幾度となく見た光景。幾度となく手を触れ、肌を重ねてきた男の筈なのに。

 今この瞬間。ただ手を握るだけでアンジェリカの鼓動は跳ね上がった。慌ててキャッチした黒パンをメドロの手に押し付け、自分の手を離す。


(な、なな何でこんなに動揺してるの!? 全然私らしくない……!)


 アンジェリカは自分でも、己の行動の拙さが理解できなかったが――やがて思い至った。

 あれほど辟易していた美貌と、誘惑の術テンプテーションに。彼女は知らず知らずの内に依存していたのだ。

 己の魅力にほだされ、言い寄って来る男たちにうんざりしていた癖に。

 いざ自分の惚れた男に、その一切が通じないと分かると――言い出せなかった。言い寄れなかった。自分に全く自信が持てなかった。

 いつも男たちにやっているような思わせぶりな振る舞いをして、メドロに高慢な女だと思われてしまったらどうしよう。

 数多の男に尽くされ、求婚されながら――メドロ以外の男を顧みなかった、軽薄な女だと思われてしまったら――アンジェリカの中で、不安と恐怖がどんどん膨れ上がっていく。メドロの手を慌てて離したのは、湧き起こる負の感情を悟られまいとした結果かもしれない。


「アンジェリカさん――」

「な、何?」


「オイラ、頭が悪いから上手く言えないかもしれないけど、その――

 今までずっと、苦しんできたんだね」

「!?」


 メドロの突然の言葉に、アンジェリカは大きく目を見開いた。


「ど、どうして――そう思うの?」

「触れた指から、微かに震えが伝わってきて――オイラの死んだ母親の手に、似てたんだ。

 オイラの家、貧乏でさ。母は弱音を吐かない人だったけど――長いこと、耐えて耐えて耐え抜いて――そのまま逝ってしまった。恨み言のひとつもなく」


 その時、メドロは思ったそうだ。

 最期の瞬間くらい、洗いざらいぶち撒けてくれても良かったのに。

 母はとても優しかったが、悩みも恨みも打ち明けられないほど、自分は信頼されていなかったのだろうか、と。


「ひょっとしたら――本当に恨んでなかったのかも、しれないじゃない」

「そうだね。言わなかった以上――本当のところは、母にしか分からない。

 でも母は苦しんでいた。あんな酷い仕打ちを受けて、苦しまなかった筈がない。苦しみを抱えたまま、誰にも理解される事なく死んでしまった」


 ここまで言って、メドロは言葉を切った。

 そして済まなさそうにうつむいた。


「――ああ、ごめん。アンジェリカさんもそうだ、と言いたい訳じゃなくって。

 ただ、似ている気がしただけなんだ。的外れだったら謝るから――」


 普通、自分の母親に似ている、などと言われて気分を良くする女性はいない。

 メドロは後悔した。つい口に出してしまった陰気な言葉に、アンジェリカは幻滅してしまったかもしれない。


 しかしアンジェリカの反応は違った。

 彼女は涙を流していた。苦しみを抱えたまま、誰にも言えずにいる――今まさにアンジェリカはそうであったから。 


「泣いて――いるのかい? アンジェリカさん。

 オイラのせいだね。オイラがおかしな事を言ったから――」

「違う。違うの――そんな風に言って貰えるなんて、思ってなかったから」


 彼女の苦しみの全てに理解が及ぶ事はない。何故ならアンジェリカの「魂」は、メドロとは違う世界を生きているのだから。

 しかしメドロには伝わった。ただ手を触れただけで。アンジェリカが疲れ果てている事を察した。目が見えていない今だからこそ、アンジェリカを美姫としてではなく、一人の弱りはてた普通の女性として扱ってくれた。


「それだけ苦しんでいるのに。アンジェリカさんは優しい人だね。

 普通、追い詰められた人は他人を労わる余裕なんてない筈だから」


 いつの間にか、立場が逆転していた。

 メドロの身体の傷を癒していたアンジェリカは、自分の心の傷をメドロに癒されていた。

 アンジェリカは今までに受けた酷い仕打ちや苦労、運命を罵ったりした。しかしメドロはアンジェリカの負の側面も平然と受け入れた。むしろ抱えていて当然だとさえ言った。


 目映いばかりの美貌や、誘惑の力が意味を為さずとも。メドロはメドロだった。

 今まで繰り返された世界線の通り、二人はいつしか――恋に落ちていた。


(ああ、やっぱり――私たちはこうなる運命だったのね。

 何度世界を繰り返しても。メドロに出会い、メドロと共に生きて。

 どんな美男だろうと、屈強な勇者であろうと。決して持ち合わせていないモノをメドロは持っている――!)


 長い苦難の旅路の末、ようやく辿り着いた幸福な時間。アンジェリカの「魂」は久しく感じた事のない、無上の喜びに満ちていた。

 今回もまた、自分はメドロと結ばれるんだ――そう思っていた矢先。


 二人の行く末に暗い影を落とす、重い足音がすぐ傍まで迫っていた。

 美姫アンジェリカを求め、ずっと追いかけていたフランク最強の騎士オルランドの到来である。

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