3-5-03

 アイノさんとフィフィが市場で食材を買っているあいだ、俺とほたるは車の中から町並みや人々を眺めていた。

 時刻は午前十一時。空港から三十分ほどで到着したヘルシンキの街並みはすっかり雪で覆われている。ただ、想像していたよりも積雪量は多くはなくて、雪自体もさらさらとしたパウダースノーのようだった。

 俺は車から出て、歩道に降り立った。

 少し離れた場所で、立派なひげを蓄えた中年の男性が、分厚いノートを手に、道行く人に何かを語りかけている。

 男性の前には小さな人だかりができている。人々は口々に男性に何かを告げ、男性はその都度、熱心にペンでノートに何かを書き加えている。

 反対側のドアから出てきたほたるが、スマートフォンで誰かと話しながら、俺の隣に立った。

「ヨシカさんに連絡しておいた」通話を切って、ほたるがいった。

「そっか」

「最後までちゃんと見届けてあげなさいって」

 その言葉にうなずく俺から人だかりの方へと、ほたるは視線を移した。

「どこも同じだね、京ちゃん」

「そうだな」

「どんな物語を取り戻そうとしてるんだろうね」

 彼らが話す言葉は俺にはわからなかったけど、自分たちの記憶を少しずつ持ち寄って再構築されていく物語を語り合う人々の表情は、とても生き生きとしていた。たぶん、彼らにとってはなじみの深い、大切な物語だったに違いない。

 やがてアイノさんとフィフィが戻ってきた。ふたりが持っている荷物を車の中に乗せて、俺たちは再び出発した。

「あれは、『カレワラ』ね」

 遠ざかっていく人だかりにずっと視線を向けていた俺に、アイノさんがいった。

「スオミに――フィンランドに古くから伝わる叙事詩。神話みたいなものね」

「なるほど」

「みんな徐々に物語を取り戻しつつあるみたい。日本ではどう?」

「日本でも同じような光景を目にします。ただ、日本の場合はネットでの活動が多い感じですけど。新しい作品もどんどん生まれていますよ」

「リーリンが大忙しだっていってたわ。そうだ」アイノさんが運転席と助手席の間に据え付けられている金属板の上に置かれている籠の蓋を開けた。「みんな、お腹減っていない?」

 アイノさんが籠から取り出したサンドウィッチに、俺たちはかぶりついた。スモークサーモンとトマト、キュウリ、レタスをクリームチーズがたっぷりと塗られたライ麦パンで挟んである。見るからにうまそうなそのサンドウィッチの味は、見た目以上だった。

「アイノさん、これ、むっちゃ美味しいです」

「よかった」

 アイノさんが手渡したサンドウィッチを、ハンドルを握りながらフィフィが器用にむしゃむしゃとほおばっている。

「これ、すごくいい匂いがする。ハーブですか?」ほたるがいった。

「ディルよ」アイノさんがサンドウィッチの中から細長い緑の葉を抜き出して、ぱくりと口に咥えた。「こっちでは、どんな料理にでもよく使うの」

 ほたるが俺にうなずいた。なるほど。空港でかいだ匂いはこれだったのか。

「気に入った?」

「はい。とっても」

「さっきいっぱい買ったから、持って帰って」

「ありがとうございます」

 赤信号につかまって、車が停止する。

「さあてと」あっという間にサンドウィッチを平らげたフィフィが、指をボキボキと鳴らした。「ラウマまであと三時間。ウキョウ」

 ルームミラーに映ったフィフィの視線が俺を真っ直ぐに見ている。

「即興でひとつ、作ってみる?」

 俺はにやりと笑って、リュックの中からノートパソコンを取り出した。


 三時間後、フィフィの運転するハンヴィーは、西の端に位置する町、ラウマに到着した。

「なんか、可愛い家が多いですね」

 窓の外をじっと見つめるほたるに、アイノさんが答える。

「ここの旧市街は、北欧最大の木造建築の町といわれているの。世界遺産にもなっているのよ」

「か、かわいい……」

 ほたるは窓にかぶりつくようにして、通り過ぎていく色とりどりの家々を見つめている。雪で覆われた屋根の白い色と、パステルカラーの壁の色がなんともいえない調和を保っている。

 やがて町はずれの一軒家の前に、車は停まった。

 その家もやはり木造で、シンプルな造りの二階建て家屋だった。屋根には小さな出窓と、煙突が付いている。

 車から降りると、ヘルシンキよりもさらに気温が下がっている感じがした。既に空は夕暮れが迫っている。

「あと一時間くらいで日没ね」

 空を見上げている俺に、アイノさんがいった。腕時計の針は、午後二時半を指している。

 バタン、と家のドアが開いて、赤いセーターを着た女の子が飛び出してきた。

「ウキョウさん! ほたるさん!」

 ライトノベルが、俺とほたるを抱きかかえるようにして、しがみついてきた。

「ベルちゃん! 久しぶり」

 ほたるが分厚い手袋をした手で、ライトノベルの頭をなでる。

「あれ。また背が縮んじゃった?」

「えへへ。また、ちっちゃくなっちゃいました」

 俺とほたるに抱き着いているライトノベルは、最初に会った頃よりも少し高いくらいの身長に戻っていた。

「今はどっちなんだ。メサ? ライトノベル?」

「んー。たぶん、ライトノベル?」

 メサはほたるの手の下で、首をかしげた。

「ほんとかよ」

「ほ、ほんとです」メサが頬を膨らませた。「でも、どちらもウキョウさんが付けてくれた名前ですから、どちらも大事なのです」

「ほらほら、風邪ひいちゃうわよ」アイノさんが俺とほたるの背中に手を当てた。「中に入りましょう」


 家の中はとても暖かかった。

 広いリビングのテーブルには、ダオとリエンがそれぞれのノートパソコンの前に座っている。ダオは大きく伸びをして、リエンはコーヒーカップを口に運んでいるところだった。

 ダオの前にコーヒーカップを置きながら、平沢教授が俺たちに微笑みかけた。

「ふたりとも、長旅お疲れ様」

「平沢先生、お久しぶりです」

「ありがとうございます、センセイ」ダオがコーヒーの礼をいって、俺に手を差し伸べた。「元気だったか、ウキョウ」

「ああ」俺はダオと握手を交わした。「新作、よかったよ」

「いつもコメントありがとな」

「ほたるちゃん、今日は、せ、制服じゃないのね」

 なぜか残念そうなリエンにダオが突っ込む。

「当たり前じゃん」

「う、うるさいわね」リエンが慌てている。

「あの……一応、持ってきてるんですけど、制服」

 リエンが、がしっとほたるの手を握った。

 ダオがやれやれと首を振っている。

 フィフィとアイノさんが抱える荷物をみんなで手分けして片付けると、全員がリビングに集合した。テーブルにはダオ、フィフィ、リエン、俺、少し離れたソファに、アイノさん、ほたる、ふたりの間にライトノベルが座った。みんなの視線はテーブルに置かれたノートパソコンに注がれている。テーブルの側に立っている平沢教授がマウスを操作すると、画面にリーリンの姿が写った。

「全員揃ったみたいね」台湾にある本社の会議室の窓の外は暗く、向こうは既に夜のようだ。「右京さん、ほたるちゃん、フライトは問題なかった?」

「はい」

「おかげさまで」

 俺とほたるに、リーリンがうなずく。

「じゃあ、念のためこれまでのことを整理してから、今後のことについてお話しましょう」

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