3-3-03
ピンポーン、と玄関のベルが鳴った。
俺が立ち上がる前に、ヨシカさんが「はーい」といいながら席を立ち、インターフォンを取る。
「お帰りなさい」
どうやらほたるたちが帰ってきたみたいだ。
「どうだった、メサの様子は」
部屋に入ってきたほたるに、俺は尋ねた。
「うん」ほたるは曖昧な表情を浮かべて、アイノさんを見た。「今のところは大丈夫そうだったけど」
「メサの体調のことなら大丈夫です」アイノさんが、ほたるの腕をそっとつかんだ。「体を壊してしまったり、病気になったりすることはありません」
アイノさんの含みを持たせた言葉が、俺は気になった。
「でも……何かあるんですね」
「よくわからないの」少しためらってから、アイノさんはいった。「あれだけの量の小説を取り込んだメサは、以前のメサとは異なった存在になる可能性があります。ただそれがどういう変化をもたらすのか、今はわかりません」
「カレヴァ、お前にもわからないのか」
カレヴァは無言で首を振るだけだ。
「とにかく、今私たちにできることはないわ。いざというときのために、休んでおきましょう」
「そうね」アイノさんの言葉に、ヨシカさんがうなずいて立ち上がった。「ほたる?」
ほたるは俺の母親の部屋の前にたたずんでいた。かつて開かずの間だったその部屋の扉は、今は開けたままになっている。ほたるの視線の先は、四方の壁に何も入っていない棚が置かれているだけの、がらんとした空間だ。
振り返ったほたるの両頬は涙に濡れていた。
「京ちゃん」ほたるは無理やり笑おうとして、困り果てた表情を浮かべている。「私、何で泣いてるのかな。ここに、何かあったんだよね。小説?」
「おふくろの小説」俺はほたるの隣に立って、部屋の中を覗いた。「ここには、おふくろの小説が置いてあったんだ。お前も全部読んでた。俺たちが小さい頃、おふくろが読み聞かせてくれた本もあった。結構な量があったんだぜ」
「そう……」
ほたるはごしごしと目をこすっている。
「なあ、ほたる」
「ん?」
「ありがとな」
ほたるは少し驚いた顔で俺を見た。
「どうしたの、京ちゃん」
「ああ、いや」
俺は、反地平面に飛ばされる前日に、この部屋の前でほたるにいわれたことを思い出していた。ほたるに、ちゃんとお礼をいってなかったことも。もしかしたら、もうそのときのことも思い出せなくなっているのかもしれない。俺が昔、ほたるに贈った詩も、ほたるの記憶からは消失しているかもしれない。でも、それを確かめることが俺にはできなかった。
「なんでもない。じゃあ、遅くなる前に――」といいながら振り返えると、ヨシカさんとアイノさんがテーブルについて、にこにことこちらを見ている。
「あら、もういいの」
「あの、私たちのことはお気になさらず、ごゆっくり」
俺はため息をついた。「そういうの、いいですから」
カレヴァだけは、我関せずといった感じで、コーヒーを飲んでいる。
「それは残念」ヨシカさんが立ち上がった。「じゃあ、私たちは行くわね。明日また連絡を入れるから、今日はゆっくり休むのよ」
玄関に向かうヨシカさんとアイノさんとほたるの背中に、俺はいった。
「ちょっと待って」
三人が振り返る。
「あいつはどうするんだよ」
俺はカレヴァのいるダイニングキッチンの方を指さした。
「もちろん、京ちゃんが面倒を見てあげるのよ」
「いや、面倒って……」
「ごめんなさいね」アイノさんが俺の手を握る。「あの子、あんまり人付き合いに慣れてないけど、根は悪い子じゃないから」
いや、そういう問題ではない気がするんですけど。
「まあ、私としては若くて可愛い男の子二人と一緒に一晩過ごすことにやぶさかではないんだけどね」
というヨシカさんをほたるとアイノさんが睨む。
「恥ずかしいから、ほんとやめて」
「はいはい」
「ヨシカさんは一緒にいてもらわないと困ります」
「はいはい。そういういわけで」ヨシカさんは俺の肩に手を置いた。「あと、よろしくね」
手を振る三人の前でパタンと玄関のドアが閉まり、俺は盛大なため息をついた。
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