わがヴィーン時代の一般的政治考察21

 オーストリアにおける汎ドイツ主義運動の崩壊は三つの原因がある。


 一つは新しいその内面的本質に従った革命的な政党が社会問題について明瞭な観念を持っていなかったことだ。


 シェーネラーとその支持者たちはブルジョワ階層に頼ったので、結果は非常に弱弱しく穏健にならざるをえなかった。


 ドイツのブルジョワジー、特にその上層部は自分では自覚していないかもしれないが、平和主義で国民や国家の内部のことが問題になると自己放棄に陥るのだ。


 いい時代なら、すなわちいい政府の時代ならこういう心情は国家にとって非常に価値のある基礎となる。しかし悪い治世においては、それは破壊的に作用するのだ。


 それでなくとも実際に真剣な闘争を可能にするためには汎ドイツ主義運動はまず大衆の獲得に専念しなければならなかった。


 彼らがこれをしなかったのでこの運動ははじめから本質的な活気を失ったのである。


 しかしこの原則が最初から注目され、また実行されない限りこの新党は全てを取り返す可能性をすべて失ってしまう。と言うのは非常にたくさんの温和なブルジョワ分子を採用すれば、運動の内的傾向というものは常にこの方向に向けられ、そしてもっと広い大衆から力を獲得するより広い見込みは全て失われるからである。


 しかし、それと同時にそういう運動は単なる酷評にさらされ続ける。多かれ少なかれ宗教的な、また同じような犠牲的精神と結びついている信念はもはや見いだされることはない。


 しかし「積極的」協力によって、与えられたものを承認することによって、闘争の冷酷さを鈍らせ、最後には平和に達しようとする努力がそれにとって代わるのである。


 汎ドイツ主義運動もまた初めから大衆の支持者を獲得することに重点を置かなかったので、同様の経過をたどった。この運動は「ブルジョワ的な、上品でやわらげられた急進派」になった。


 しかし、この欠点から急速な没落の第二の原因が生じてきた。


 オーストリアの地位はドイツ人にとって、汎ドイツ主義運動の登場した時代に、すでに絶望的な状況だった。議会は一年一年と徐々にドイツ民族を滅ぼす体制になっていた。土壇場で救うための試みは全て、この制度を排除する以外にほとんど成功の見込みはなかった。


 それとともにこの運動にとって重大な問題が生じてきた。すなわち、議会を滅ぼすためには議会の中に入っていき、「内部から骨抜き」にすべきか、あるいは外部からこの制度そのものに対して攻撃する闘争をなすべきか、ということである。


 人々はその中に入っていき、そして敗れた。しかし彼らは入っていかなければならなかったのだ。

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