カヌレを食べよう(後)
会議室の扉が開かれると、やや雪崩れ込むように部隊長たちは中に入った。
いの一番の報告を争うように口を開きかけたあと、その口がすべて止まり、喉から出かかった言葉はたちまちのうちに消え去った。
「遅い」
会議室の一番奥。
いわゆる議長席に陣取ったのは、足を大きく組んだブラッドガルドだった。気怠げに言い放った言葉とは裏腹に、その瞳だけは鋭く、会議室に入ってきた者を射抜く。
たった一言で、会議室に現れた全員を凍り付かせた。
小さな呻き声をあげる男たちの後ろから、のそのそと瑠璃が会議室に入っていく。
「なんでブラッド君が一番偉い席に座ってんだよ」
なにしろ、本来そこにいるべき人間――カインは、ブラッドガルドの隣で苦笑気味に立っているのである。もはやどちらがここの主かわからない。
完全に一国の王に対して不敬にもほどがあるが、ブラッドガルドにはそれは通じなかった。
「我に相応しい椅子がこれしかないからな」
「ふさわしいイス……?」
宇宙でも背負ったかのような不可解な顔をする瑠璃。
ブラッドガルドは事もなげに視線を投げた。
「だいたい、魔人ひとりに何を手こずっていたんだ」
手こずるもなにも、と瑠璃は思った。
蜂のような魔物、というより蜂のような魔人が現れたあと、現場はヨナルのひと睨みで形勢逆転した。ヨナルの邪眼によって魔人は怒りとも恐怖ともとれぬ悲鳴をあげ続けたのだ。
指示を出すもそれはメチャクチャで、大蜂もヨナルが発し続ける邪眼によって混乱の極地にあった。更に後から合流した別部隊によって戦力は拡充。一気にたたみかけることに成功したのだった。
瑠璃はそれを見ていたが、そもそもヨナルが出てきてくれなければ完全にこっちがやられていただろうと思った。
「もしかしてボスが魔人なの知ってたの?」
「当たり前だ」
「じゃあなんで私に行かせたんだよ!!!」
余計に自分を行かせる理由がわからなかった。完全にとばっちりを受けた瑠璃が衝撃的な顔をする。
その視界の外で、カインが若干視線を逸らした。ブラッドガルドにとってみればただの虫退治。どうということはない。だから瑠璃を派遣したのだ。派遣といっても本人の意志など尊重されるどころではないのだが。いずれにせよ、瑠璃という絡め手を通じて使い魔を貸してやるからうまく使ってみせろという事に他ならない。
「あんなもの我が出るほどではない。だが、我が領域を虫に集られるのも癪だ」
「その理屈で言うなら此処はカイン君の領域なんだけど」
瑠璃のいっそ冷静なツッコミに、ブラッドガルドはやや鼻白んだようだった。
椅子から立ち上がると、ゆっくりと瑠璃のほうへと歩いてくる。
「まあいい――貴様はさっさとカヌレを持って来い」
「いやさっさとって言われても……ここじゃ作れないでしょ、型とか無いし」
「誰が作れなどと言った?」
「んあ?」
ブラッドガルドは瑠璃の首根っこを猫のようにつまみ上げると、カインへと視線を流した。三日月が笑った。
「ではな、小僧」
「ちょっ……」
ブラッドガルドは、掴んだ瑠璃ごと自分の影の中へと沈み込んでいった。とぷん、と泥のような影が床の上で跳ねたあとは、もう何もなかった。
全員の怯えと畏怖と、なんとも言えない緊張感を持った視線が、影の残影に集まった。しんと静まりかえる。
「……ふー……」
カインがようやく息を吐く。
全員がその吐息にハッとした。
「……なるほど、魔人がいたのですね」
カイン自身は、ブラッドガルドが瑠璃を――というより使い魔を貸すなど、少し厄介な事なのではないかと思っていた。それこそ、魔人のような。
会議室の中に、安堵の空気が流れる。
「はッ……はい。そのようで」
「では、巣のほうは……」
「かなりのデカブツでした。森の一角がそのまま巣になっていましたので。戦闘中は気が付かなかったのですが、そこだけかなり甘い香りがしていました。採取した蜂蜜と蜜蝋は別部隊が手分けしましたが、それでも人手が足りず……いまも往復中かと」
「そうですか。皆さんはご無事でしたか?」
「はッ。多少の傷はありますが、一人も欠ける事無く」
カインはホッとして頷いた。
「では、後で量を確認しましょう。……まあ、ブラッド公も機嫌良くお帰りになられたので――後でカヌレとやらも、作りかたを聞き出したら準備をしましょう」
「承知しました」
まるで何事もなかったかのように、それぞれが動き出す。
しかし、いまだに戦慄の中にあり、一歩も動けなくなっている者たちもいた。
「あ、あの。か、彼女は……いったい、何者なのですか」
そんな事情を知らぬ者たちの一人が、答えを求めてそう呟いた。
きっとなんらかの答えが返ってくるという期待は確かにあった。しかし、振り向いた先にいたカインをはじめ元々の村人メンバーは、全員があらぬ方向を見ながら考え込んだり、目を逸らしたり、額に手を当てていたりした。
「あ、あれっ!?」
その様子に思わず驚く。
「なんだろう……あいつ……」
「別にブラッドガルドを完全に抑えられてるわけじゃないしな」
「むしろ藪の中の魔物に自ら突っ込んでいくタイプ」
「魔物にはビビッてるからブラッドガルド限定だろ」
「……マジでなんなんだろうな……?」
全員の目線がカインに向いた時、彼は若干苦笑した。
「……人類の裏切り者にして、人類の希望ですかね」
カインはどうとでもとれる曖昧模糊な表現をした。
*
翌日、瑠璃はパン屋で仕入れてきたカヌレを持ってブラッドガルドの部屋へ出向いた。そもそも何故こんなことになったのか、理不尽極まりなかった。完全にブラッドガルドの傲慢さというか、我が儘さに振り回された感覚はある。
しかし、当の本人がどう思っているかはともかく、とりあえずは魔人退治に協力してくれたから――と、瑠璃はむりやり自分を納得させていた。
貸したのは瑠璃ではなく、瑠璃に隠したヨナルだったのだと後々に気付いたのだ。だからこそカインもやや困ったような表情で、部隊に入るように促したのだろう。
――カイン君も気付いていたなら言ってくれれば良かったのに!
とは思うものの、周囲の誰もが「言ったら意識してダメだろうな」と思っていたことは、瑠璃は気が付かなかった。
さて。そんなことはさておき、瑠璃がカヌレを持って行かなかったのは、特に理由はない。
強いていうならいままでそれほど口にしたことがなかったと、それだけだ。蜂蜜や蜜蝋が使ってあるということから、なんとなく味の想像はつく。しかし問題は見た目だ。真っ黒にこんがりと焼けたその形は見るからに硬そうで、包丁が必要なのではないかとすら思っていた。ブラッドガルドはともかく、自分はひとまず真ん中から割る必要があるのではないかと。
だから瑠璃が部屋に入り、皿の上に釣り鐘型をしたカヌレを置いたとき、ほんの少しだけ眼を瞬かせた。
ただの釣り鐘ではない。つやつやとした見た目は真っ黒で、凹んだ上部から広がるように十二本の溝が縦に走っている。色からしてもパンからもクッキーのような菓子からもかけ離れた姿は、さすがに想像の範囲外だったらしい。ブラッドガルドの片目もやや大きく見開いていた。瑠璃が不意に手を止め、口を開く。
「これさ、はじめて買うまでは、包丁でこう、ザクッと切らなきゃダメかなってくらいのイメージだったんだけど」
「違うのか」
「いま出す時に触ったら、結構弾力があるんだよね」
透明な袋の上から、少しだけカヌレを指で押す。ガワは確かにしっかりしているが、やや弾力があるのかぶにぶにと押すことができている。
「というわけで、これがカヌレ!」
「貴様も食った事は無いんだろうが」
「無いよぉ」
ブラッドガルドは返答代わりに、ふん、と鼻を鳴らした。
おもむろに手を伸ばし、皿の上に置かれたカヌレをひとつ手に取る。まじまじとその形を珍しそうに見ているのを尻目に、瑠璃は早速ひとつ口に入れた。
「ん」
確かに外側は硬いが、想像するほどではなかった。それどころか、コリッとした食感のすぐ下には、もっちりとした柔らかなものがすぐに現れた。
「あ。美味しい。蜂蜜味!」
中のもっちりとした白い部分だけをかじりとる。蜂蜜の香りとともに、ややしっとりとした味わいが口の中に広がる。口の中でもちもちとした食感も楽しめる。
「もうちょっとしつこいのかと思ったけど、これ普通に一個イケちゃうね?」
外側のよく焼けている部分が、ときおりサクッとした感触を奥のほうで伝えてくる。それがまた楽しいのだ。やや分厚いところもあるものの、瑠璃が想像していたように包丁が必要なほどではなかった。
瑠璃が見上げると、ブラッドガルドは半分ほどがっつりとかじりついて持っていったところだった。口の中で噛みしめるように、ゆっくりと口を動かす。
それから、舌で僅かに唇を舐めてから続けた。
「そもそも――なんだこれは」
「んー」
カリッとした外側を愉しみつつ、瑠璃は片手をスマホに伸ばした。
「そもそも『カヌレ』って言葉が『溝』とか『溝のある』っていう形容詞でね。この独特の形っていうか、型にちなんでつけられてるっていうか」
「だいたい……、何だ。この形は。蜜蝋で何故こうなる」
「そもそも、この食感とか出すのに銅製の独特の型を使うことと、型の内側に蜜蝋を塗るとこうなるらしいよ。発祥のほうもいくつかあるみたいね」
「ほう」
瑠璃はちらっとブラッドガルドに目を向けた。
完全に聞く体勢の彼を見てから、視線を戻した。
「カヌレはボルドー地方の伝統菓子だから、ボルドーで作られたとか、伝わったとかいうのは基本でね」
たとえばそれは、貧しい人々の為に、神父が作ったものが始まりだったとか。
あるいは、リムーザン地方にあったお菓子がボルドーにもたらされたものだとか。
しかし、それらの説はあまり顧みられることはないらしい。なにしろ多くの文献やサイトなどで紹介されるときには、修道院で作られたという説が取り上げられるからだ。
「まず前提として、ボルドー地方って十二世紀から十五世紀くらいはイギリスの支配下にあったみたいだね。だから、原型になったお菓子にはマフィンとかプディングって言われてるみたい」
「……ああ、まあ、……そうなのか?」
二つ目を手に取って、その形をまじまじと見るブラッドガルド。
「あとは、十六世紀頃に修道院の尼僧が棒状に作ったのがはじまりっていうのもあるね」
「棒状?」
「カヌレのカヌ……カンヌ、かな? っていうのがフランス語で杖って意味があるらしくて、それでらしいよ」
「ほう」
二個目のカヌレがブラッドガルドの口の中に消えていった。
「しかし修道院で蜜蝋を使う、というのがあまり解せんが」
「あーそれはほら、蜜蝋って蝋燭とかの他にも、化粧品とか軟膏の材料にもなるんでしょ」
「……そういえば、そうらしいな」
「お、知ってる?」
「小僧がそんなようなことを言っていた」
「おー」
どうやらブラッドガルドの世界でも似たような使い方をされているらしい。
「で、当時の修道院って、蝋燭を作るために養蜂をやってたらしいんだよ。それで、型に蜜蝋を塗るのを思いついたって言われてるよ」
「……ふむ」
ブラッドガルドが三つ目のカヌレに手を伸ばす。
「あとは、修道院ってワインも作ってたらしいからね」
「それが何の関係があるんだ」
いつになく間を置かず突っ込んできたブラッドガルドに、瑠璃は一瞬黙った。
「言え」
「……あー。だからさ」
瑠璃は一旦ごほんと咳払いしてから続ける。
「オリ、っていうの? 沈殿物のこと」
「そうだな」
「あれを取り除くために、卵白が使われたんだって。そうすると黄身が残るじゃない? それを使ってお菓子を作ったって話が載ってるね」
十八世紀に作られていたときは、生地をラードで揚げて中にマーマレードを詰めて砂糖をまぶしたものだったらしい。
それが十九世紀に入ると今のように、小麦粉や卵や牛乳を使ったものを型で焼き上げる菓子に変わったようだ。現在でも南フランスのプロヴァンスでカヌルーという名で売られているらしい。
「でまあ、カヌレ自体は地元でひっそり売られてた銘菓って感じだったんだけどね。それを多くの人に知ってもらおうってことで、1985年にボルドー・カヌレ協会が出来たんだって。そっから広まったらしいよ」
「……まあ、貴様が買ってこられるほどだからな」
「パン屋さんとかで売ってるのを見るかな。これもパン屋さんで買ったやつだし。あとはカフェとか……。でも、場所によってはいまはカヌレ専門店とかもあるみたいね」
「ほう」
ブラッドガルドの目線には、瑠璃は気が付かなかったふりをした。
それから紅茶を飲んで、口の中の甘みをぐっと奥へと送り込み、渇きを癒やした。
「そういえばブラッド君さあ」
「なんだ」
「カイン君となんか話したの?」
「多少は。大した話はしていない」
「ふーん?」
ブラッドガルドが大人しくあそこで待っていたとも思えないが、カインがその暇を潰すのに尽力したのだろうと思った。
そして、瑠璃は二個目のカヌレに手を伸ばした。
*
「……どうされましたか?」
瑠璃を送り出したあとのことだ。
ブラッドガルドは気怠げに周囲を睨み付けて威嚇し、萎縮させた。カインはそれを見て、中にいた護衛をすべて下がらせた。グレックだけには扉の前で護衛をさせ、あとの人間は扉から離れるように指示したのだ。
全員がその指示に従って部屋から出たところで尋ねたのだ。
「……小僧。貴様のところに、あの土塊が来たか」
「……土塊、ですか?」
「アズラーンのことだ」
カインは一瞬黙り込んだ。
「……来ましたね」
ブラッドガルドに隠し立てても無駄だと思ったらしく、カインはあっさりと吐いた。
「東の果ての国の――奴隷として、最初は侵入されました。魔力を隠していたので、すっかり騙されてしまいましたよ」
「ふん。わざわざそこまでするとは」
「貴方の印象や、魔女の正体あたりを聞いていた気がしますね」
「……」
面倒な、という気配をひとつも隠さず、ブラッドガルドは息を吐いた。
「何故アズラーン様が現れたのか……」
「あれはただの土塊だ。間違えるな」
「……。ええと。何故現れたのか、貴方はご存じで?」
「知らぬ」
気付いていても言いはしないだろう、とカインは思った。だが、本当に知らない可能性もある。神々の認識がどうなっているのか人間の身からは想像もつかないが、人型をとると知覚できる範囲が限定されるのではないかと薄々は感じていた。
「そうですか……。ですが、東国はこのあたりと事情が異なりますからね」
ブラッドガルドは、自らの恨みで。
女神セラフは、ブラッドガルドを倒してほしいという願いで。
では、土の精霊は如何なる願いを受けて現れたのか。
「あそこで何かあったのかもしれませんし――。あるいは、何か出てこざるを得ない状況にあったのでしょうか」
「ふん」
ブラッドガルドは鼻を鳴らして、足を組み替えた。
「いずれにせよ、面倒な事を運んできたものだ」
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