57話 チョコの食べ比べをしよう(1)ラムレーズン編
ことの始まりは、小さなミスだった。
瑠璃のほんの些細なうっかりが、この事態を引き起こしたのである。
それは、偶然というにはあまりにも出来すぎていた。
瑠璃は急いで鍵を開けると、ただいまっ、と跳ねるように声をあげた。慌てて靴を脱ぎ、上がろうとして、そこではたと気付いて振り返る。手を伸ばしてドアの鎖を引っかけると、廊下を走って突っ切った。
そうして真っ先に自分の部屋へと入ると、一メートルほどある、古びた加工をされた扉を開けた。本来であれば鏡があるはずのその扉の向こうには、暗い石造りの牢獄の如き部屋――瑠璃の部屋とは真反対の部屋が広がっていた。
「セーフ!」
「……」
何がセーフだ、と言いたげな視線が飛んでくる。
牢獄のような部屋で、唯一異彩を放つ綺麗なテーブルの向こう側に、それは居た。赤黒い髪を垂らし、痩せた、ボロボロの衣装を身に纏った男――だがその頭の両側からはねじくれた角が生え、眼光鋭く相手を見れば、萎縮するか恐怖に戦くかのどちらかだろう。だが瑠璃はまったく悪びれることなく、誤魔化すように笑った。
「ごめんね! ちょっと待ってて!」
そして部屋に――入らなかった。振り返って自分の部屋の机にコンビニの袋を置くと、慌ただしく出て行った。実際のところ、時計の針は四時五十分を指していて、いつもの時間より二十分は遅れていた。
「……」
その様子を、ブラッドガルドは眉間に皺を寄せて眺めていた。ため息をつきながら、手に持っていた雑誌をテーブルに置く。イチゴの籠を持って笑いかけている女性の表紙が、虚しく叩きつけられた。ブラッドガルドは幽鬼のように立ち上がると、開けっぱなしになった鏡の扉に近づいた。眩しさにやや目を細め、狭い扉の中をくぐり抜ける。襤褸の衣服が白日のもとに晒された。ブラッドガルドは鏡の向こうから闇を引き連れながら、部屋に視線を走らせた。机の上に放置されたコンビニの袋が目に留まる。
そのとき、キンコーン、という音が耳に届いた。視線を向ける。廊下の向こうで瑠璃の走る音が響いた。
「はーい!」
『すみませーん。白猫宅配便ですー』
「はい! ちょっとお待ちくださーい!」
ブラッドガルドは真顔のまま視線をコンビニの袋へ戻した。
軽く指先で袋を開くと、コンビニスイーツのイチゴパフェが三つ現れた。透明なカップに入っているタイプのもので、蓋も透明で、半円形の形をしている。中身が横からも上からも見えるものらしい。だが他にもひとつ、見慣れないものが入っていた。ブラッドガルドはおもむろに赤色の長方形のパッケージを手に取ると、まじまじと眺めた。
同じころ瑠璃はといえば、ブラッドガルドが部屋に入ってきた気配にまったく気が付かないまま、宅配の荷物を受け取っていた。
「ありがとうございましたー」
宅配業者のお兄さんにお礼を言って扉を閉める。鎖をかけると、瑠璃は廊下を振り返った。その一番奥、自分の部屋に通じている扉から闇が染み出ていた。そこから骨張った手がガッと壁を掴み、妙に軋んだ音を立てる。
「……小娘……」
地獄の底から響いてくるような声だった。
「おう、ちょっと待ってて。段ボールだけバラすから」
ホラー映画のワンシーンのようになっているブラッドガルドにひらひらと手を振り、瑠璃は居間のテーブルに段ボールを置いた。上部に張られた宅配便の送り状を剥がし、二つ折りにして置いておく。ハサミとカッターを探している間にも、自分の部屋から染みだした闇がずるずると侵食してくる。
「……小娘」
「だからなんだよ、も~」
瑠璃が振り返ると、ブラッドガルドが持っている箱が視界に入った。箱はよく見ると開けられている。魔人は、口元についたチョコを指先で綺麗に拭き取っているところだった。
「……貴様、まだこんなものを隠していたのか……?」
「え? ……あー! それお母さんに頼まれたやつ! っていうかなんで食べてんだよ!?」
「返答次第ではただでは済まさん……」
「いやそれはこっちの台詞だけど?」
何故食べたと聞いているのは瑠璃である。
「だいたい……貴様……なんだ……なんだこの中の……なにかは」
「ほんとにどうした!?」
語彙が決定的に死んでいる。
「ラムレーズンだけど……」
「ラムレーズン」
「……えー、あー、ラム酒に漬けたレーズンっていう……干しぶどうだね!」
瑠璃は最後にはにっこりと笑って言ったが、ブラッドガルドの空気は変わらなかった。
「なるほど。貴様、いまの自分の言葉をもう一度噛み砕いて考えろ」
「だからいったいなに……」
そこまで来てようやく、ブラッドガルドの言いたいことに思い当たった。
重苦しい沈黙が場を支配する。
つまり、中身に酒が使われたチョコレートは、こうしてブラッドガルドに発見されてしまったのである。
*
翌日。
どこか悔しげな表情をした瑠璃が、袋をひっさげて扉の中に入ってきた。
「しまったなぁ……」
瑠璃はテーブルに袋を置きつつぼやく。
お茶会部屋ではなく、まさか自室に置いたものを狙われるとは思わなかった。
「放置しておく貴様が悪い」
「そうだね……。今度からは真っ先に隠すようにするね」
「……」
反省の色も、逆に馬鹿にするような色もなく、むしろなにか思案するように視線を逸らすブラッドガルド。
「でもブラッド君もよく気付いたよね、あれで」
最後に自分の部屋からトレイを運んできながら言う瑠璃。紅茶のティーバックが入ったカップが二つと、空の小皿が二つ乗せられている。
「ふん。パッケージにあんなに堂々と酒のようなものが写っていれば誰でもわかる」
「だからなんで私に聞かないで食べるの!?」
さすがにそこはツッコミを入れてしまう。
確かにパッケージには、ラムレーズンが使われているだけあって、ラム酒の写真が使われていた。しかしそれだってグラスに入れたものだし、本当によく気が付いたな、というところだ。
むしろチョコレートだから、という理由で食べてから気が付いた可能性のほうが高い。ラム酒はお菓子にもよく使われるし、いずれバレていた可能性は高い。
そもそもブラッドガルドは前々から酒に興味を示していた。自分の世界にも当然あるが、やはり現代との違いが気になるのだろう。ただ自分が動けないのと、瑠璃が買えないので口にしていなかっただけだ。
そして、チョコレートは好物。
これはもう、最強のお菓子を見つけられてしまったとしか言えない。多分。
――そんなんだから女神様に火を取られちゃったんじゃ……?
思ったがさすがに言わなかった。睨まれるだけで何も得が無いからである。
「でもだからって、なんでボンボンオンリーの食べ比べになっちゃったかなあ」
物によっては冬季限定商品である。夏だとボンボンはあまり見かけない。くわえて、バレンタイン直後で色々と安かったのも幸いした。
「ボンボン?」
「ああ、中にお酒の入ってるチョコレートのこと。チョコレート・ボンボン。……っていっても日本だけね」
「ほう」
ブラッドガルドの目が怪しく光る。
「日本だと『ボンボン』っていうとお酒入りチョコのイメージなんだけどね。本来のチョコレート・ボンボンとか、ボンボン・ド・ショコラっていうのは、基本的には中身が入った一口サイズのチョコレートのこと全般をいうんだよ。そもそも『ボンボン』の本来の意味は『飴』みたいだし」
言いながらがさがさと袋の中から取りだしたのは、昨日と同じ色の箱だ。それと小さな紙皿。お茶の準備を整えると、瑠璃は平らな長方形の箱を開けた。中から銀紙に包まれたチョコレートを取り出すと、ぱきりと割った。ちょうど三つに分かれるそれを、次々に紙皿の上に乗せていく。
それからもうひとつ箱を開けると、今度は割らないまま紙皿に乗せていった。
「前に……ほら、プラリネって食べたじゃん? ああいうのをチョコで覆ったのがチョコレートボンボン」
二箱分のチョコレートを出してしまうと、瑠璃はそのうちの割ったひとつを手に取った。
ぱきりと音を立てて、チョコレートを歯で割る。
チョコレートの甘みの向こうに、生チョコに包まれた異質な食感がある。よく浸かった小さなレーズンが引きずり出されると、特有のほろ苦さがほんの僅かに広がる。カラメルを更に煮詰めたような、ラム酒の風味が舌の上を転がった。チョコレートの甘さと絡まって、溶けていく。
――アイスもいいけど、これはこれで……。
瑠璃は本当はチョコレートに入ったラムレーズンより、アイスクリームのフレーバーのほうが好みだ。というのも、子供の頃に食べたラムレーズンは、やはり子供の舌には苦かったし、独特の香りは強く感じられてしまった。
いまはそんなことはない。ただ成長してからラムレーズン・アイスクリームを食べたとき、必要以上に感動したのは確かだ。ミルクの味がラムレーズンの苦味を緩和してくれている、とまで思ってしまったのだ。だからラムレーズンが平気になったいまでも、ラムレーズン・アイスクリームのほうが好みなのである。
――次はラムレーズンアイスにしようかな……。
などと瑠璃が思っていると。
「……まあまあだな」
聞いてもいないのにそう言ったブラッドガルドに、瑠璃は思わず笑顔を隠すのに必死になった。口元がどうしても歪んでしまう。気が付かれないうちに下を向き、スマホを手に取った。
「うーん、でもさぁ、ラムレーズンが具体的に出来たのがいつなのかって、どうも調べてもはっきりしないんだよ」
瑠璃がそう言って首を傾げるまでの間に、ブラッドガルドは三枚目のチョコレートに手をかけようとしていた。
「レーズンは当然昔からあるみたいだけどね! ブラッド君とこには無いの? 干しぶどう」
「あるにはあるだろうな」
「カイン君のほうが詳しいかな。こっちだとそのまま食べたりもするけど、パン生地に入れたりシリアルに入ってたりするね。多分似たような感じかな」
瑠璃はスマホをタップしつつ次の情報を探す。
「木になったまま自然に乾燥したぶどうを誰かが発見したのがはじまりって言われてるね。実際に乾燥ブドウが見つかってるのは紀元前十三世紀くらいで、ギリシャやイランのあたりで栽培されてたらしいよ。最初の大量生産地がギリシャやローマらしいから、それに近いのも理由だってさ」
「……なら、いまもそのあたりで作っているのか?」
「ううん。紆余曲折あって、日本でいま八割を占めてるのはカリフォルニアレーズンだね」
十字軍によって持ち帰られたレーズンは、需要が増えた。イギリスでもよく食されるようになり、十六世紀頃には栽培が試みられたが、気候の問題はつきまとった。
カリフォルニアでレーズンが作られるようになったのは、スペインの植民地になったメキシコでワイン用ぶどうの栽培が始まったのに端を発する。メキシコが返還された頃にぶどう栽培に最適な土地を求めて北へ移動し、見つかったのがサンホアキン・バレーという乾燥地帯だ。天日干しするレーズンの生産に最適で、シエラネバダ山脈からの豊富な水もあった。
大収穫を夢見て多くの人が移民してきた中で、一八七六年にトンプソンという移民が種なしブドウを品評会に出品した。その革命がもたらしたのが、今日の種なしのレーズンだ。
「……レーズンオンリーで食べたくなってきたなあ」
「……おい」
「わかってるよ。で、まあそのレーズンをラム酒に漬けたのがラムレーズンなんだけど」
ブラッドガルドが静かに頷くのを見つつ、瑠璃はスマホの画面をタップする。
「ラム酒っていうと海賊のイメージなんだよねー。カリブの海賊」
「海賊?」
「ほら、お酒って腐らないから」
「……それもそうだな」
長い航海に出る海賊たちは、食糧難に陥ることもあったという。中でも水分、つまり水も重要だ。水も腐る。だが、酒は腐らない。少なくとも腐るのが遅い。
「そもそもラム酒は何かっていうと、サトウキビから作る蒸留酒みたいね」
「サトウキビ……? 砂糖から作るのか?」
「うん。正確には砂糖を作るときに副産物としてできる廃糖蜜とか、サトウキビの絞り汁を使って作るんだよ。日本じゃ『廃』の文字が嫌がられるからモラセスって呼んだりしてるみたいだけど」
「糖蜜……。シロップとどう違うんだ」
「黒褐色の液体で単に糖分以外も入ってるってだけだね。一応、そのまま食事に入れるのが糖蜜、食品加工で入ってたりラム酒に使う糖蜜が廃糖蜜ってことになってるよ」
瑠璃はそう言いつつスマホをスクロールする。
「具体的にどのあたりで生産されたのかはわかんないけど、カリブの海賊たちが飲むものといえばラム、っていうのはこういうイメージからも来てるのかも」
そう前置きしてから続けた。
「ラム酒が造られるようになったのは、砂糖の大量生産が可能になったあたりかな。コロンブス以降に、ヨーロッパの人々がカリブ海の島々にサトウキビを持ち込んだんだよ。
実際ラムの語源も、バルバドス島っていうカリブ海の原住民が酔ってるのを見た人が、『rumbullion (興奮)』って言ったことから名付けたって話があるし」
「ほう」
「気候もあってたから、たちまち砂糖の一大生産地になった。これは三角貿易の影響も強いみたいね」
「三角貿易?」
「簡単に言えば、アメリカ・アフリカ・イギリスを繋いだ貿易のことだよ。主に砂糖・武器・奴隷のやりとりがされてたんだ。
砂糖はカリブ海からイギリスに持ち込まれてたけど、作られたモラセスはアメリカでラムを製造して、アフリカに運んで黒人奴隷の購入代金にするって感じみたい。奴隷たちへの栄養補給や従わせる為のものでもあったし、壊血病の特効薬ともされてたみたい。イギリスでもラムを娯楽のために海兵に支給したみたいだから、強い海の男が飲むイメージになってったのかも」
「なら、ラムはその土地の地酒のようなものか?」
「や、もうさすがにそんなことはなくてね。もう南極以外ではどこでも作ってるみたいな感じかな……。だから製法とか、色や風味による違いも種類があるみたいだね。カクテルによっても色指定されてることもあるんだって」
「……」
ブラッドガルドはやや満足げに頷いた。
「お菓子に使われてるのはダーク・ラムっていう濃い褐色のやつだと思う。着色料が入ってるやつもあるみたいだけど、風味や香味が強いからお菓子に使っても負けないんじゃないかな」
「ふむ」
ブラッドガルドの手が最後の一枚を手に取り、口に運んだ。
「……って、もう無いし!」
気が付けば瑠璃の分まで無くなっている。
「しかし、それがいつラムレーズンという形になったかはわからん、と」
「そうなんだよねー。調べた限りじゃわかんなかったよ。もしかしたらネットだけじゃなくて、図書館とかに行けばわかるかもなんだけど。でもやっぱりラムが出来た後だから、それと前後してるんじゃないかな」
瑠璃は首を傾げた。
「そもそもラムレーズンが入ったお菓子って多いからね。ケーキに入れるのもそうだし、有名なのはバターサンドかな。バタークリームにラムレーズンを入れて、クッキーではさんだやつ。結構美味しいんだよ~」
「……貴様……」
ブラッドガルドが射抜くような目で見てくる。事情を知らない人間なら倒れてもおかしくないような深淵からの視線を、瑠璃は無視した。
「今度アイスクリームのラムレーズンとかも持ってくるからそれでなんとか」
「……」
どうやら許されたらしい。
「しかしもう一度聞くが、何故貴様は酒を仕入れられんのだ」
「私が未成年だからだよ」
単純明快で唯一の答えだ。
「製菓用のラムレーズンだったら買えるかもだけど」
「買えるではないか」
不愉快そうな表情でブラッドガルドは言う。
不愉快というより不服そうだ。
「……買えるではないか」
「なんでもう一回言ったの?」
ここまで待たせた罪は相当重いらしい。
だが瑠璃は未成年である。当然まだ酒は手に入らない。
「それにラム酒も製菓用はあるけど、普通のお酒を製菓用の瓶に入れてるだけだから単体だと買えないよ」
「……なら、ボンボンはどうなんだ。貴様も食っているではないか」
「買えないのは飲料だからね。お菓子は飲料じゃないから法律違反じゃないんだよ。入ってることには違いがないから、弱い人とか子供は気をつける必要があるけど」
「……」
ブラッドガルドは何も言わなかった。表情はぴくりとも動かなかったが、わけがわからない――というように無言だった。
「……やはり貴様の世界を掌握するしか無いようだな……」
「とりあえずこれあげるからやめといて」
瑠璃は買ってきたラムレーズンチョコレートの箱を三つ出しておいた。
ひとまず今日のところは、世界は許されたようである。
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