50話 マフィンを食べよう

「――それでは、オペを始めます」


 キッチンの前で、ほぼ使い古されたようなことを言う瑠璃。

 隣では、影蛇が無表情のまま見ていた。


 特にこれといった反応も無いため、瑠璃はそっとヨナルを見上げる。


「まあさすがにわかんないよねヨナル君」


 そこにいるのが友人なら――ネタが通じる人間なら、という意味で――ともかく、異世界の使い魔の影蛇では瑠璃が面白いだけで終わりだ。

 とはいえ、瑠璃がこれからするのはオペではなく、普通に菓子作りである。


「じゃあ、まあ今日の議題なんですけど」


 今度は突然敬語になった瑠璃にも、ヨナルは無表情のまま付き合った。


「ブラッド君が私が作ろうとするとことごとく拒否するので、嫌がらせに調理実習で習ったマフィンを持っていこうと思います!」


 だからこんな日曜の昼間から、キッチンに立っているのだ。


「って言っても、材料はホットケーキミックスだけどね」


 材料の他は、百均のマフィンカップがあれば充分だ。

 百均でもマフィンミックスの粉は売っていたが、今回はホットケーキミックスを使うことにした。これだけでいろいろと出来るのは瑠璃にはありがたい限りだ。

 それからスマホで料理レシピサイトを開くと、ホットケーキミックスでのマフィンの作り方を見る。


「えーと、一袋が百五十グラムだから……これかな」


 該当のレシピを探りつつ、今度はグラム数や卵の個数の確認に入る。


「バターはレンジでもいいよね」


 買ってきた直後とはいえ、もう少しとろけやすいほうがいい。

 瑠璃が買ってきたのは、それぞれ十グラムずつ個包装されたバターだ。いくつも使うなら、わざわざ個包装されたものでなくても良かった気がする、と後から思う。

 それにマーガリンでも良かったのなら、次回からそれでもいいだろう。

 調理実習ではバターを使ったから、そのまま何も考えずにバターを買ってしまっただけなのだが。


 瑠璃はとりあえず一つだけ手に取り、レンジの中に入れてみる。二十秒にセットしてスタートを押した。

 その次の瞬間、ボン、と音がして銀紙に火がつき、瑠璃は顔をヒクつかせた。即刻中止ボタンを押して、レンジを止める。


「……。……いまのは見なかったことにしよう! な!」


 ヨナルが無表情のまま物凄い目で見てきたが、今のは内緒にしておくことにした。


「……次にいこう、次!」


 バターはちゃんと器に入れ替えてからレンチンすることにして、あとは牛乳や中に入れるものを用意する。


「えーと、卵を入れてほぐして、牛乳と砂糖を入れて泡立て器で……」


 ヨナルが口でぱくりとスマホをくわえて固定し、瑠璃はボウルと格闘しつつ、スマホとにらめっこする。

 とにかくすべての材料を加えて混ぜるだけなのだが、気をつけておかないとバターと卵が分離してしまう。


「なんか友達とかはミキサーで混ぜて一気にやるみたいだけどっ……!」


 しかし家にはミキサーも自動の泡立て器もないので、自分で混ぜるしかない。ぐるぐるとボウルの中身をかき混ぜつつ、ホットケーキミックスを少しずつ加えながら混ぜ合わせていく。


「ぐぬぬぬ……!」


 そんな格闘をしばらく続けたあと、ふう、と息を吐きながらボウルの中身を混ぜきった。それから忘れてはならないのが、チョコチップだ。

 できあがったタネにチョコチップをばらばらと落とすと、ざっくりと混ぜてかき混ぜていく。それから用意したカップに生地をひとつひとつ丁寧に入れていくと、やがてそれなりの形のものができあがった。


「あとはこれで焼くだけ」


 こぼれて気が付かなかったチョコチップをひとつぶ、ヨナルの口の中に入れてやる代わりに、スマホを受け取った。

 並べてレンジの中に突っ込むと、スタートを押して、あとはもう焼くに任せるばかりになった。


「よし、ちょっと休憩しよっか」


 瑠璃はそう言うと、キッチンから出て居間のソファへと向かった。


「くあーっ、意外に疲れた!」


 ソファにごろっと転がる。

 ブラッドガルドがいるとすぐにソファを占領されるが、ヨナルならそこはわきまえてくれるので、ソファを独り占めできる。

 瑠璃は休憩代わりにスマホの画面をタップした。


「そして休憩と見せかけて抜かりはないのだ」


 ふふ……、と不適に笑う瑠璃。


「とりあえず予習でもしておこうね」


 ややあきれたようにも見えるヨナルの頭を撫でると、瑠璃は目線をスマホに向けた。


 そもそもマフィンには、二種類ある。

 イングリッシュマフィンと、アメリカンマフィンだ。


 瑠璃が作ったのはアメリカンマフィンだ。

 カップ型で作るこのパンは、本来はベーキングパウダーで膨らませたもので、アメリカではポピュラーなお菓子のひとつだ。第二次世界大戦後に大量生産用に考案されたものらしく、チョコレートやナッツ類などを入れて作るものである。

 同じくカップで作るお菓子にカップケーキ――スポンジケーキやバターケーキの総称――があるが、あくまでケーキでありふんわりとした食感のカップケーキと、反対にパンに分類されてどっしりとした食感であるマフィンはそれなりに分けられているらしい。

 いずれにせよどちらもポピュラーなお菓子であることには変わりはないのだが。


「あー……なるほど。ハロウィンとかでデコられてるやつは一応カップケーキって分類なんだね?」


 そのマフィンの由来は十八世紀のイギリスにまで遡る。

 十九世紀という説もあるが、とにかくその頃だということだ。

 いまでもイングリッシュマフィンとして存在するそれは、アメリカのものとは少し違う。朝食用のパンとして大手メーカーが売り出しているものを見れば一目瞭然だ。

 カップケーキ型のアメリカンタイプとは、一線を画している。

 こちらのイングリッシュマフィンは生地の表面にコーンミールやコーングリッツをまぶして焼いた円形のパンだ。平べったく、掌サイズの大きさだ。


 ヨナルがどういうことかというように覗き込んできたので、瑠璃は軽く首を傾げた。


「私も単にマフィンっていうと、カップケーキ型のほうを想像するかな。むしろイングリッシュマフィンのほうはちゃんとそう表記してある感じ」


 ぷにぷにとその体を軽く撫でてから、続きをスクロールする。


 名前の由来のほうも二種類あり、女性用の手袋であったマフに由来するものがひとつだ。寒い時期に、女性達が焼きたてのこのパンで手を温めたからという説だ。

 もうひとつは、フランス語で「やわらかいパン」という意味の言葉が転じたという説。

 スマホで見てみると大手メーカーでは前者のほうを採用していたようだが、確かに由来として人間味溢れるほうが好感を呼ぶだろう。

 そんな由来で生まれたマフィンは、時代が進みヴィクトリア朝時代になって広がっていった。マフィン売りが登場し、人々の楽しみとしてもてはやされたのだ。


「……ん、まあこんなとこかな?」


 検索で他のサイトやSNSの情報も見ているうちに、レンジが鳴った。瑠璃は顔をあげ、スマホをソファに置くと、キッチンへと舞い戻った。

 ひょい、とレンジの前に立つと、明かりが消えて真っ暗になった窓が見える。

 キッチンはバターの香りがふわりと漂っていて、鼻をくすぐっていく。


「めっちゃいい匂いしない?」


 そう言いつつ、取っ手に指をかける。

 がちゃり、と開ける。


「……おおっ!?」


 声をあげてから、振り返ってミトンをつける。焼き上がったマフィンを取り出すと、瑠璃は興奮気味にテーブルに置いた。


「これは……いいんじゃない、いいんじゃない!?」


 興奮気味に言うと、ヨナルを見上げる。

 

「これはブラッド君も私の作だって気付かないでしょ~!」


 にやつきながら浸る瑠璃。

 百均のマフィンカップさまさまだ。どこのともつかないがオシャレなデザインに溢れているだけある。


「ってか、……なんで拒否るんだろうね? 私の作るお菓子」


 純粋な疑問として尋ねる瑠璃。

 ヨナルはそっと視線を外した。主の複雑な心境はそれとなく理解できるからだ。そりゃあ最初のうちは、迷宮の主である自分が、こんな無能が自ら捧げるものに頼るのが我慢ならない――という僅かばかりのプライドだってあった。

 しかしいまは。

 つまるところ、単純に瑠璃個人を褒めたくないし、認めたくないだけなのだ。逆に言えばそれは、変な強情さでもある。


「……うーん。さすがにわかんないか。別に毒とか入れるわけじゃないのにねえ」


 別に毒を心配しているわけじゃない。むしろ上等である。

 だがヨナルは主のプライドのためにだんまりを決め込んだ。


「じゃあちょっと……、一口」


 そのうちの一つを手に取ると、少しだけ割った。

 さらにそれを二つに割り、自分の口に入れてから、ヨナルの口にも放り込んだ。


「……ん! めっちゃ美味しい!」


 ヨナルがごくんと呑み込んでから、頭を縦に振った。


「よしよし。あとはこれをラッピングして、ブラッド君とこ行こう!」


 にこやかに笑う瑠璃。


「ね! これで喜ぶよね!」


 ヨナルは何も言わなかったし、そのための言葉も持たなかった。

 だが、自らの主が、この何もない人間を手元に置いておく理由を、なんとなく察していた。


 瑠璃はマフィンを冷ましつつ、これまた百均で買ったラッピング用の箱を持ってくると、包装を破って組み立てはじめた。







 ちなみにそれから。

 ブラッドガルドは一口食べた瞬間に、瑠璃が何か聞く前に、ぴくりと眉を動かした。


 目線が瑠璃から明確に外れていき、何か確かめるような、言葉を選ぶような間があってから。


「――……いまいちだな、貴様」

「は!?」


 無表情のまま断言して瑠璃を若干キレさせたが、何故瑠璃の作ったものだとわかったのかは謎に包まれている――。

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