49話 生八つ橋を食べよう
京都――。
それは千年にわたって、日本の首都であり続けた地である。
日本人の、あるいは海外の人間にとっても日本を象徴する場所であり、多くの文化財や神社仏閣が残る、日本人の原点とも言える場所――。
そのとある旅館では、女将を含めた従業員の数名が観光バスを出迎えていた。修学旅行生をクラス毎に乗せたバスは、全部で五台。
疲れを感じさせぬまま、わいわいと出てくる高校生へ声をかける。高校生たちの反応は様々だったが、挨拶を返してくれる者もいた。そんななか、女将は少しだけ目を丸くしたが、彼女の表情はにこやかなまま崩れなかった。
そういうわけで、奈良と京都を回る二泊三日の弾丸ツアーこと修学旅行は、二日目を迎えていた。時計の針は四時を少し過ぎた頃。ロビーにクラス毎に並び、注意事項を受ける。
「それじゃあ、カギを受け取ったら部屋まで行くこと。班長は先生たちの部屋で会議。それ以外は夕飯までは自由時間だが、旅館の外にはでないこと! 庭に出る時は他のお客さんのご迷惑にならないように!」
はぁい、と声が返った。
班長がカギを取りに行っている間、各々がロビーで待機ということになった。瑠璃たちもロビーに置かれたソファを陣取ったり、日本庭園風の中庭は出られないのかと喋ったりとそわそわしていた。
「……なんか遅いね?」
昨日泊まった旅館では、すぐに部屋の鍵を渡されて移動だった。ところがなにかトラブルがあったのか、なかなか先生たちの号令もない。班長たちも受付の近くで固まっているが、なかなかカギを受け取れないようだ。わけを聞きに、先生に近寄っている生徒もいる。
なんだろう、と瑠璃が歩きだそうとしたその時。
「うわっ!?」
ロビーに悲鳴が響いた。
周りにいた同級生たちが一斉に振り返る。
瑠璃は頭からお茶のようなものをかぶり、近くには慌てる仲居さんがいた。
どうやらお互いが視線を逸らした瞬間に、仲居さんとぶつかって頭から液体をかぶってしまったらしい。修学旅行組以外の客に持ってきたものだろう。
「わっ、瑠璃! 大丈夫!?」
「どうしたの、ぶつかったの?」
「も、申し訳ありませんお客様!」
「あらあらあら! 大丈夫でしたか!?」
声をかけつつ、駆け寄ってきた女将が頭を下げた。
「大丈夫やった? せっかくの制服、濡らしてしもたねえ」
「だ、大丈夫です! 一応、撥水だから大丈夫かと……」
「でも、染みになってしもたら大変でしょ。良かったら、こちらで回収してお洗濯させていただきます」
「え、ええ? 大丈夫ですよこれぐらい……!」
瑠璃が慌てて言うも、
「どうした、大丈夫か?」
担任もやってきて、状況を見る。
「はあ、重ね重ねこちらの不手際でして、すいません」
女将が先んじて申し訳なさそうに頭を下げる。
「ああいえ、それはしょうがないことですし……」
「何かあったの?」
瑠璃は先生を見る。
「ん? ああ。どうも部屋が少し変更になるみたいでな。話し合ってたところだ」
「緊急で外国のお客さんが入ってしもて。もしよろしければ、この生徒さんのグループにそのお部屋に入ってもらうっていうのはどうです? 他の生徒さんたち用の部屋より少し大きいお部屋やから」
「え? ええっ?」
瑠璃は思わず変な声をあげてしまった。
「はあ……まあ……」
先生たちはその提案を、ややぽかんとした顔で聞いていた。
それに関しては瑠璃も同じだった。どちらかというと先生たちよりも当事者であるにも関わらずぽかんと見ているしかなかった。
だが瑠璃と同じ部屋の友人たちは、不幸な事故とはいえ、少し大きな部屋に入れるというだけで心が躍っている。周囲から、ほんの少しだけ「いいな」という目線で見られる。
「こちらの不手際が続いてしもうて、ほんますいません。せめてお部屋だけでもね」
女将がぺこぺこと頭を下げるので、先生たちも逆に申し訳なくなったのか、恐縮しきりだ。
瑠璃からすれば、なんだかよくわからないうちに大きな部屋に移った、ということになるのだろうか。
「それじゃあ、萩野たちのグループはちょっと離れてるけど大きな部屋になるから……」
先生のその一言で、そういうことになった。
瑠璃たちが件の部屋に向かい、ドアを開けた先の玄関口を上がる。障子の向こうをのぞくと、思わず声をあげた。
「おお……」
確かに広い。ただでさえ五、六人が泊まれる部屋なので広いのだが、その和室の奥側にもうひとつ洋間があり、そこがデッキテラスと兼用になっていた。だが窓も充分すぎるほどで、しかも長ソファが二つとガラステーブルまで揃っている。壁側には鏡のついたテーブルと椅子が別で置いてあるほどで、この洋間だけでも一人二人なら充分だ。
興奮した女子高生たちがきゃあきゃあいいながら部屋の中を探索し始める。
「広っ! 広くないこれ!?」
「すごいよ! ここのトイレもバリアフリーだ! ドアが横に動くやつ!」
「あっしかもトイレまで広い!! お風呂と別なのに!」
「えー、だって昨日泊まった旅館あれじゃん、普通に和室だけだったのに!
「嘘でしょ、なんでお茶かかっただけでこんな部屋に!」
瑠璃も興奮しながら言う。
「いや~、悪運ですなあ」
「瑠璃たまにそういうとこあるよね」
「あるかなあ!? どうだろ!?」
わいわいと騒いでいたところで、一人が言った。
「広いんだけどさあ。なんかちょっと暗くない?」
「あ、それはわかる」
大部屋だからだろうか。窓も広くとってあるはずなのに、どことなくひんやりとした空気に包まれている。だが、興奮した女子高生たちにとってそんなことは大したことじゃない。
洋間側の窓にくっついて外を見ると、下には中庭が見えた。一応ここは五階ということになっているが、階数的には四階だ。上から見下ろす中庭も、京都らしい和の風情があって物珍しい。右手側を見ると。曲がり角の向こう側の客室の窓が並んでいた。そこから同じように、クラスメイトや同級生が外を見ている。こっちに気が付いて手を振っているのも見える。
瑠璃も後ろから覗こうとすると、お腹のあたりで軽く衣服を引っ張られるのを感じた。
「ん?」
制服の影から伸びた黒い胴体が見える。省エネ型のヨナルが、瑠璃の制服を引っ張っていた。物言いたげな顔で、ちろちろと黒い舌を出している。
こちらの世界にいるときはあまり出てこないのに珍しい。実際、この旅行でも出てきたのははじめてだ。だが、ここで話しかけることはできない。
「ん? ……ん?」
小さく尋ねるようにしつつ、引っ張られた方へと下がる。
要領を得ないヨナルの様子に困惑していると、テーブルの上に置かれたサービスの生八つ橋が目に入った。
――も、もしかしてこれ……?
「とりあえずさあ!」
友人がいきなり振り返ると、瑠璃はサッとヨナルを隠すように制服を下へ引っ張った。
「着替えちゃおうよ。瑠璃の制服も受け取りに来てくれるんんでしょ?」
「そ、そうだね」
「あたし売店行きたい!」
「えっ、生八つ橋が先じゃないの」
「売店行くなら今くらいしかなさそうだし」
「あ、そっか」
ひとまず着替えを済ませると、瑠璃はやってきた仲居さんに制服を渡した。明日の朝には返しに来るとのことで、お礼を言って見送った。
二人ほど部屋に残ると言ったので、瑠璃はそっと生八つ橋をひとつ手に取ってから部屋を出た。それからすぐには売店に行かず、人気の無いところを探した。
迷ったふりをして彷徨い、たどり着いたのは中庭の見えるテラスだった。
ソファへと座り込み、持ってきた生八つ橋を取り出す。
「はい」
半分にして、膝の上にいる省エネ型ヨナルに差し出す。
ヨナルは変わらず、体をゆらゆらと揺らしている。何か言いたげだ。微妙な時間が過ぎる。違うのかな、と瑠璃がもう一度生八つ橋の半分を差し出す。ヨナルはとりあえずそれはそれというように口を開き、生八つ橋を呑み込み始めた。
やっぱり生八つ橋じゃないかと思いながら、瑠璃はずるずると生八つ橋が引き取られていくのを見ていた。
蛇に生八つ橋というのは普通だったら考えられないが、そもそもヨナルはただの動物ではない。異世界の迷宮の主の使い魔である。ひとまず瑠璃も残り半分を口にしながら、夕暮れ時の景色を眺めた。
「ヨナル君もさあ、お菓子の由来とか好き?」
ぷにぷにとその体をつつく。
「なんかこう……お菓子とか食べてる時に由来とか気になるの、癖になってきてるんだよね……。絶対ヨナル君の主のせいだよ」
ヨナルは一瞬瑠璃を見上げてから、喉の奥に消えかかっている生八つ橋を呑み込む。
「チョコレートの生八つ橋もあるみたいだから、それがいいかな」
うりうり、と指先でヨナルの頭を撫でる。
するとそこへ、ぱたぱたと足音が聞こえた。
ヨナルは人の気配を察知すると、膝の上から溶けるように影の中へと戻っていく。瑠璃が振り向くと、そこには女将が立っていた。
「こんにちは。ええと、萩野さん?」
「女将さん? こ、こんにちは……」
「さっきはごめんなさいねえ。おひとり?」
女将はそれだけ言うと、ひと呼吸置いてから続けた。
「生八つ橋、お好き?」
「えっ? ……あ、は、はいっ!」
自分が生八つ橋を持っているのに気付いて、慌ててしまった。よく考えたらこんなところでわざわざ一人で生八つ橋を食べている時点で、なんだか恥ずかしくなってくる。人のいないところを選んだだけなのだが。
女将は失礼して、と隣に座った。
なんだろう、と思う前に、女将が口を開く。
「知ってはる? 生八つ橋って、八つ橋っていうお菓子が元になってるんよ」
「えっ。そうなんですか?」
条件反射のように尋ねてしまう。
ブラッドガルドにどうせ聞かれるし、ここで何か面白い話が聞ければいい、という程度の感覚だった。
「そうそう。八つ橋っていうのはね、もういわずと知れた京銘菓のお菓子なんやけどね」
女将は頷きながら言う。
「こういう歪曲した形の……ええと、長い瓦みたいな、橋のような形って言ってわかるかしらねえ」
「えーっと……? ……見てみていいですか?」
一応許可は取り、スマホを手に取る。
「あらまあ。若い人はすぐ調べられて、便利になったわねえ」
女将はころころと笑う。
「わからないことを聞いたり調べたりはいいことね」
お世辞かどうかはさておき、瑠璃は少し顔を赤くする。
出てきたのは、大きく歪曲した板のような形のお菓子だった。確かに長い瓦と言われればそうだ。
「『伊勢物語』の第九段に出てくるその八橋って橋が、お菓子の名前の由来や、っていう説もあるんやけどね。どう見ても形が違うんよ」
「え? そうなんですか? 橋っぽくも見えるけど……」
「そっちは幅の狭い普通の板をジグザグに並べて作った橋のことやね」
「えっ。だって橋ってついてるからてっきり橋だとばかり……!」
「だって、橋の形、そんなんやったら渡れへんやろ?」
「……そうかも」
そう言われると納得してしまう。これ以上無いほどの説得力だ。
「萩野さんが考えとる橋は、虹みたいな形の橋と違うん?」
「……あっ、たぶんそれです!」
ふふふ、と女将は笑う。
「それで有名なんがね、貞享元年、一六八四年に出来た説なんよ。徳川綱吉公、生類憐れみの令を出した人の時代なんやけど」
「あ、知ってます」
「この年に、八橋検校(やつはしけんぎょう)ってお人が亡くなってね。この人は筑紫琴っていうお琴を学んで、八橋流って流派を創ったお人」
「琴の先生……?」
「そうそう、そんなもんやね。お正月とかに『六段の調』とか聞かない? お琴に興味なかったらそんなもんかなあ」
「うっ。あ、あとで調べておきます……」
瑠璃は呻いたが、知らないものは知らないので仕方が無い。
「それで、話を戻すとね。黒谷にある金戒光明寺ってお寺があるんやけど、その脇寺の常光院ってところに葬られた。お墓ができたあとは検校を慕った人々がたくさん参拝に訪れて、その人らは聖護院の森で休憩しとったんよ」
「あ……聖護院!?」
聞いたことがある。
というより、聖護院の生八つ橋は有名だ。
「で、その人らのためにお茶請けに出されてたのが始まりやって言われてるんよ。根拠が無いっていう人もおるんやけど、橋の形よりお琴の形って言われたほうが、まあきっとそうやろなあ、って思うんは確かやね」
「じゃあ、本当のところはわからない……?」
「まあでも、ここだけの話。八つ橋の業者さんの団体が、橋説と楽器説に分かれててなあ。どこそこの会社は宗旨替えしたとか、どこそこが本家本元だとかで、いろいろやっとるんよ」
「あー……」
本家争いもありがちなことだ。
瑠璃はそれ以上深くつっこむのはやめておいた。
「人気になった理由はわかっとるんやけどね。明治の頃に、七条駅ゆうて、いまの京都駅で販売されて人気になったんよ。それから生八つ橋が考案されたけど、今は生八つ橋のほうが人気やなあ」
「へえー」
瑠璃は感心したように頷いた。
ちょうどそのとき、向こうのほうから女将さん、と呼ぶ声が聞こえた。
「そろそろ行かないと。萩野さんもゆっくりしといて」
「あ、いえ。私もそろそろ売店に行こうかなって」
「あらそう。ごゆっくり」
「はい。ありがとうございました!」
瑠璃は笑って、立ち上がって反対方向に歩き出した。
「はい。あんじょうよろしゅう」
女将は意味ありげに笑うと、頭を下げた。
その夜、瑠璃たちは夕食を食べ終えると、部屋に戻った。班長である一人が会議のために部屋を出て行くと、一人、また一人と大部屋に押しかけてきた。
それぞれ差し入れのお菓子を持ってきているとことを見ると、こっそりと泊まるつもりなのかもしれなかった。だが、入った瞬間に顔を顰めたり、広さという以外で何かおかしいとあたりを見回す者も多かった。
「なんかこの部屋ちょっとおかしくない?」
「せっかくの大部屋なのに、なんか暗い気がする」
「変なところに額縁とか飾ってあるしさあ」
封筒のようなものが落ちてきた。なんだろうと拾って中身を見てみると、あきらかに神社やお寺か、それか漫画の中でしか見た事がないようなお札があらわれた。
「……」
背の高いクラスメイトが何も言わず、そっと戻す。
妙な沈黙が流れた。
ドラマや映画だと、こういう時「わー気持ち悪い」とか「やだー」とかなりそうなものだ。だが、どういうわけかみんな黙っていた。
「まあほら、京都って信心深いから」
「まあね」
見なかったことにして、持ち寄ったお菓子に手を付け始める。持ってきたトランプやカードゲームに興じるうちにそんなことも忘れてしまった。
特にブラッドガルドと一時期カードゲームに嵌まった瑠璃の持ってきたものは、周りも見た事がなく、次々に手をつけて盛り上がった。
だがそれでも、同じクラスの友人たちは来た時と同じように、一人、また一人と自分たちの部屋へと帰っていった。
確かに雰囲気が暗い。
夕方には気が付かなかったが、電気をつけてもどことなく空気が重いのだ。それになんだか寒い。友人たちの一人は、「寒いから」と言って押し入れの中から予備の毛布を出してくる始末。消灯の時間が近づくと、テーブルの上に出しっぱなしのお菓子をそのままに、さっさと布団の中に潜り込んだ。
深夜二時をまわった頃のことだ。
瑠璃は妙な息苦しさに、寝返りをうった。
一緒に寝ている子たちも、寝苦しいのか小さく呻く声が聞こえる。
そんな部屋の中を、窓の外から覗いている黒い人影があった。
人影は上下逆さまに、べったりと窓に貼り付いている。べたべたと手形をつけながら、ひらひらと揺れるカーテンの隙間から中を覗いていた。やがてそのカーテンの揺れがおさまったかと思いきや、次の瞬間には洋間の天井に貼り付いていた。
トカゲのように天井をずりずりと、和室側まで移動してくる。
人影はひとつだけではなく、みっつだ。
天井から和室で眠る人々をじっと睨めつけると、ぶらんと両手を伸ばした。人というには細長い胴が、すうっと天井から伸びてくる。
首に伸びようとした指先を、別の黒い影が素早く通り抜けて引き千切っていった。
人影たちはゆっくりと顔をあげる。夜闇の影に紛れて、二つの目が光った。蛇眼だ。暗闇から、人すら呑み込みそうなほど巨大な影蛇が、シュウシュウと威嚇音を立てながら姿を現した。人影たちはたじろいだように立ち尽くす。
瑠璃の布団から伸びた巨大な蛇は、影色の鱗をくねらせながらちろちろと舌を出す。無言のまま、じっと人影を睨めつける。
茫洋とした人影の白く抜かれた目のような部分が見開かれ、そこに裏側から眼球がぎょろりとひっくり返ってきた。それぞれの四白眼が影蛇を見据える。
だが、しばし三つの人影と睨みあった影蛇は、あぎとを開きながら体を伸ばした。人影のうちのひとつがあっという間に頭から呑み込まれ、突き立てられた牙の奥へと流し込まれた。ごぐんと呑み込みながら後ろを振り返る。
じわりと散っていこうとする人影たちを再び威嚇すると、巨大なあぎとを開いた。
「……んうう?」
しばらくして、瑠璃がぼんやりと眼を覚ました。布団の中に、心地良いぷにぷにした感触がある。
「……ん」
覚えのある感触。瑠璃はその感触が伸びている先を見た。
先にある頭は、テーブルに置かれた小さな箱の中に頭を突っ込んで、丸いものを呑み込んでいた。その箱――アーモンドチョコレートの箱を空っぽにして、満足げに振り返ったヨナルと眼があった。
瑠璃が寝ぼけた顔で何も言わずにいると、悪戯を見つかった子供のように、ヨナルはすーっと器用に布団の中に後退しはじめた。まるで何事も無かったと言わんばかりに、ゆっくりと。それだけの図体が布団の中に吸い込まれているのに、布団の中の体積はまったく変わらない。
「……」
最後に、ばつが悪そうに頭まで布団の中にすっぽりおさまると、瑠璃は軽く頭をぺちりと叩いた。頭を含めた太い胴体が次第に細くなっていくところを、瑠璃は小さく撫でてやって、再び目を閉じた。
布団に入った時よりは、どういうわけかよく眠れそうだった。
抱き枕代わりにされたヨナルはというと、しばらくそこでじっとしてたが、やがて影の中へと徐々に溶けていった。
一方その頃――ブラッドガルドはバキリとチョコチップクッキーをかじっていた。
「……わけのわからんものを……」
ヨナルは独立した使い魔ではあるが、何を口にしたかくらいはわかる。残された人間の意志、残るまでの強固な恨みや呪いのようなもの。だがそれがブラッドガルドにとって何だというのだろう。せいぜい多少は食える魔力と変わらない。
それでもやや不機嫌な主を、ブラッドガルドの背後から伸びた影蛇が数匹、見下ろしていた。バキリ、と再びチョコチップクッキーをかじる姿に、何やら物言いたげにゆらゆらと揺れる。何匹かは互いに顔を見合わせている。
ブラッドガルドはぎろりと後ろへ視線をやった。
「……なんだ貴様ら。握り潰すぞ」
主からの睨みをきかせた一言に、名もなき影蛇たちはしれっと影の中に戻っていく。
小さく鼻を鳴らすと、ブラッドガルドは視線を戻した。
*
「はい。これ昨日、洗濯させて貰った制服です」
関西独特のイントネーション。
瑠璃は朝一で届けられた制服を受け取ると、礼を言った。
「えろうすんませんなあ。これ、お詫びに」
女将は一緒に持ってきた箱を差し出した。包装紙には生八つ橋と書かれている。
「えっ!? 別にいいのに……!?」
「ええんよ、これはお詫びなんやから。他の子ぉには内緒で。な?」
「う……うん。わかりました」
女将のどこか有無を言わせぬ態度に、瑠璃はやや納得いかないものを感じながら受け取ってしまった。
箱を改めて見ると、チョコレート味のようだった。
それからしばらくして、朝食を終えた瑠璃たちは、荷物を持って旅館のロビーに集まっていた。
「ありがとうございました!」
生徒達は先生の合図で女将に礼を言った。
「はい。あんじょうおおきに」
女将はにこやかにバスに乗り込む高校生を見届け、頭を下げて見送った。
旅館の中に戻ると、仲居や清掃の従業員たちが女将のもとに思案顔で近寄ってくる。
「……あの部屋、なんだか明るくなりましたね」
「そうやろ? やっぱり後ろで守ってらっしゃる方が違うわあ」
女将はころころと笑う。
「守護霊が強かったってことなんですよね」
「さあ?」
「……えっ?」
女将の反応に、思わずぽかんとする。
「どっちかいうと悪いもんやったねえ~。でも守っとるんよ~。おもろいやろ?」
従業員たちはやや青ざめる。
どこが面白いというのか、よくわからない。
「たまにあるんよ。強すぎるのかわからんけど、悪いものを追っ払ってくれること」
「え、ええ……?」
「あの子、もう一度来てくれへんかねえ。困ってるところ紹介するのに」
「だ、大丈夫なんですか、それ」
「ほほほ。あんまりやりすぎると、それこそ後ろにいる怖い鬼さんに睨まれてしまうかもしれんわなあ。怖いこわい」
女将は笑いながら歩き去っていく。
その背を見ながら、従業員たちは顔を見合わせる。
いや、怖いのは女将さんのほうだろう――と従業員たちは呆気にとられたのだった。
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