48話 ティラミスを食べよう

 秋晴れの空の下。

 瑠璃たちは体操着で外を走っていた。秋晴れといってもまだ夏の暑さは残っていて、走りの得意じゃない生徒は既にバテ気味だ。


「がんばれ、もうちょっとー!」


 スタート地点でもある陸上競技場に入ると、既にゴールしたクラスメイトの声援が飛んできた。瑠璃はゴール地点に駆け込むと、ふらふらと歩いて友人たちに手を振った。膝から崩れ落ちてばったり倒れ込むと、まだ肩で息をしながら呻いた。


「……もう無理……」

「はーい。瑠璃、おつかれー」


 先にゴールしていた友人たちが、瑠璃の頬に冷たいジュースを押しつける。


「ひやっ!?」

「保護者会からの差し入れだって」

「おー……ありがとう……!」


 ジュースを受け取ると、しばらく額に押しつける。


「なんかもうさあ、この時期にマラソン大会やろうっていうのが間違ってるよね」


 マラソンといっても本当のマラソンと同じ距離走るわけじゃない。近所の陸上競技場から、男子は六キロ、女子は四キロを走るのだ。体育大会の時にも借りる会場でもあるので勝手知ったる場所ではあるのだが、キツいものはキツい。


「何人か倒れてリタイアしたらしいし」

「うわっ。大丈夫なのそれ」


 この暑さでマラソン大会も延期や時期の見直しが叫ばれたのだが、いざという時にすぐ習慣を変えられないのは悪い癖だ。とはいえ今年は既に決まっていたことだからという理由で、来年からということになったわけだが。


「そういえば最近はスイーツマラソンとかあるよね。コース上でスイーツ補給しながら走るっていう」

「走りながら甘いものとか……せめてもうちょっと涼しい時にやってくれればいいけど」

「学校でスイーツマラソンならやるわ」

「いや、お金出さないでしょ」


 どうでもいい会話が繰り返されるのはいつものことだ。


「どっかのマラソン選手の人もティラミス大好きで、大会の後にティラミス協会かなんかの名誉会員になったみたいなニュース無かったっけ」

「なにそれ、知らない」

「走った後にティラミスってー。と思って覚えてた」

「でもあたし、ティラミスだったらイケそう」

「えっ」


 無いでしょ、と思った瑠璃も声をあげる。


「ティラミスも甘くなかったっけ?」

「お店にもよると思うけど……エスプレッソのイメージあるから、甘いけどサッパリしてなかったっけ。ちょうどいいって感じしかない」


 瑠璃は思わず彼女を見る。


「あー……そっか。久々にティラミスもいいかも」

「えっ、嘘、瑠璃ってばこの後ティラミス食べんの?」

「いやこの後は食べないけど」

「ティラミスって私を元気にしてって意味があるんだよね、確か」

「……ほう」


 思わずブラッドガルドのような声をあげて、瑠璃は頭の片隅で売っていそうな場所を思い浮かべた。







 その日の夕方。

 いつものように瑠璃が扉を開ける。声をかけようと口を開きかけたところで、テーブルの前に誰もいないことに気付いた。


「あれ? ブラッド君?」


 だいたいいつもテーブルの前で何かしているはずなのだ。中へと入って、扉を閉める。あたりを見回そうとした瞬間、左側の壁の下で亡霊のように蹲っているものが目に入った。


「うわびっくりしたぁあ!?」


 どす黒い空気を纏いながら、その主が顔をあげる。

 ブラッドガルドだった。


「なんでそこにいんの!? めちゃくちゃびっくりしたんだけど!?」

「居たら悪いのか……殺すぞ」

「悪くはないけど、なんかそこにいると既に懐かしい感じがする」


 壁にもたれかけて蹲るブラッドガルドは、今にも闇に溶けてしまいそうなほど暗い空気を醸し出している。おまけに眉間に皺が寄っているし、不機嫌極まりない。瑠璃は箱をテーブルに置くと、その前までやってきてしゃがみこむ。下から覗き込むようにすると、ブラッドガルドはますます不機嫌さを露わにした。


「……魔力が足りん」


 吐き捨てるように言う。


「……ブラッド君、そんなんで勇者と対峙した時だいじょぶなの……?」

「そう思うなら早く寄越せ」

「せめてテーブル来て食べなよ……」


 立ち上がると、その手を引っ張る。


「ほら立って! こっち!」


 引っ張りはするものの、ブラッドガルドは腕が上がっただけで微動だにしなかった。完全に力で負けている。


「今日のお菓子は『私を元気にして!』って意味のお菓子だから多分元気が出るはず!」

「全然わからん」

「具体的に言うと上にココアパウダーがかかってる!」


 その瞬間、ずるっとブラッドガルドの姿が影の中へと消えた。


「えっちょ」


 瑠璃はといえば、消えたことでそのままバランスを崩し、後頭部から地面に落ちていく。そのままぼしゃんと影の中に消えてしまった。ブラッドガルドが再び影から姿を現わした時には、瑠璃の首根っこを猫のようにつまみあげたまま出てきていた。


「なんか今っ……いま変なとこ入った!?」

「気のせいだ」

「泥っぽいというか沼っぽかったんだけど!?」


 完全に無視された。

 後ろで影から出た蛇が物言いたげにブラッドガルドを見ていたが、無言のままひと睨みされると、そのまま影へと戻っていった。


 かなり無駄な時間を過ごした気がする。


「今のは魔力消費しないの?」


 ようやくテーブルの準備にうつると、瑠璃は首を傾いだ。


「貴様は歩くのに莫大な体力を消費するのか?」

「全然わかんないけど、わかった」


 ティラミスの入った透明な四角いカップを取り出し、真顔で答える。


「そこから考えるとブラッド君はだいぶ回復したよね」


 へらりと笑う瑠璃に対して、ブラッドガルドは無視を決め込んだ。ティラミスに手を伸ばして、しばらく中身を検分するように眺める。

 透明なカップからは、クリーミーなマスカルポーネチーズのクリームと、エスプレッソの香るスポンジが交互に重ねられた断面が見えている。その上にはココアパウダーが振りかけられていて、その真ん中にはちょんとミントの葉が乗せられていた。


「……貴様、チョコレートではないではないか」

「その時点でよくわかったね!? 誰もチョコレートケーキだなんて言ってないからね」

「じゃあなんだこれは」

「開けながら言うなよ」


 文句を言いつつしっかり食べる気のブラッドガルドを横目で見つつ、瑠璃は瑠璃で、自分のティラミスのカップを開けた。

 角のあたりへ、スプーンを潜らせていく。

 柔らかなクリームの中にスプーンはするりと入り込み、しっとりとしたスポンジも切り込んでいく。引き抜くと、交互に重ねられた二層の色がキレイにくっきりと引き出されてきた。

 そのまま、口の中へと運ぶ。

 あっさりとした甘いクリームと、ほんのりとした苦味のあるエスプレッソのスポンジが、舌の上でとろけた。


「んあっ!? ほんとだ、甘いけど結構あっさりめだ」


 ずっと甘いものが続いていたから、これくらいでもいいかもしれない。

 こしあんとは違った控え目な甘さで、


「……このクリームは……なんだ。よくわからん」

「チーズだよ。マスカルポーネっていう」

「チーズケーキにしては……前のものより柔らかいな」

「マスカルポーネ自体が柔らかいからね」


 マスカルポーネはフレッシュタイプと呼ばれるチーズで、熟成させないタイプのものだ。

 最初の工程でホエイを取り払っただけの一番基本的なもので、カッテージチーズやモッツァレラもこの部類に入る。意外にクセのないタイプだ。


「他の熟成させるチーズはハードタイプとか、青カビで作るやつとかあるじゃん」

「……意外に種類が別れるのだな?」

「カイン君とこ見てきたらどう? たぶん、動物によっても色々あると思うし」


 完全に悪意の無い入れ知恵に、ブラッドガルドはただ頷いた。

 二人の知らないところでカインが悪寒を覚え、瑠璃が気が付かないうちに続きを促す。


「ティラミスはさっきも言った通り。私を上に引き上げて! って意味のお菓子だよ。他の意訳としては『陽気にさせて』とか『天国に連れてって』とかだね」


 大雑把に言うと。

 ティラ(引っ張る)

 ミ(私を)

 ス(上に)

 ……で、ティラミスだ。


「何故だ。甘さはそれほどないだろう」

「エスプレッソに含まれてるカフェインが興奮作用があるんだよ」


 エスプレッソはイタリアなどで普通コーヒーといえばこれを指すレベルの濃くて苦いコーヒーだ。


「お菓子にしちゃうとそれほど苦いとは思わないよね。エスプレッソはバニラアイスとかにかけても美味しい」

「そうか。いま持ってきても構わんぞ」

「……また今度ね」


 ナチュラルな催促をそっと次回に回しつつ、瑠璃は続ける。


「十八世紀のヴェネチアで、夜遊びする前の栄養補給的なデザートだったみたいだね」

「そのヴェネチアという場所で作られたのか」

「一応そういうことになってるね。由来はいくつかあるよ」


 ひとつは、ヴェネト州トレヴィーゾのレストラン「ベッケリーエ」説。

 二つ目は、マスカルポーネの産出地、ロンバルディア地方説。

 三つ目が、トスカーナ地方説。


「主流は一つ目だね。六十年代あたりに、当時のベッケリーエの女主人が考案して作った説だよ。スポンジじゃなくてサヴォイアルディっていうフィンガービスケットを用いてつくったって話があるけど。

 ちなみにヴェネト州の州都がヴェネチアだよ。


 三つ目も有力で、『公爵のズッパ』に由来するってものだね。これはズッパ・イングレーゼっていう『イギリス風スープ』って名前のお菓子で、赤色のリキュールに浸したスポンジと、カスタードクリームを交互に重ねたお菓子。

 十六世紀にメディチ家から来たコレッジョ公爵って人の歓迎のために、トスカーナの菓子職人が考案した説だよ。それが公爵のズッパの名前の由来。公爵はこのお菓子を気に入って、メディチ家の宮殿でもたびたび再現して、特にイギリスからのお客に好まれるようになったって」


「……どこそこの菓子屋が作ったというのなら、もうそれで良いのではないか?」


 トスカーナ地方説の説明中から完全に目が白けたブラッドガルドが言う。


「まあ三つ目って、よくある『有名所が作った』やつだよね……」


 ここに来るまでに何度も見てきたパターンだ。


「まあ、ヴェネチア……とも近いのかな? それに、このベッケリーエ説に待ったをかける人たちもいるらしいし」

「ほう?」

「レストランじゃなくて娼婦の女性が創ってたドルチェだとか、別のホテルでズッパ・イングレーゼ用のスポンジケーキを焦がしたところから偶然できあがったとか。他にも、実際に自分が作ったものだって宣言した人もいるみたいよ」

「同時期に似たようなものが作られる……ということはあるのではないのか」

「ひょっとしたらあるかも」


 瑠璃は頷く。


「あとは、ホテルやレストランのそもそもの知名度とか。もともと有名なところが取り上げられたらそこが」

「なるほど」


 しかし、とブラッドガルドは思う。

 そもそもの由来――私を上に引き上げ、という言葉――といい、夜遊びのための菓子といい。加えて娼婦が作った説といい。ずいぶんと色艶のある菓子だ、と思った。

 が、いまのブラッドガルドには趣味なら間に合っている。それ以上に魔力のほうが重要だ。


「日本に入ってきたのは最近か?」

「え? えーと……」


 瑠璃はスマホに目をやると、スクロールしはじめた。


「一九八○年代だね。当時の日本だと、ケーキとかの生菓子ってフランス優位だったんだよね」

「まあ貴様の持ってくるものを見ると、今も変わらん気がするが」

「でもその頃にティラミスが入ってきて、色んなものが注目されたんだって。フィリピンのナタデココとか、パンナコッタとか、マンゴープリンもこのあたりに入ってきたらしいよ。人気が落ち着くのも早かったみたいだけど」


 それから考えるように視線を彷徨わせる。


「だから今は……どうだろ、普通にお菓子のひとつって感じかな。たまに有名な専門店ができて、ちょっと話題になるくらい」


 そこで話は終わったようだった。

 空になったカップを手の甲で横へと追いやり、ブラッドガルドは棚を見た。


「……まあ、貴様の夜遊びといえば、あれか」

「んあ?」


 つられるように視線を向けると、そこには棚に置きっぱなしになった携帯ゲーム機が鎮座していた。近くにはゲーム盤もある。

 視線を戻すと、ブラッドガルドの視線も戻った。


「どうせ貴様のことだからやれと言うのかと思った」


 まだあるんだろう、という意味で、箱のほうを示す。


「……ブラッド君さあ……」


 瑠璃が不思議そうな目で見るので、ブラッドガルドは思わず見返す。


「なんでわかったの?」

「……む?」


 その言葉に真の意味があることを、ブラッドガルドはすぐに思い知った。


 おもむろに箱の中に手をかけて、中身を取り出す。

 ティラミスと一口に言っても、いまはエスプレッソだけではない。もちろんエスプレッソのティラミスが基本ではあるのだが、いまはいろいろと種類がある。中にはイチゴやレモンといったフルーツ系の定番所から、抹茶ラム酒など多岐にわたる。そして中には当然チョコレートも存在するわけだ。

 瑠璃が取りだしたのは、さっきはミントがちょんと乗っていた場所に、削りチョコレートとサイコロ型の小さなブラウニーが二つ乗っている。


「……貴様」


 眉間に皺が寄る。


「あっその顔は実は気付かなかったやつ……!」

「黙れ今の話は無しだ、我に捧げよ」

「やだよ!! このチャンスを逃すか!!」


 それからしばらく経ったあと、居間のテレビで本気の勝負が始まったのは言うまでもない――。

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