荒れ地に行こう(4)
――……
――……い……。
――……がい……。
――……ねがい……おねがいよ、るりちゃん……!
その中年女性は、嗚咽をあげながら賢明に言葉を発した。流れる涙をハンカチで抑え、悲痛な面持ちを隠しきれずにいる。
その後ろにはスーツ姿の男性がいて、女性を支えるようにして頭を下げていた。
――どんなことでもいいの、教えて……!
――あの子……いなくなる前に……、変なこと……なかったか……
それはどこかで聞いたような言葉だった。
事の重大さは把握していた。けれどもどうにもできない。そんなもどかしい気持ちでいっぱいだった。
でも、これは夢なのだ。
だから、どれだけ事情を汲んでいてもそういう夢だ。
――どんな小さなこと……いいから……。
夢……だったっけ、と頭のどこかでぼんやりと思う。
あの子とは誰のことか、知っているはずだ。この女性のことも知っているのだから。
けれどその顔は次第にぼんやりとしていって、遠ざかっていく。声を出そうにも、締め付けられてしまったように声だけが出ない。
なんと声をかけたのか――喉の奥のすぐそこまで出かかっているのに、出てこない。
もうすこしなのに。知っているはずなのに。
抑え込まれるように、女性の嗚咽も顔も遠ざかっていく。
……だからやっぱりこれは夢なのだ。
*
ぱちりと瑠璃が目を醒ましたとき、最初に見えたのは古びた布のようなものだった。
自分がどこにいるのかわからず、普段と違う布団の感触を不思議に思って目の前に持ってくる。そうしてその古びた布をまじまじと見つめて、思い切り飛び起きた。
妙に古びた部屋に瑠璃はいた。
木造の家は、部屋というより小屋のようにも見える。あたりにあるものはほぼすべて木で出来ていて、小さな丸椅子も隅に置かれたテーブルもみな一様に同じ色合いだ。カーテンすら無い窓からは直に灯りが差し込んでいた。少し埃っぽいらしく、日差しに反射して小さな埃がきらきらと煌めいている。
ともすれば廃屋一歩手前だ。
――どこ、ここ?
ほとんどお約束のようなことが浮かぶ。
「わたしはどこ?」にならなかっただけ、そんな余裕が無かったのだが。
ぽかんとしたままあたりを興味深げに眺めていると、突然ドアが開いた。音につられるようにドアの向こうを見ると、こっちのほうが夢かと思うような光景が入ってきた。
「……起きたか」
それは人間ではなかった。
体型はほとんど人間と変わらないが、頭は犬のようだった。ぐっと前のほうに伸びた鼻と、大きく開いた口。そこに並ぶ牙。短い毛に覆われた姿はどう見ても犬系の獣を彷彿とさせる。布の服から手先もほとんど人間のものなのに、隠された腕のほうはやはり細かい毛に覆われている。
顔にはいくつかの傷があり、昔の古傷の跡が残っているようだ。
瑠璃の知識の中では、ファンタジー系のゲームかアニメか、ともかくそれらでいうところの「獣人」のイメージが一番近い。
思わずまじまじと見てしまうと、向こうもそれを感じ取ったらしい。ただ、慣れているのかこれといった反応はしなかった。
「運が無かった。だが、ここでは発見した奴が面倒を見る。諦めろ」
「え?」
意味をくみ取れず、瑠璃は遠慮無く入ってくる犬の獣人――今のところそう呼ぶしかなかった――を見返す。
「……つまり、えーと……あなたが私を助けてくれたってこと?」
「助けたとは違う。見つけた」
「う、うーん?」
それでもまだ意味がわからず、瑠璃は微妙な反応しか返せなかった。
獣人のほうは近くのテーブルに木杯を置くと、くるりときびすを返した。
「そっか。とにかく、ありがとう!」
彼だか彼女だかの目が一瞬興味深く見開いたが、それはすぐに消えた。
そのまま扉へと同じ歩調で突っ返すと、再びこちらを見た。
「お前の同行者は隣の部屋だ。後で二人まとめて話をする」
それだけ言うと、ばたんと扉を閉めた。
――く、クールな人だ……。
ともあれ、ちゃんと話をしてくれるだけまだマシかもしれない。
扉の向こうから同じ歩調の足音が遠くなり、瑠璃はまたひとりベッドに取り残された。ひとつふたつ瞬きをしたあと、目線をテーブルの木杯へと向ける。たったそれだけなのに、するりと瑠璃の影が動いた。瑠璃は自分の影が動いたことに気が付かないまま、手を伸ばして木杯を手にした。
中には白湯が入っていて、何も入ってない胃の中にじんわりと浸透した。
ほふ、と息を吐き出す。
ほんの少しでも落ち着いたあと、まだ寝起きの頭だったが、何が起こったのかを思い出そうとした。
何か夢を見たような気がしたが、必要なのはそれよりも前のことだ。
――えーと……確か、魔力嵐の中を進んで……。
荷物もあるが、あきらかに体調の悪い人間をひとり抱えて進む。
いくら魔力嵐の影響を受けないといってもつらいものがあった。とはいえ自分が言い出したことだし、ともかくこの先に行かないとどうにもならない。そう思いながらただひたすら、自分の周りを取り巻く嵐の中を進んでいく。
それに、まったく影響が無いというわけではなかった。
あるのか無いのかわからない絶妙な気持ち悪さ。息はすぐにあがって、妙に寒さを感じる。風が寒いというよりは、内側から寒いような感じだ。
いち、に、いち、に、と子供っぽく数を数える。それで一定の歩調を維持していたのに、次第にとりとめのないことも頭に浮かんできた。
幼稚園のとき、たまたま建物の裏口から運動場に出たこととか。知らないマンションの地下駐車場にそっと入り込んだとか。友達と連れだって踏切の向こうまで出かけたとか。
そういう、何となく普段と違ったから覚えてはいるけれど特に意味のない記憶――そんなものが勝手に記憶が浮かんでは消えていく。
わけがわからなくなる自覚があるというのも、いっそう自分が小さくなったように感じられた。自分がどこにいるのかもうやむやになってきて、どこへ進んでいるのかもわからなくなってくる。
暴風はやむことなくただただ吹き荒れていて、ひたすら前と思われる方向に進んでいた。
足が重くなる前に目のほうが重くなってきて、ときおり目を瞑りながらも進む。
轟々という音は耳を常に撫でていって、騒がしいのに目は重かった。
――それで……、それで、どうしたんだっけ?
確か、あるとき急に体が楽になった、ような気がする。
楽になったというのは少し違って、急に視界が開けたのだ。暗闇の向こう側に唐突に抜けたと思ったら、同時に気持ち悪さや寒さが遠ざかり、ばったりと倒れ込んだのは覚えている。荷物とカインを巻き込みながら地面と挨拶をした。
そこまで思い出して、瑠璃は急に叫んだ。
「そうだ、ついたんだ!」
それからもう一度周りを見回し、木杯を置くと慌ててベッドから飛び起きた。
バランスを崩しかけながら窓へと飛びつき、ぼろぼろのカーテンの向こう側を見る。そこには、日差しに照らされた緑色の中に、石造りの家々がぽつぽつと立ち並ぶ、それこそ中世風の村といった風な世界が広がっていた。
布の服を身に纏った人間たちが、外に出てそれぞれの作業をしている。その中を、一人の少年が駆け抜けていった。
瑠璃の胸の中でなにかがはじけた。
明るい景色を前にぶわりと肩をいからせると、そのままよろよろとあとずさり、ベッドに仰向けに倒れ込む。
ぎじっ、とベッドから危なげな音がする。
「ついた……!」
その言葉は深いため息のように飛び出した。
天井を見ながら、ぼうっとしたようにひとつふたつ瞬く。
「……ついた……」
ぼんやりともう一度呟いた後、瑠璃はおもむろに片手を掲げ、ガッツポーズをした。
外からは人の話し声と何かの作業音が、真昼の日差しとともに心地良く流れていた。
ようやく扉の向こうへと赴く決心がついたのは、それからしばらくしてのことだ。
扉をそうっと開け、きょろきょろと廊下を見回す。
どちらに行けば、と思っていると、唐突に隣の部屋が勢いよくバタンと開けられた。
「あ、カイン君」
この状況で名前を呼ぶのは、ひどく場違い感がある。
「っ、あ……、ルリさん!?」
見知ったものを見て安堵したのか、カインの表情が微かに和らいだ。
一度大きく息を吐くと、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。顔を引き締めて近寄ってくる。
「良かった。無事だったんですね」
「いや、これはこっちの台詞なんだけど。カイン君こそ大丈夫?」
「……多少、まだクラクラしますが問題はありません」
顔色は青白くはある。
「い、いや。それよりここは? 地上……ですよね?」
「うん。多分地上」
「じゃあ僕らは、どこかの村に……」
カインが言いかけた時、足音がひとつした。
二人は同時にその足音へと視線を向けた。
「起きたか」
さっきの犬獣人が、そこに立っていた。
「亜人……?」
カインが驚いたように声をあげる。
「こちらに来い」
犬獣人はそれだけ言ったきり、きびすを返して歩き出した。どうやら向こうにはリビングのようなところがあるらしい。二人は顔を見合わせたあと、獣人のあとについていった。
リビングもこれまた古いテーブルと長椅子が二つ用意されただけの、簡素な空間だった。
「座る、するといい」
瑠璃は言われるがまま、長椅子のひとつに座る。
カインもそれに従って、その隣に座った。
最後に犬獣人が向かい側の長椅子に座ると、独特な緊張感があたりを包んだ。
「まず、お前たちが何者か、問わない。みんな、聞かない。ここでは意味がない」
犬獣人が話し出すと、カインは面食らったように目を丸くした。
「この村の掟はただひとつ、働かざるもの食うべからず。体力戻るまで、働き先を決めておけ。仕事決まったらこの家から出ること。家はたくさんある、好きなものを……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
身を乗り出し、制止する。
「その前に、ここはどこなんですか?」
「ここは、私たちの村」
「バッセンブルグのですか? それとも……」
「どこでもない」
犬獣人はまっすぐに二人を見て言った。
「ここは、荒れ地のなか」
カインにとっては衝撃だったらしい。
はたして言葉が意味として通じているのかも怪しいくらいだ。
「荒れ地……の、中? それって、どういう……?」
「お前たちが通ってきた、魔力嵐の中」
それ以上何をどう聞いていいのかわからなくなったのか、カインは口を小さく動かしたあと黙り込んだ。
反対に瑠璃は、膝の上でこぶしを握った。
ショックを受けているカインには悪いが、今は黙っていることにした。ブラッドガルドが放置し、他の国々が辛酸をなめさせられているこの土地――おそらくは魔力嵐によって邪魔されている――の中央に、まさかこんな集落があるとは、誰も思っていなかったのだ。
――……台風の目だ。
直感ともいうべきものだったが、瑠璃はそう思っていた。
魔力嵐は上からと下からの魔力がぶつかっている――ということだが、瑠璃があの魔力嵐の中で見たのは、一定の方向に常に吹き付ける風だった。もちろん魔力の無い瑠璃にはそれ以上のことはわからない。しかし、魔力嵐の中にこうした空間があるというのは、台風の目に似ている。
こちらの生物にはほとんど魔力があるらしい。
だから魔力嵐を抜けるさなかに、ほとんどの人が魔力の器に影響を受けて――息絶えて――しまう。
もっとも、瑠璃の世界の人間にも魔力は存在しているのだが、それを詳しくは知らなかった。
ともあれ。
そうであるなら、いろいろと確かめていくことがある。
「――あのっ!」
瑠璃が意を決して声を発したその時、外へと繋がる扉がばたんと開いた。
「コチルぅ!」
明るい声が響き、少年が一人飛び込んできた。
「外から新しい奴らが来たんだって!?」
まだ十歳前後に見える少年は、健康的に日に焼けた顔を輝かせてずんずんと歩いてきた。
「……ティキ」
「あっ、お前らか! お前らだよな!?」
名を呼んだであろう犬獣人をまったく無視して、二人を見つけると声を張り上げる。
「オレはティキ! 後から来たならオレのコーハイで、弟子だな!」
そう宣言すると、びしりと二人を指さした。
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