迷宮の迷い子(3)
ブラッドガルドが一歩、足を踏み出す。
一瞬止まったように見えたのは、自分の恐れからだろうか――きっとそうなのだろうと思うことにした。
それを振り払うように槍を構えると、ブラッドガルドは小さく首を傾いだ。
「……ああああっ!」
走り出し、槍を突き出す。
さらりと小さな動作で避けられる。槍をすぐさまぐるりと上から振り落とすも、それを片手で止められた。動かない。ハッとして視線を向けると、ブラッドガルドは槍の先を掴んだまま、カインごと投げ返した。
あっけなく体ごと投げ飛ばされ、小さなうめき声をあげながら、床を転がる。しかし咄嗟に体勢を立て直しつつも前を見据えた。だがその直後に、周囲の床を黒い影のような蛇――いや、蛇のような影が正しいんだろう――が集まってきているのに気が付いた。
「くっ」
逃してはくれないようだった。
影は大きくくねりながら、カインを取り囲むように襲ってくる。
ぐっ、と力を込めると、勢いよく上へと跳び上がった。影はぶつかることもなく、むしろ混ざり合って巨大な蛇と化すと、そのままカインを追ってきた。カインは地上に着地するとすぐさま走り出す。
大きく回り込むように駆けながら、ちらりとブラッドガルドに目をやる。
そこから一歩も動かぬまま、それほど力を使っていないように見える。
ギリ、と歯ぎしりをしてしまった。
影の蛇が再び三つに分裂し、うねりながらその身をカインめがけて横たえてきた。叩きつける勢いに地響きが鳴り、床の破片が大きく飛び散る。その身をなんとか立ち止まって避けると、続けざまにもう一匹が地面をその身で叩きつけてきた。右に跳び、その隙間を縫って床を蹴った。
上から落ちてくる三匹目の身をかがんでくぐり抜けると、受け身で転がりながら跳躍した。
槍を持つ手に自然と力が入る。
上段からブラッドガルドへと槍を叩きつけんと、咆哮をあげた。
だが、ブラッドガルドの目がゆっくりと――スローモーションのように――カインを見たかと思うと、あまりに軽く手を翳した。
ドッ、と音がして、手先から闇色の触手のような蛇がいくつも現れた。避けることはできない。覚悟とともに、特攻を続ける。
だが、ブラッドガルドは軽く手を振っただけだった。
その途端に、闇色の蛇はその見た目に反してあまりに堅く、カインを弾き飛ばした。ぶつかった痛みを感じるその前に、床に思い切りぶつかった。転がると、鎧のけたたましい音が耳についた。
しゅるりと蛇たちは再びブラッドガルドの手の中へと戻っていく。
――遊ばれて、いる……。
その程度でしかないのかと、一瞬思う。
体を起こしながら、それでも引くことはできなかった。槍を持ち、叫ぶ。
「おおおおっ!」
ブラッドガルドめがけて走りだす。
その先に、太い幹のような影の塊が槍のように落ちてきた。さっきは近くまで行けたのだから、今度こそ――と、床に突き刺さるそれを避けながら駆け抜ける。
しかし、四本目の槍を避けた瞬間、死角から背中を叩きつけられた。
「くっ――」
多少よろけたのを皮切りに、横から吹っ飛ばされた。
バランスの崩れた体に影の槍が叩きつけられ、あまりにあっけなく吹き飛ばされる。それでもなんとか立ち上がろうと、自分の掴んだ槍を手にした。
「う、う……」
よろけながらも体を起こすと、ブラッドガルドがゆらりと手を払ったのが見えた。
一陣の風が体を通り抜ける。
遅れて、衝撃が駆け抜けていった。
黒い熱波が、カインの体を焼き付くさんばかりに駆け抜けていく。それどころかそのまま体を吹っ飛ばしたのだ。
「があああっ!」
それがいけなかった。
閉じた目はともかく。熱波はカインの喉ごと焼いていったのだ。
頭から床に転がると、髪ごと地面を擦っていった。そしてなんとか立ち上がろうとして、体じゅうが軋むのに気付いた。
「ぐ、く……く、お……っ!」
高温に晒された石畳は一瞬で熱を帯び、肉の焦げた匂いがした。魔力強化を施した筈の衣服がちりちりと焼け焦げている。立ち上がろうとしたところで、鎧が合わずにミシリと妙な音が響いた。どこかの部品が熱でおかしくなったのだ。
喉が猛烈に痛い。声は掠れ、碌な声が出なかった。熱は肺にまで入り込んだのか、胸が痛む。
――こんな……、こんな……ものを……!
詠唱無しで。
ただひとふりの動作だけで。
――それなら……それなら……!
一体どれほどの力をまだ隠しているというのか。
カインが痛みを堪えながら目を見開くと、陽炎のようにゆらゆらと煙る視界の向こうで、ブラッドガルドが立っていた。
最初からずっと。その場から動かないまま。
その目元がにたりと細くなった気がした。
――勝てない。
その事実が、言葉として浮かぶ。
――……こんなの、勝てるわけが……。
その横で、影の蛇の頭部が姿を変えていった。
自分の持つ槍とそっくりだった。
「っ!」
即座に自分の槍で応戦すべく、影の槍とかち合う。
ギリギリと歯を食いしばり、次第に血の味に満ちていく。バキリと奥歯から音がした。口の中で、耐えきれずに砕けた歯の欠片が転がる。
「うああっ!」
影の槍を押し通すと、プッ、と白い歯の欠片を吐き出した。
ぼろぼろになりながらも、前を見据える。
ごうごうと音がする。暗い闇のようなものが、周囲を覆っていた。
足を一歩動かすごとに、足元からずしゃり、と音がする。靄のような闇は、歩くたびに体の節々を焼いていく。あちこちから血が噴き出し、息をするだけで胸が痛む。頭の血管が切れたのか、つうっと血が頬を伝っていった。
影の槍は、ゆらゆらと蛇のごとくカインを見据えている。
そのうちの一本が、横からカインを薙いだ。避けたものの、槍先は体を引き裂いていく。まるで死体が歩いているかのようだ。
もう一本。
向かってきた影槍を、カインは自らの槍で受け止めた。拮抗する。そしてもう一本がたたき落とされた。ばきりと音がしたのは、はたして自分の口の中からだったのか、それとも、手の中からだったのか。カインが影槍を押し返したとき、もはやその手の中のものは槍ではなくなっていた。折れて棒となった槍を手に、カインは体を引きずっていく。
その体の中心を、背中から衝撃が貫いていった。
「あがあっ……!」
衝撃とともに、床と繋がれる。
がくりとうなだれると、片手が自分の槍だったものを手放した。
だが一瞬だけうなだれたその体は、突如両手が影の槍を持つことで動き出した。
「……う、ぐ……ううーーっ……!」
そのまま槍から体を引き抜かんと、ゆっくりと前に進んでいく。
痛みは尋常ではなかった。
ずる、ずる、と前へと進んでいくと、やがて血が噴き出すのと同時に自由になる。
――なんとか。
なんとか一撃だけ。
あの日。
ブラッドガルドと遭遇したあの日でさえ、これほどではなかった。絶望に沈んではいたが、それはほとんどが裏切りのせいだった。
今ですら――殺してほしいほどなのだ。
「げほっ、ぐぶ……、……あ……ああああ……!!」
掠れた叫び声をあげながら、カインは拳を振り上げてブラッドガルドへと殴りかかる。しかしその拳が届く前に、どっ、という音が響き、気が付いた時には床にたたきつけられていた。
「はっ……! はあっ、がっ、げほっ、ごふっ……、う、うう……」
痛みと熱で、体ががくがくと痙攣している。
膝をつき、なんとか立ち上がろうとする。干からびたのではないかと思うほど、体は乾いていた。
そんなカインの前に、影が落ちた。
ブラッドガルドが目の前にいる。
顔をあげる。歪んだ視界に赤黒い色が広がる。そこにどんな表情があるのか、もう理解できなかった。
ずるりと体を起こし、その足を掴もうとする。指先が黒い衣服に触れたとき、その手が蹴り飛ばされた。体は再び床に転がる。
「それだけか」
あまりに絶望的な言葉に、カインは心すら貫かれた気分になった。
「貴様は一体何を望む」
「……ぼ……くは……僕は……」
頭を伝う血の向こうで、ブラッドガルドはあまりに強大だった。
「僕は……お前を……倒すことだけを考えてきた……。お前を倒すことだけが……僕の生まれてきた意味だった……」
手が震えているのが見える。
自分の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。
勢いよく顔をあげた時、カインは泣いていた。
「……お前を倒して! 国を取り戻すことが! 僕に課せられた人生だったんだ!!」
叫びとともに、ごぼりと血がまき散らされる。
喉の痛みなどもう気にならなかった。
爪が地面を掴もうとして、ぱきりと折れた。
「なのに……なのに!! 女神様に……、こともあろうに、女神様に……勇者に選ばれなかったというただそれだけで……僕ははじき出されたんだ!!」
赤く流れる血に混じって、塩辛い液体が流れていく。
「僕にはこれしかなかった……これしか求められてなかった……みんな僕の事なんて見ていなかった!! 荒野の後継者としてしか要らなかったんだ……僕の存在意義はこれだけだったのに!! みんなそれしか僕に求めてなかったっていうのに! 僕はいつだってノロマで一歩も二歩も遅れて……、誰も助けてくれなかった。誰も僕を見てくれなかった! あんまりだ、こんなの……!」
もはや何を言っているのかもわからなかった。
言っていることはぐちゃぐちゃで整ってすらいない。整えることすらできなかった。
「セスだって……やっとできた友達だったのに……ようやく……ようやく……、僕でもお前に届くと思ったのに……」
視線は次第に床を向き、拳が床を叩く。
虚しく音は反響した。
ブラッドガルドの足が近づいてくる。
その歩みはゆっくりと、しかし神妙で、そして狂気のように思えた。
暗闇に沈んだ向こうに目が二つ、浮かんでいる。
それはカインを見下ろし、
「では、――貴様はなんとする」
ブラッドガルドの背後から、闇がせり上がった。
それは燃え盛るがごとくにゆらゆらとたちのぼった。暗い熱は次第に高くなる。
闇の中から笑う瞳がカインを見下ろしていた。
と、その瞬間。
何か足音が近づいてきた、と思ったときには、ぼふっ、というやや鈍い音が響いた。
「――ぐっ……!?」
ブラッドガルドが目を見開き、小さな呻きに似た声をあげる。
あまりの想定外な出来事に、カインは咄嗟に動くことができなかった。
「……え」
思わず顔をあげると、ブラッドガルドを押しのけるようにして、顔が覗いた。
「はーい、おわりおわり~!!」
そして、場違いなほどに聞き覚えのある、瑠璃の明るい声が響いたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます