閑話1
人は死の直前、走馬灯を見るという。
走馬灯とは灯籠の一種で、回転させると中に描かれた影絵が動いて見えるという仕組みだ。
そこから転じた言葉である。
死の直前、人生のなかの様々な情景が、現れては消えていくさまを走馬灯と形容したのだ。
それはせん妄のひとつ、幻覚の症状だと考えられている。
だが、自らの人生を垣間見るだけというなら、恵まれた最期に違いない。
*
封印術式は、今やその機能の意味を失いつつあった。
「がっ……!」
子供のように押さえ込まれ、石畳に叩きつけられる。
顔面から落ちたあとは、牢獄の中は静寂に満ちた。もはや腕すら動かず、小さな咳とともにプッと口の中のものを吐き出すと、折れた牙が転がった。
折れた欠片はすぐそばの暗闇の中へと転がっていき、あっという間に見えなくなった。
片方に残った目でさえ、この空間すべてを見ることは叶わないのだ。
屈辱以外の何物でもなかった。
自分の小さな息づかいが、直接耳に届く。
まだ生きている。
迷宮そのものを揺らがす戦いは――勇者などと持ち上げられた者が、それほどまでの相手だったのは確かだ――熾烈を極めた。故に何度も無理な自己再生を繰り返した結果、徐々に異形化しはじめたのは覚えている。だがそれも潰された今となっては、自分の体がどうなっているのか確かめる術はない。
人であればとっくに死んでいるだろう。
ただの魔物であっても結果は同じ。
たかだかほんの少し生命力が強いというだけのこと。
だからまだ生きている。
牙を失い、爪を亡くし、角を折られてなお――これほど生にしがみついているのが浅ましく呪わしい。
狂おしいほどの飢えも乾きも、もはや何の力も与えてはくれなかった。
どんな飢えた獣でさえ、獲物を狩れぬほど衰弱したなら死ぬ他ない。
口の中にあったはずの血の味さえ、今は懐かしい。
それほどに凋落しきり、小さな存在へと成り果てたのだ。
これが報いだというなら、女神とやらはとんだ加虐嗜好に違いない。そうでなければ思いのほか恨みを買っていたかのどちらかだ。
ぎちり、と石畳に指を立てる。
途端、微かな音を立てて残った爪が弾けた。指先は泥と血で赤黒く染まり、力無く石畳を掻く。
落魄の印を押されたまま死ぬわけにはいかなかった。
そんなことを認めるわけにはいかない――認めたくなかった。
つまらなくてくだらないプライドだけはいつまでも邪魔をしていた。
――まだだ。
あの忌々しい封印に一撃をくれてやるまでは――。
たったひとつ縋り付いたプライドも次第に憎悪と同化し、正常な精神を蝕んでいった。
もはやその姿は生ける屍。あるいは地べたを這い回る穢らわしい異形。浅ましい愚かな残りかすだった。死に向かって残された無為な生を消費するだけの惨めな生き物。
叫び声はかすれ、血の泉は涸れ果てた。
もはや自分が生きているのかどうかすらわからぬほどだった。
時間感覚はとうに失われ、たった一日の出来事なのか、それとも一年が過ぎたのか、それ以上なのか、それ以下なのか――はたまた一秒も経っていないのかも理解ができなかった。
暗闇の中に奇妙な木製の扉が見え始めたのは、ちょうどその頃だった。
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