112帖 ただの言い訳で、

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 ホテル6階のドミトリーを覗くとパキスタン人や坂本くんらは居らへんかったけど、荷物をゴソゴソしてる多賀先輩の姿があった。


「多賀先輩、お帰りなさい」

「おお、おはよう。パリーサちゃん、おはよう」

「おはようござーます!」

「今帰って来たんですか?」

「そうやねんけどう……、また行くねん」

「えっ、阿图什アェトゥシェン(アルトゥシュ)へですか」

「そうや。これ取りに帰って来ただけやねん」


 多賀先輩はフィルムや日本の小説を持ってた。


「そうっすか。向こうでは楽しんではりるんですか」

「そうやなぁ。今、雪梅シュェメイの家の手伝いをしてて、まぁまぁ忙しいで」

「何やってるんですか?」

「イチジクの収穫や。ほれ、これお土産や。食べてみ、おいしいで」


 多賀先輩は黄色い果物が入った袋をパリーサに渡してくれた。日本のイチジクとはちょっと色がちゃうけど、中身は同じつぶつぶになってた。


「ありがとうございます。僕、イチジク大好きなんですわ」

「ほんなら北野も手伝いに行くけ。阿图什特産のイチジクは日本一やっておじさんが言うとったわ」

「それを言うんやったら『中国一』でっしゃろ」

「そやな、はは。それはええけど、行くけ?」

「うーん、ちょっといろいろあって……」

「いや、別にええねんで」

「すんません。それで、多賀先輩はいつ帰ってくるんですか」

「そうやなぁ、できれば出発前日かな」

「そうなんや」

「なんでや」

「いえね、ちょっと紹介したい人が居って、その人山屋なんですけど一緒に飯でもどうかなって思って」

「そうか、どうしよかなぁ」

「それと、もし良かったら、林さんも誘てムスターグ・アタかコングールの麓にある喀拉库勒湖カーラークーラフー(カラクリ湖)に遊びに行けたらなぁと思て……」

「そうかぁ。そやけど、今収穫で忙ししなぁ。まぁ聞いてみるは。もし行けそうやったら出発の前の日の……」

「明後日の水曜日ですか?」

「おう、その日に間に合う様に帰って来るわ」

「分かりました、聞いといて下さいね」

「よっしゃ。そやけど、お前ら仲直り出来たみたいやな」

「はい、お陰さんでなんとか」

「そりゃよかったわ。ほんならもう行くわ」

「はい、気ぃ付けて。お願いしますね」

「分かった。ほんじゃパリーサちゃん、またね」

「バイバイ」


 多賀先輩は慌ただしく出ていってしもた。まぁ多賀先輩は相変わらず黒くて元気そうで良かったけど、僕が気になったんは寝たきり土山くんのベッドの荷物が無くなってて毛布やシーツも綺麗になってたこと。


 とうとう旅立ったか。


 意気揚々と出ていったんか、それとも仕方なしに移動したかは分からへん。辛そうにしてたのにあまり親身になって声を掛けられへんかった。何か手助け出来ることがあったんちゃうやろかと思うと、話すチャンスはあったのにそこまで出来んかった事を少し悔いた。彼のこれからの旅路の安全を願うばかりや。



 僕らは5階の部屋に戻って来た。部屋はムッとしてたけど、窓を開けると涼しい風が入ってきて気持ちよかった。


 余りにも気持ちよくて、何もかも忘れてしまいそうやった。

 ぼーっとして階下の街を見をろしてると、何をするのも面倒臭くなってきた。ともすれば、このままじっとしてたい、パキスタンやイラクへ行くのも日本へ帰るのもイヤになりそうな気持ちになってきた。このまま時が止まってしもたら……。


 それは土山くんやパリーサの存在が多少は影響してたと思う。土山くんの身に何が起こったんかが未だに気になってた。

 何があって人を避けるように寝たきりになってしもたんかと思うと今後僕の身にも起こり得る事かも知れん、多分これから先もそんな人がたくさん居るんやろう思うと恐怖感が湧いてきてそれから逃れたくなる気持ちと、パリーサと過ごすまったりとした生活にずっと浸かっていたいという甘えの気持ち。その二つの気持ちから現実逃避に走りそうやった。


 人間やからしゃーないと思うと、逆にそれに立ち向かって生きていかなあかんという気持ちも湧いてくる。そやし僕は旅を続けるんや、困難に立ち向かんやという理想の自分像を目指すことになる。そうせんと就職を断って、しかも親まで泣かして旅に出てきた意味がない。この旅を成就させることに意義があるんやなんて考えるようになる。ほんなら今すぐ行動しよう。


 そやけど、そんな風に一見前向きに考える様に見えて、「実はこの旅自体が現実逃避とちゃうんやろか。正にその通りやんけ」という自己嫌悪に辿り着いてしまう。


 今頃、友達や同級生は一生懸命働いてるやろに僕はこんなとこで何をしてるんや。旅の目的はちゃんとあるけど、それもただの言い訳にしか思えへん様になる。ほんまに何してるんやろと情けなくなってきた。

 気持ちええ風と美しい風景が逆に僕を苦しめてた。


 出るのは溜息ばっかり。ふと多賀先輩はなんで旅をしてるんやろう、なんで全く知らん人のとこで手伝いをするんやろう。多賀先輩の顔を思い出してたら、さっき会うたばっかりやのにちょっと寂しくなってきた。


 僕って人を頼ってばっかりやんと思てくると、みんなもそうなんやろかと疑問に思てきた。そう考えると、今までそんな事は無いと思て生きてきたけど、僕はめっちゃ弱い人間やと感じてきた。

 どんどん自己批判や自己否定に陥って行くのが分かる。それが判るだけ、「まだまだ大丈夫や」と自分自身を納得させ、現実逃避からも逃避しようと思って明日明後日のことだけ考えることにした。結論は持ち越しや。


 僕はベッドに横になり地図を見ながら「喀拉库勒湖散策」の計画を練る。と言うても別に何も考える事は無いんで、ただ湖の風景を想像してただけやけど。そやけど、さっきの物思いのせいもあってか急に人恋しくなってしもた僕は、乾いた洗濯物を片付けたり部屋の整理をしてるパリーサに声を掛ける。


「パリーサ、こっちへ来てや」


 片付けが一段落したパリーサはベッドに上がって僕の隣で横になり一緒に地図を眺めてくれた。

 部屋には日差しが差し込み心地よい風が吹き抜け、パリーサの息遣いが聞こえる至福の時やった。ちょっと心が安らぐのが分かった。


「パリーサ、昼飯はどうする?」

「えーっとね、まだお腹はいっぱいだからねー、昼御飯は食べなくてもいいわ。ドゥォフゥァさんがくれた无花果ウーファグゥォ(イチジク)を食べたらいいんじゃない」

「そうやな。ほんなら、あれを昼飯にしたらええか」

「ねぇ、それからどうするの。昼から何をするの?」

「そうやなぁ……」


 僕は何も考えてへんかった。考えられへんかった。ただただパリーサに無性に甘えたくなった僕は、地図を放ってパリーサを引き寄せた。


「しばらくこのままにしとってもええか」


 と言うとパリーサは無言で頷き、じっと僕の目を見つめてた。僕はパリーサの顔を胸に押し付け背中に手を回してしがみつく。

 ほんで僕は泣いた。



 つづく

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