37帖 レイン

『今は昔、広く異国ことくにのことを知らぬ男、異国の地を旅す』



 楽しい時間はあっという間に過ぎると言うけど、時計を見たらボートに乗り始めて40分も経ってる。


 その時、遠くのボート乗り場の方から係員のおっちゃん人民の声が聞こえてくる。どうやら戻って来いと言う様な口振りや。まだ20分も時間が残ってるのにおかしなと思てたら、おっちゃんは空を指差して何か言うてる。何事かと思て二人同時に空を見上げた。

 全然気付かへんかったけど、いつの間にか空の半分以上が黒い雲で覆われてた。


「ミョンファ。あのおじさんは何て言うてるんや」

「雨が降りそうやから戻ってきてくれと言ってるよ」

「どうする。戻ろか?」

「そうやね、雨が降ってきたら大変だから」


 僕は最後の力を振り絞ってボート乗り場に戻る。おっちゃんに手伝うてもろてミョンファをボートから降ろし、僕も陸に上がる。おっちゃんは、早く帰ってきてくれたからと言うて1元を返してくれた。


 喉が渇いてたんで横の売店で水を買うて飲んでると、ポツポツと雨粒が落ちてきた。


「ミョンファやばいで、雨降ってきたわ」

「どうしよう、傘持ってきてない」

「とりあえずあそこ丘の上の東屋に行こか」

「うん」


 僕らは手を繋いで丘に向かって歩き出す。ミョンファは覗き込む様に僕を見てくる。雨が降ってきても、ミョンファの笑顔に曇りはない。ええ顔や。


 空は黒い雲で覆い尽くされ、まだ4時やというのにめっちゃ暗くなる。そしたら急に大粒の雨が勢いよく降り出した。


 夕立や!


 その雨粒は僕らを濡らし始める。北京の雨はめっちゃ冷たかった。


「ミョンファ、東屋あづまやまで走れるか」

「うん、頑張る」


 さっと二人で走り出しす。東屋までおよそ300メートルかな。でも今はその東屋さえも見えん様になるほどジャンジャン降ってきてる。シャツも、その下のTシャツも、ジーパンまでもがドボドボになってきた。


 僕の後ろを走ってるミョンファが気になり、止まって後ろを振り向く。少し遅れて、こちらに向って来てる。

 ミョンファの白いワンピースは既にベチョベチョで、体にピタっとまとわり付いて、身体の線と下着が透けて見える。それとミョンファの少し大きめの胸が上下に揺れているのもはっきり分かった。思わず見惚みとれれてしまう。


 そやけど今は見惚れてる場合やないわ。雨は強さを増す一方で、10メートル先ですら見えなくなってきてる。それに頭から流れてくる雨水で目を開けてるのも辛い。


「ミョンファ大丈夫?」

「うん急ぎましょ。もう少しだから」


 ミョンファは立ち止まってる僕を追い越して先に行く。

 東屋のある丘の手前に川があって、石橋が掛かってる。その石橋を越えたらあと50メートル位や。


 ミョンファがその石橋を渡ろうとした瞬間左足を滑らし、「キャー」という声と共に転倒してしもた。僕はすぐに駆け寄りミョンファの体を起こす。

 雨は容赦なく振り続いてる。


「大丈夫か。どっか痛くない」

「大丈夫かな? 少し脚脖子ジャオブォズー(足首)が痛い……かな」

「どれ見せてみ」


 僕はミョンファの足を持って少し動かしてみた。


它伤害了タァシャアンハイラ(痛いよー)!」

「痛いか。ごめんな。ちょっと捻挫したみたいやな」


 ミョンファは起き上がろうとしたけど、咄嗟とっさに僕はミョンファの身体を押さえ、


「動かんほうがええよ。とにかく東屋まで連れて行くわ」


 と言うて、ミョンファの左腕を僕の首に回して抱き上げた。ミョンファは痛みを耐えてるんか恥ずかしさを隠してるんか分からんけど俯いてた。


 ゆっくりと石橋を渡り丘を登る。

 ミョンファは意外に軽かったけど、さっきボートを全力で漕いださかい腕力は殆ど残って無かった。


 なんとか東屋まで持ってくれ!


 と祈りながら急ぐ。


 もう少しで東屋という所まで来ると腕も限界になる。苦しそうな顔をしてたら、ミョンファは自分の右腕を僕の首に回してしっかりと掴まってくれた。


 そのお陰で安定して楽になる。そやけどミョンファの顔が僕のすぐ目の前にあって、お互いの吐息が掛かるほど近い。それに身体が僕の方に向いたことでミョンファの胸が僕に触れて、その柔らかさが伝わってくる。ミョンファの鼓動もしっかり伝わってきた。

 ドキドキしてるんがよう分かる。僕の心拍数も一気に上がった。


 チラッとミョンファの顔を覗き込むと、痛そうな顔はしてたけど、目が合うとニコッと微笑んでくれた。


 何とか東屋まで辿り着き、ミョンファをベンチへそっと下ろす。ハンカチ代わりに使こてる手ぬぐいでミョンファの顔を拭いた。


「おおきに。シィェンタイも拭いてあげる」


 ハンカチで僕を拭こうとしてくれたけど、ハンカチは既にドボドボ。固く絞ってから僕を拭いてくれた。


「おおきに。取り敢えず、もっかい足見せて」


 と言うてミョンファの足首を見てみる。右足と比べたら左足の方が少し腫れている様や。今は大丈夫やけど、もしかしたらこれからどんどん腫れてくるかも知れん。痛そうやったけどゆっくり動かしたらちゃんと動いたんで、骨には異常はなさそうや。そやけど早く冷やしてやりたい。


「ごめんな、痛かったやろ」

「ううん、大丈夫。それよりシィェンタイ、私を運んで疲れへんかった?」

「おお、全然大丈夫やで。だってミョンファは軽いし」

「ほんまー。おおきに、助けてくれて」

「それはええねんけど……。足の事やねんけど、骨は折れてへんと思うからそんなに心配せんでええよ」

「うん、分かった。そうだけど、どうやって帰る。雨、降ってるよ」

「そうやなぁ。まだ止みそうに無いしなぁ……」


 僕は外の様子を見てみる。空は真っ黒で辺りも相当暗くなってきてる。相変わらず雨は激しく、視界は殆ど無い。

 そやしミョンファが不安にならん様に励まそうと思てたら、


「二人だけの雨宿り。なんか兴奋シンフェン(ワクワク)するね」


 と逆に言われてしもた。


 ほんまにええ子やと思た。



 つづく

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