第262話
「目が覚めましたか」
一番最初に声をかけたのは、彼女の兄の友人、その子孫であるミカエルだった。
治癒の方向へ向いたのかは定かではない。だが、余計な警戒心や敵対心を与えないようにと、優しく話しかける。
そんな彼の姿を、目覚めてから一番最初に目にしたセシルは、どこか安心したように笑みを浮かべた。
「私……は…………私…………ずっと…………夢を……見ていたような…………ここ…………は……」
「ここは貴女と兄の屋敷です。ずっと昔から、ここに居続けていたんです」
「ああ…………いつの間にか…………こんなに…………古ぼけて…………先程までは…………綺麗だったのに…………」
呪縛から解放されるまでは、全ての景色は変わらないように見えていたらしい。
瞳の中だけに映る虚構が解け、本来の自分現実がセシルの視界の中に飛び込んでくる。
かつては心に平穏をもたらしてくれる程に内装が整っていたのに、今では天井ですら見る影もない。
自分の知覚できない間にどれくらいの時が経ってしまったのか、嫌でも自覚させられる。
「お兄様…………お兄様……は…………どこですか…………私の……愛する…………」
ミカエルは何も言わずに、一度残骸が構える玉座へと視線を移動させ、目を伏せるように頭を下げた。
セシルは察し、ぎこちない動作で首をその方向へと傾ける。
とうとうその眼に入ってしまった、見るも無惨なクロヴィスの錆びつき朽ちた屍の姿。
セシルはまるでわかっていたかのように表情を大きくは変えないが、唇を噛みしめて涙を流し、内心の強い同様を表すように指先や足先がかたかたと痙攣した。
「………………声が……聞こえました…………私の中で、お兄様が……助けてと…………私を助けろと……………しかし、お兄様は…………そのような弱音を吐く御方では…………ありません…………」
「……それはおそらく、気の遠くなるような時の中で貴女に巣食っていた穢れの声です。ずっとそれが貴女を狂わせ、操っていたんです」
「…………いえ。確かに私が聞いた声は……偽物かもしれない…………だけど…………これまでの所業は…………狂っていたとしても、私の意思…………妄執に捕われた私の未熟さが…………ああ……お兄様…………」
全てとは言わずとも己を取り戻すまでには穢れから解放されたセシルは、それまでの百年以上の振り撒いた害と、狂わされたとはいえ愛するが故の、亡霊のような兄への執着を自覚した。してしまった。
取り返しのつかないことをしてしまった。兄への申し訳が立たない。自分はなんてことをしてしまったんだ。
愛する兄が死んでしまったことは、胸が張り裂けてしまう程に悲しく苦しく受け入れがたい。
だが、その深い愛から来る失念と並ぶ程に、未熟な己の暴走が胸を締め付けた。
そんな彼女の声を、ミカエルは聞き入れ続ける。
「…………お願いします…………どうか…………私を殺してください…………せめて、命を以て少しでも罪への清算が出来るなら……」
「――それだけは出来ません」
それまでは考える隙間を少しだけ置いて返答していたミカエルが、この瞬間だけはきっぱりと確固たる意志を持って否定した。
ミカエルはその後に、揺らぎを割り込ませないように声を強くして言葉を続ける。
「僕も可能であれば、貴女の意志を尊重したい。今この場で介錯すればそれで終わる。私情に任せて剣を振るうのは簡単なことです」
「それなら…………」
「だけど、僕は秩序の下に民を助け加護するネフライト騎士団だ。騎士を名乗るなら、己の感情に無闇に流されてはならない。それを忘れて首を断てば、騎士を名乗る資格はない。貴女を裁くのはあくまで僕達ではなく、法です」
個人ではなく、アルフヘイムを守護する者としての矜持を持って、己を律してそれに従うミカエル。
複雑な心情はあれど、決してそれに流されるようなことはしない。
既に剣を鞘に納めていたミカエルは、月明かりのように優しい綺麗な微笑みを見せつつ、自らが従う流儀を、今この世にあるべき法を尊重した。
「…………わかり……ました…………」
直にその言葉をぶつけられ、セシルは受け入れるしかなかった。
心苦しさのあまり、自分の命を断ち、楽になりたいと思っていたのかもしれない。いや、思っていたのだろう。
ボヤけ鈍った思考が、本来の彼女の心がそれを素直に受け入れる。自分はこれまでの行いに正しく罰を受けるべきなのだと。
しかし、セシルにはどうしても、会話を交わす中で一つだけ気になる事柄が残っていた。
立ち上がろうとしたミカエルに、彼女は縋るような声で最後の質問をぶつける。
「まって……ください…………どう……して…………あなたは…………私にそんなにも……向き合ってくれるのですか…………?」
ミカエルはほんの一瞬だけ、過去と現在と因縁を振り返るように目を瞑り頭を下げる。
そして、一段と優しい目つきで質問に答えた。
「ここに来るまでは僕は全く予想してはいなかった。その理由を深くは言いません。だけど、これだけは言っておきます。僕は貴方の兄、クロヴィス=ランベールの大切な友、ユリウス=テオドルスの子孫、ミカエル=テオドルスです」
その名前を聞いた瞬間、ノイズ混じりの記憶の中に鮮明に輝く時が目覚めた。
兄、クロヴィスが友人であるユリウスと楽しそうに談笑している姿、二人の少し大雑把ながらもどこか優雅さも見せる食事姿、真正面からぶつかり合う姿を。
そんな二人の満ち足りているような姿は、いつも側にいたセシルには強く目に焼き付いていた。
お兄様が幸せを享受できる数少ない間柄であり、心を通わせられる友と言える存在。
その魂を受け継いだ者が、何の因果か、暴走し狂いに狂った自分を止めに来てくれたのだ。
己の大きすぎる罪を、長い時を経て止めてくれたことは、運命の糸が手繰り寄せられたとしか思えない。
ミカエルの言葉をを聞いたセシルからは、掠れるようなありがとうの声と、溢れる感情の濁流が形となった一筋の涙が流れ出た。
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