第53話
「グレイス、耳元なら聞こえる?」
「うん、少しだけ」
エヴァンは耳元まで口を近づけ、万が一耳を傷めないようにと気をつけつつ声の大きさを調整して話しかける。
耳を覆う程に毛布を被った頭の横まで移動しても、グレイスは少しも頭も視線も動かす様子は無い。
「そうか。それじゃあ…………これは聞こえる?」
「うん。ちょっとなら」
耳元までの僅かな距離と出した声の大きさを念頭に入れ、再び正面に戻り、これくらいならこの位置でも聞こえるだろうという大きな声で話しかけてみる。
普段そこまで張り上げることはないため、あまり慣れてはいないが、コミュニケーションを取るために仕方ない。
グレイスからの返事を確認し、エヴァンは小さく溜息をついて話を進めることにした。
「……グレイス。まずは……その……すまなかった。僕が無理にでも来ないようにするべきだったんだ」
気を取り直してからの第一声は、後悔と心配からの謝罪だった。
今までの再会した仲間達よりも、グレイスははっきり言ってしまえば戦闘向きでは無い。優しく思いやりのある可愛らしい女性で、殴り合いや攻撃魔法もさっぱり。
その代わり、怪我への修復を個人で回復させる治癒魔法や、ある程度の穢れの浄化など、その性格に似合うような技能をいくつも持ち合わせていた。それに付け加えるならば、ちょっとだけ隠れた度胸もある。
その能力が見込まれたのか、グレイスはエヴァン達と同様に神伐隊に選ばれる。
しかしこうなるとわかっていたならば、自分達の手に負えない存在だと知ることができたなら。今はそれを考えても仕方ないたらればがいくつも脳内を過ぎるが、どうしても考えてしまい、謝罪の念が浮かび上がってくる。
「ううん。大丈夫。私が行きたいって最後に決めたんだから」
それをたしなめる様に、グレイスは弱々しく優しい声でその答えを返した。
事実その当時、最終的な決断を下したのはグレイス自身。それがある以上、余計に責任を感じる必要はないと、エヴァンに対して語りかけるように呟いた。
「……ありがとう。あんまりそういうとこ、変わってないみたいだね」
10年近く前と変わらない優しい女性。言葉の響きだけならば、人によっては不気味さを覚えるかもしれない。
しかしエヴァン達には、歯車が止まったように停滞していたその時間。変わり果てることなく、知っている様子のままでいてくれただけでも嬉しい。
そう思っていたが、グレイスはそれに対して反応を示さず、ただ黙って俯いていた。
一方、まるで二人だけの空間になったような暗い室内。大我達はその空気に、割り込むこととできず黙ってその様子を見守っていた。
「グレイス、少し聞かせてもらいたいことがあるんだ。大丈夫かな?」
その微妙な反応が気にはなるものの、エヴァンはひとまずそれを置いておき、こんな状態の相手に問いただすのとへの胸に刺さるような心苦しさを押さえつけながら本題へと入る。
「うん、何?」
「あの時、僕達がバレン・スフィアの中に取り込まれた時、何か妙なものを見なかったか。穢れに侵された後で何か異常が起きたか。もし話せるなら話してもらいたい」
聴力が削られたその耳にもはっきりと正確に聞こえるように喋るエヴァン。
その後の、瞳の光が無いながらにきょとんとした表情で、ちゃんと聞こえていたのか少々怪しいと思ったが、直後にグレイスは下を向いて考え込むような仕草を見せた。
話す内容を引き出しているのか、しばしの沈黙が流れる。
「アレクシスから聞いた。不老や反転のこと。けど、その先のことは聞けなかった。喋ろうとした時、苦しそうにしてたんだ。もし何か知っているなら……」
それを聞いた直後、はっとしたようにグレイスの顔が起き上がる。
唇を噛み締め、毛布の上からでもわかるように僅かに身体を震わせ、そしてゆっくりと口を開いた。
「そっか。それは知ってるんだ」
「うん?」
「不老と反転、それと私達に植え付けられたのは……口封じと不治」
アレクシスの情報に付け加えるように告げられた新たな呪縛。
口封じというその現象はある程度の察知はついた。それはつい先程のアレクシスがよく表していた。
「口封じっていうのはもしかして、あの中でのこととかを話そうとすると……っていう」
「うん。私達が見たバレン・スフィアの情報、私達が受けた穢れの影響、とにかくそれに関することは誰にも話せないし伝えられない。それをすると、身体を斬り刻まれるような、貫かれるような痛みが襲う。それはやっぱりアレクシスが?」
「ああ。多分その口封じについて話そうとしたのかもしれない。その時にすごく苦しんでた。けど、反転や不老については……」
「たぶん、今のエヴァンみたいに、それを話せるくらいには自力で解呪してたのかも」
「それじゃあ、不治っていうのは……」
「……教会や病院、ユグドラシルのような、怪我や穢れから解放してくれる場所へ向かおうとすると、心が引き裂かれるような苦痛が、肉体じゃなく私達の魂に襲う。誰かが治してくれるのもダメ」
扉からの光差す部屋に戦慄が走った。
それまでの異常は表面に表れるようなものばかりだったため、見た目にもわかりやすいし察することもできる。
だがそれは、身体に仕掛けられた地雷のようなもの。哀れにも思えるその姿を見てしまえば、助けずにはいられない。他人の良心につけ込むような悪辣な仕掛け。表情を歪ませずにはいられなかった。
「そんなものが皆に……ちょっと待って」
その時、エヴァンの中にある疑問が、不安極まりない要素が浮かび上がった。
「グレイスはどうしてそれを……僕と同じように克服を」
証言通りに口封じの呪縛が働いているならば、グレイスの顔は今頃苦痛に歪んでいるはずである。
しかし顔色は変わっておらず、それまでと変わらず平然としているようにしか見えない。
可能性を考えるならば、エヴァンと同じように克服したということを信じたい。
だがそんな様子は一切見られない。もしそれから抜け出せているならば、多少なりともまともに動けているはずである。
「…………ううん。全然。ねえエヴァン、それと、一緒に来てる人達。私の姿を見ても……何も言わないでくださいね」
意味深な前置きを伝え、グレイスは一枚ずつ羽織っていた毛布を右手で取り去っていく。
通常ならば重苦しく息も上がり、汗をかかずにはいられない程の並大抵ではない厚着。そして、最後の一枚になった時、グレイスの首から下の姿がぼんやりと形を現した。
「………………!!」
「ひっ……」
「グレイス……」
全てを晒すまでもなく想像できてしまうそのあまりにも悲痛な姿。
毛布の影から覗かせるその姿。胸や腹部のすべすべとしていたであろう皮膚が破れ、人間であれば内臓にあたる内部機構を露わにした、まるでパーツを抜き取られ打ち捨てられた機械人形のような様相。
毛布と髪で二重に隠れていた額も皮膚が破れており、何があったかを察さざるを得ないような擦り傷が無数に作られていた。
一見無事のようにも見えた右手の指や腕にも夥しい数の噛み傷があり、うっすらと見えた左手の指は、全てあり得ない方向へと曲げられていた。
一枚の毛布によって隠されてはいるが、その太ももや足には無数の刺し傷や切り傷が作られており、左足に至っては足首が壊れそうな程の殴打の痕があった。
痛々しいにしてもその度を超えている。
ティアは背筋が凍りつくような感覚を覚え、瞬間的な嗚咽を抑えながら口を両手で隠し泣きそうになりながら驚愕の声を漏らし、
ラントは息も止まる程の戦慄と、悪夢も見ているかのような現実感の無さ。こんな残酷な、冷酷なことがあっていいのかという憤りの双極的な方向の感情がぶつかり声を失い、
エヴァンは大切な人の死者も同然の直視したくない非情かつ無情な現実に、アレクシスの目を逸らすなという言葉が突き刺さり、憤りを燃やしながら唇を噛み締めて真っ直ぐ見つめ、
そして大我は、凄惨な光景の数々を目の当たりにして積もりに積もった感情に火がつき、歯を食いしばりながら拳を強く、強く握りしめていた。
「私の『反転』はね、五感がとても鈍くなること。無くなることはなくて、ただ本当に、殆ど感じないだけ」
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