第11話 近そうで遠い(「小笠原諸島」)
「高野さん、白河さん、申し訳ない」
八城さんが頭を下げる。
「俺のせいで、
私は唾を呑んだ。多分、今は“ぎょろ目”になっている。
八城さんは、何かを知っているか、関わっている。
「須磨さんに、めちゃくちゃ怒られました。彼女を泣かせるな、恰好悪くても正しいと思うことをしなさい、って。それで俺、須磨さんに全部話しました」
須磨さんに話したことは、まだ誰にも話せないという。
最終決定が出るまで口外してはいけない、と笑顔で釘をさされたのだそうだ。
日付が変わる前に、私達は解散した。
世田谷線のホームで電車を待つ間、スマートフォンのロックを解除して、無料通信アプリを開いた。
メッセージが1件来ている。
『千桜ちゃん、こんばんは。
8月に空いている日がある?』
お姉ちゃんからだ。
多分、お盆に帰ってきて来てほしいのだと思う。
『日にちを指定してくれれば、希望休を入れるよ。』
送信してから気づいた。
私は来月も仕事を続けられるのだろうか。
本社の結論次第では、解雇される可能性もあるのだ。
胸がずきずき痛む感じがした。
お姉ちゃん、ごめんなさい。
出来の悪い妹で、本当にごめんなさい。
翌日は、余計なことを考えないように仕事を遂行した。
気を抜けば、周りから変な目で見られているんじゃないか、と思い込んでしまいそうだから。
定時にタイムカードを押し、さっさと職場を出た。
昨夜は遅かったから今日は早く帰って寝よう、と自分に言い聞かせる。
アパートに着くと、すぐに風呂に入って就寝した。
時間は確認しなかった。
ほとんど暗かったと思うが、カーテンを閉めるときに西の空にわずかなオレンジ色が見えた気がする。
この前のカクテルは、綺麗なオレンジ色だった。
カットオレンジを添えたカクテルを、彼が頼んでくれた。
「シドニー・オペラハウス」はオレンジの皮をむいたデザインなんだって。
おいしかったな。
楽しい時間だったな。
幸せだったな。
なんか、彼に合わせる顔がない。
こんな負けたような顔を彼に見られるわけにはいかない。
沈んだ意識が、ふっと浮かんできた。
スマートフォンのランプが、暗い室内でちらちら点滅している。
メッセージが1件来ていた。
『藪から棒にすみません。
白河さんは彼氏いますか?』
本当に藪から棒だな。誰だ。
『いません。』
返信して、また寝た。
うとうとして、ふっと目が覚めると、またメッセージが来ている。
『そうでしたか。
失礼なことを聞いてしまって、申し訳ありません。
いらっしゃらないものだと思って接していましたので、迷惑だったらどうしようかと思っていました。
変なことを聞いてしまって、申し訳ありません。』
そんなに低姿勢じゃなくても大丈夫なのに。
『いいえ、平気ですよー。』
そこで我に返った。
私は誰とやりとりをしているんだ。
またメッセージが来る。
『そうでしたか。
白河さんさえよければ、今度の休みに一番近い世界遺産に行ってみませんか?』
「英一くん!?」
ついに私は声に出してしまった。
呼びたかった彼の名前を。
何となく、彼のような気もしていたけれど、確認せずに返信していた。
少々愛想がないが、失礼なことは書いていないと思う。
一番近い世界遺産は、どこだろう。
東京都内だと、あれかな。
『一番近い世界遺産て、小笠原諸島ですか?』
送信してから、「違う」と思った。
小笠原諸島は住所こそ東京都だが、いわゆる離島だ。
都内という意味では「近い」といえるが、船の本数は少なく、旅行するには1週間くらい余裕を持たなくてはならないと思う。
「近そうで遠い」世界遺産だ。
『小笠原諸島も良いですね。
江戸時代に無人島ってよばれていたらしいですね。』
彼は優しい。
私の的外れな回答に、乗っかってくれた。
豆知識が添えられているのも、彼らしい。
でも、小笠原諸島は無人島って言われていたんだっけ。
アメリカ人が移住したのが最初だと聞いた気がする。
『そのまんまですね。』
何が「そのまんま」なのか自分でもわからないが、それだけ返信しておいた。
世界遺産検定のテキストを出して「小笠原諸島」の項目を探すが、無人島に関する記述がない。
しばらくメッセージが来ないことを願って、スマートフォンで「小笠原諸島」を検索する。
なんとかペディアによると、1675年に江戸幕府が調査のための船を小笠原諸島に送り、「
小笠原諸島の英語名「ボニンズ・アイランド(Bonin-Islands)」は「
アメリカ人が小笠原諸島に移住したのは、1830年。アメリカ人というより、ハワイ人だ。
私は深く息を吐いた。
彼の知識量はすごい。
私も負けていられない。
一時的かもしれないが、じめじめしていた気持ちがどこかへ行ってしまった。
もうすぐ、梅雨が明ける。
……ところで、一番近い世界遺産は、何なの?
◇ ◆ ◇
「小笠原諸島」
日本国(東京都小笠原村)
自然遺産
2011年登録
小笠原諸島は、大陸と一度も陸続きになったことがない海洋島のため、生物種が独自の進化を遂げた。
世界遺産では、ガラパゴス島やハワイ島が海洋島であるが、それらは海底火山の噴火で誕生した火山島である。それに対し、小笠原諸島はプレートの沈み込みから誕生した「海洋性島弧」である。
陸産貝類の固有率が高く、適応放散(起源を同一にする生物群が、様々の異なる環境に適応し、生理的または形態的に分化すること)の証拠を示している点が評価された。
海も多様な生態系を有している。
海生哺乳類では、絶滅危惧種であるマッコウクジラをはじめ、確認されているクジラだけでも6科23種にのぼる。北太平洋亜熱帯地域に分布、回遊するクジラ類のほぼ全てが含まれ、カリフォルニア湾やメキシコ湾岸で確認される数と肩を並べる。
小笠原諸島は亜熱帯に属し、暮らしやすい気候だが、一般住民が生活しているのは父島と母島のみ。
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