第7話 かりかり、ちくり(「シドニー・オペラハウス」)

 「旅の夜風」は、和風のバルだった。

 キャロットタワーの裏にひっそりと佇んでいて、言われなければ通り過ぎてしまうくらいだ。

 あめ釉のような光沢のある木製のテーブルと椅子、和紙の照明、喫茶店みたいな有線の音楽が落ち着いた雰囲気を演出している。

 私達は、ジン・トニックと鶏の竜田揚げを注文した。

「本当にすみませんでした」

 店員さんが離れると、彼にまた謝られてしまった。

「ナンパみたいですよね。このお店を紹介したかったんです。今日の演奏もおすすめしたかったので、強引になってしまって」

「全然強引じゃないです!」

 駅前で待ち伏せされて、どきっとしてしまったけれど、おそらくこの手段しかなかったのだろう。

 互いの連絡先を知らないのだから。

 私はまた“英一くん”と言いそうになり、「横田さんは」と自分に確認するようにはっきり発音した。

「横田さんは、よく来るんですか?」

 彼は頷く。

「月に1回か2回くらい来ます。演奏とかお酒が目当てで、自分へのご褒美のつもりで」

 彼は、ちらっとカウンターの方に目をやった。

 カウンターの向こうには、ホール担当の人と同じ黒いシャツを着た女性がいた。

 髪をお団子にまとめて、真剣な表情で何かをつくっている。

 手元が見えないので何とも言えないが、マドラーっぽいもので混ぜている動作のような気がする。

 彼の目的は、実はこの女性なのかな。

 かりかり、と掻かれたようなかゆさが胸に生じた。

「えっ……と、横田さん、職場は反対方向だって言っていましたよね? どの辺りなんですか?」

「桜新町です」

 彼は視線を戻して答えてくれた。

 ちょっと安心した。

「桜新町なんですか。私、上町に住んでいるんです」

 私の最寄り駅である世田谷線の上町駅から、東急田園都市線の桜新町駅は、頑張って歩いて行ける距離だ。

「本当に? 近いですね。俺はアパートが“松陰神社前”なんです」

「私のうち、中間地点じゃないですかー」

 どうしよう。お酒が入っていないのに、ぺらぺらと喋ってしまう。

 彼の穏やかな笑顔にだまされているよ、私は。



 ジン・トニックと竜田揚げが来て、乾杯をした。

 ジン・トニックのライム感が爽やかで、暑さが吹き飛びそうだ。

「白河さんは、若くてしっかりしていますよね

 彼は早速、アルコールがまわっているようだ。うん、そうだと信じたい。

「若くもないし、しっかりしていませんよー。もう23歳なんですから」

 あれ? 彼が片手で頭を抱えてしまった。

「俺、25歳です」

「若いじゃないですか!」

「白河さんの方が若いじゃないですか!」

「若くないです」

「可愛いですよ」

「可愛くないです!」


 クールダウンするために、お手洗いを借りた。

 ついでに、スマートフォンでこのお店の口コミを調べてみる。

 評判はとても良い。落ち着いた雰囲気とか、たまにバンドの演奏があることとか。

 「お酒が普通においしい日と、とてもおいしい日がある」という感想もあった。

 お酒、と聞いて、先程の女性を思い出してしまう。その女性を見ていた、彼のことも。

 ちくり、と胸に何かが刺さる錯覚をした。

 私は今日も相変わらずの“ぎょろ目”。服装は、水色のカットソーにインディゴのジーンズ。

 こんな女、印象が悪いだろうな。



 席に戻ると、彼に「大丈夫ですか?」と訊かれた。

 私は「大丈夫です」と返す。

「横田さんの職場は、辞める人とかいますか?」

 うっかり訊ねてしまった。職場の人がいて話しを聞かれていたら、どうしよう。


「いますよ」

 彼はあっさり言い切った。

「職場、介護施設なんです。俺は介護職じゃなくて事務員なんですけど、介護職員は辞める人が多いです」

 彼は介護の事務員さんだったのか。

 穏やかな微笑と、ふわふわした雰囲気は、お年寄りも安心するだろう。

「今年度に入ってすぐ、法人本部の人が来て面談させられましたよ。職員の仲が悪いんじゃないかとか、ケアは充分に行われているかとか、根掘り葉掘り訊かれました。退職者が多いから、本部も気になったのでしょう。何かあってからでは遅いですから」

「本部の人って、よく来るんですか?」

「たまに来ますよ。見学程度ですけど」

 何かあってからでは遅い……彼の言葉が、私の脳内で反響する。

 うちの会社も、その考えがあって成城支店に聴き取りに来たのだろうか。

 社長宛にメールがあったのに、本社が動かないわけにはいかなかったのかもしれない。



 彼は「お手洗いに行ってきます」と席を立つ。

 しかし、すぐにお手洗いに行かず、カウンターに立っていたあの女性店員さんと話していた。

 かりかり、ちくり。楽しそう。

 彼がお手洗いの方へ行き、少し経つと、その女性店員さんがこのテーブルまで来た。

「お連れのかたから、あなたにと」

 私の前に置かれたのは、グラスに入った飲み物。オレンジ色で、グラスの縁にカットしたオレンジが飾られている。

「飲みやすいお酒で、カットオレンジを添えてほしいというご注文でしたので、アフリカンクイーンにしてみました」

 先程の会話はそれだったのか、紛らわしい。

「挨拶が遅れました。わたくしは、横田英一の姉で珱子ようこと申します。弟がお世話になっています」

「白河千桜です! こちらこそ、お世話になっています!」

 私は慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。

 彼のお姉さん・珱子さんは、背が高くて美人だ。

「弟が女の子を連れてくるなんて、初めてですよ。きっと、あなたのことが可愛いんですね」

「違いますよ、私なんか可愛くないです」

「そうでしょうか。きっとあの子、こうに口説きますよ。『シドニーのオペラハウスは、オレンジの皮をむいたデザインなんだ』と。そのためにカットオレンジのお酒をたのんでくれたのでしょう」

 珱子さんは「では、ごゆっくり」とカウンターの奥に引っ込んでしまった。

 入れ違いに彼が戻ってくる。

「すみません、戻りました。お酒、もう来たんですね」

 椅子に座り、カクテルのグラスをのぞき込む彼。

「シドニーのオペラハウスは、オレンジの皮をむいたデザインなんですよね」

 珱子さんの言った通りのことを、彼は口にした。

 私は、にやけてしまう顔を見られまいと、頷くふりをして頭を下げた。

 彼の「姉に思考を読まれる弟」な一面が、可愛らしかった。



 20時になって、有線の音楽が止まった。

 小さなステージでキーボードの演奏が始まる。曲名は確か、「渚のアデリーヌ」だ。

 演奏者は、最近流行の俳優に似た男性。“和製リチャード・クレイダーマン”とあだ名をつけたい。ルックスは全然リチャード・クレイダーマンじゃないけれどね。

 バナナとオレンジの香りの甘いカクテルに、キーボードの演奏。

 途中で我に返って、「これはデートではない」と自分に言い聞かせた。

 世界遺産好きの“同志”による“同志会”だ。

 うん、そうでないと困る。何が困るのかは深く考えない。



     ◇   ◆   ◇



 「シドニー・オペラハウス」


 オーストラリア連邦

 文化遺産

 2007年登録


 デンマークの建築家、ヨーン・ウッツォンによる斬新なデザインのコンサートホール。

 「シェル」と呼ばれる、ヨットの帆のようなシルエットの屋根が特徴。

 14個の完璧なシャープを描いており、みかんの皮をむいたところからインスパイアされたと言われている。

 1959年着工、14年後の1973年に完成。

 20世紀建築のモニュメントとして高く評価されている。

 作者が生きている間に世界遺産に登録された物件は、この「シドニー・オペラハウス」とブラジルの首都「ブラジリア」(建築家オスカー・ニーマイヤーによるデザイン)の2件のみ。

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