第二三話 Das Buch der Dunkelheit

 1(1日目。日曜日)

 弘前は、本屋が多い都市(まち)だ。

 どうやら1920年、今から約100年近くも前に旧制弘前高校、現在の弘前大学が設立されたことと関係があるらしい。

 学都・弘前と言うように、それだけ昔から学生が多く、昔の学生は良く本を読むものだったからだ。

 で、本屋は、ざっと大きなものだけでも、『紀伊國屋書店』、『今泉書店』、『水木書店』、『ブックマックス』等がある。

 古本屋にいたっては、それこそ数えきれないほど、あちこちにあるのだ。

 まあ、最近では大型の古本屋チェーン『ブックオフ』が進出してきて、小さな古本屋は次々と廃業を余儀なくされているのだが。

 さて、俺はそのうちの一件、『弘前古書店』にいた。

 ここは足元から頭の上まで本が積まれている店で、しかも本棚同士の間隔も狭く、凄い圧迫感がある。

 俺は、その本棚をなめるようにチェックしていた。基本は『青背』と呼ばれる早川書房のSFと、東京創元社のSFのコレクターなのだが、たまには本棚の隅なんかに、掘り出し物が眠っているからだ。

 例えば青心社文庫のR・A・ラファティ『トマス・モアの冒険』、例えば新潮社文庫版のダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』、例えばサンリオ文庫。

 今日もそうやって調べていると、妙に大きな古い本が見つかった。

 それは革張りの本で、弘前の古本屋より外国の古い図書館が似合う、いや映画の『ハリー・ポッター』シリーズの小道具の方が似合うような本だった。

 手に取ってみると、表紙には『Das Buch der Dunkelheit』と、美しいけど読みづらい文字で書いてある。どうやらドイツ語の本であるようだった。作者名はない。

 俺は、パラパラとそれをめくった。

「!」

 ドイツ語はもちろん読めなかったが、その挿絵には見覚えがあった。

 それは、神秘思想カバラの『セフィロトの樹』だったのだ。

 他の挿絵もないか、ページを繰って探す。

 次に見つけたのは、 西洋魔術で使われる図形『シジル』。

 間違いなかった。これはドイツ語で書かれた、魔道の本だったのだ!



 2(1日目。日曜日)

 俺は興奮して、レジへその魔道書を持って行った。もちろん英語だって満足に読めないのに、ドイツ語などわかるはずもない。

 だが、俺はこういう本が大好きなのだ。

 レジのおやじは、本をめくって言った。

「うーん。うちは外国語の本は取り扱ってないんだよ。買い取りはできないねえ」

「いえ、違います」

 俺は言う。

「この本、ここの本棚に並んでいたんですよ」

「ええ?」

 おやじは、小さな眼鏡をずり上げた。

「おかしいなあ。そんなはずはないんだけどなあ。ほら」

 おやじは、最後のページを俺に見せる。

「うちの本なら、ここに店名と値段のシールが貼ってあるはずなんだ」

「はあ」

 おやじは、本を閉じた。

「なんでこんな本が紛れ込んだんだろうねえ。まあ留守番させていた息子が、適当に買い取ったのかな。その息子ってやつがね、いい歳してぷらぷらと」

 話が長くなりそうだ。

「で、売ってくれるんですか」

 おやじは、俺の顔を見た。

「外国語の本なんて、値段の相場がわからないんだよ。とても古くて、立派なのはわかるんだけど」

「そうですか」

「君、いつもSFを買ってくれてるだろ? サービスするよ。まけてまけて、3千円でどうだ」

「はあ」

 それが適正価格なのか、俺にもわからない。

 俺は財布を取り出した。



 3(1日目。日曜日)

 俺は家に帰り、机でその魔道書を1ページづつ眺めていた。

 おやじには騙された気がするし、読めもしない本に3千円も払ったのはバカな気もするが、マニアなんだから仕方がない。

 同じマニア仲間の後藤に、明日、自慢してやろう。きっとあいつなら価値がわかり、悔しがるに違いない。

 それに、いつの間にか本棚に並んでいた魔道書なんて、オカルトっぽくてカッコいいじゃないか。

 そうして捲っていると。

 ローブを着た、魔道士がいた。

 その爪は長く、牙は鋭く、額には角(つの)がある。

 悪魔だった。

 俺は途中で、その魔道書を閉じた。



 4(2日目。月曜日)

 俺は自転車に乗って、山の上にある南高校へと急いだ。

 学校に着くなり、後藤に声をかけて、連れ立って視聴覚部の部室に入る。

 そして俺は、カバンから魔道書を取り出した。

「何だそれ?」

「昨日、古本屋で安く買ったんだ。当ててみなよ」

 後藤は、魔道書を手に取る。

「ドイツ語の本だな。美しいフラクトゥールで、タイトルが書かれている」

「フラクトゥールって何だ?」

「なんだ。若松は、そんなことも知らないのか」

 ちっ。後藤は同じマニアだが、こういうところが気にくわない。

「ドイツの活字体だよ。ドイツ文字とも言う。 中世のヨーロッパで広く使われた、写本やカリグラフィーの書体を基にした活字体・ブラックレターの一種だ。 覚えておきたまえ」

 本当にむかつく。ブラックレターが何かなんて、絶対に聞いてやらないね。

「『Das Buch der Dunkelheit』って、どういう意味なんだろう? 英語は大得意なんだけど、あいにくドイツ語は読めなくてね」

 ふん。言ってろ。

「まあ、見てみろよ」

 俺がそう言うと、後藤はページをペラペラと流し読みした。

「古いけど、たいした本じゃないな」

 そうかい、そうかい。

 そして、挿絵が現れた。

「セ、『セフィロトの樹』!」

「な、凄いだろ?」

 後藤が、もう興奮しているのがわかる。

 他の挿絵を探して、次々と捲っていく。

「凄い! 『シジル』だ!」

「そうさ」

 後藤は言った。

「これは、魔道書じゃないか!」



 5(2日目。月曜日)

 後藤は、丹念に挿絵を調べた。

 そして、悪魔を見つける。

「うわ、悪魔の絵だ。何の悪魔だろう?」

「そうなんだ。悪魔召喚の方法でも書いてあるのかな? ちょっと気味が悪い絵だろ。迫力がある、って言うか。そうそう」

 俺は付け加えた。

「あんまり印象に残ったのかな。昨晩、その悪魔が夢に出てきてさあ。黒いローブを着てて」

 そんな俺の話を、後藤は聞いちゃいないようだった。

 それから最後まで、ページを捲った。

「貸してくれ」

「ええ?」

「とても興味がある。ぜひ貸してくれ」

 ふん。誰が貸してやるもんか。

「嫌だよ。俺も、調べてみたいんだ」

「若松は、語学がまるでだめだろ。調べるって、何を一体調べる気なんだ? 時間の無駄だよ」

 本当にむかつくやつだな。

「それでも、俺の本だからな。俺が、調べるんだ」

「せめて、表紙のタイトルだけでも、書き写させてくれ」

 どうしようかなあ。

「いいよ、それくらいなら」

「すまん!」

 後藤はメモ帳を開くと、タイトルを記した。



 6(2日目。月曜日)

 休み時間、別なクラスの後藤がやって来た。

「タイトルの意味がわかったぞ」

「へえ」

 後藤は、こういうところがマニアらしく粘着質だ。

「『Das Buch der Dunkelheit』。『Buch』とは本、書。『Dunkelheit』とは暗黒、闇。つまり、『闇の書』だ」

 闇の書!

 俺は、ぞくり、とした。

 後藤は言う。

「頼む! 本当に調べたいんだ。一晩だけでいい、貸してくれ」

 さーて。どうするかな。

「調べてわかったことは、全部報告するからさ。頼むよ」

 うーん。確かに、自分で調べるよりは、楽かもしれない。

 よし。後藤を使ってやろう。

「しょうがないなあ」

 俺は言う。

「一晩だけだぜ?」

「すまない!」

 後藤は俺から、本当に大事そうに、魔道書を受け取った。



 7(2日目。月曜日)

 俺は、家に帰って来た。

 休み時間に本を受け取ってから、後藤は俺のところに顔も出さなかった。

 現金なやつだ。

 まあ、貸してやるのは一晩だけだ。

 明日になったら調べたことだけ聞いて、もう貸すのはやめにしよう。

 俺は、宿題をやろうとカバンを開けた。

「え?」

 カバンの中には、貸したはずの魔道書が入っていたのだ。



 8(2日目。月曜日)

「ああ。良かった」

 後藤は言う。

「俺、お前に借りたのに、無くしたのかと思って焦ってたんだ」

 そう後藤は、電話の向こうで言った。

「でも、どうして俺のカバンに戻っていたんだろ? 確かに貸したはずだよな」

「そう言われてみれば」

 後藤は、気味の悪い声で言った。

「そんな呪われた魔道書の話を、聞いたことがあるぞ」

「ええ?」

「有名な話だ。そんなことも知らないのか? 貸しても、捨てても、燃やしても、持ち主のところに戻ってくるという、呪われた魔道書だ」

「聞いたことないな。で、戻って来てどうするんだ? 無くならなくて、便利じゃないか」

「若松は、本当に馬鹿だなあ。呪われた魔道書なんだぞ」

 後藤は、言った。

「その持ち主は、ちょうど1週間が終わる時に、死ぬんだよ」



 9(2日目。月曜日)

 その晩、また俺は夢を見た。

 悪魔は確かに、じっと俺を見ていた。



 10(3日目。火曜日)

 俺は、また視聴覚部の部室で、後藤に会った。

 そして、魔道書を渡す。

「貸したからな」

「ああ」

「本当に、貸したからな」

「わかってるって」

 後藤は言う。

「だけど、また、お前の手元に戻って来たらどうする? 1週間以内にどうにかしないと、お前、死ぬぞ」

「やめろって。気持ち悪いじゃないか」



 11(3日目。火曜日)

 俺は家に帰って来た。

 途中、何度も立ち止まり、カバンの中をチェックしながら。

 そうして、部屋に入ると。

「!」

 机の上に、魔道書が乗っていた。

 俺は部屋を飛び出し、妹に尋ねる。

「俺が帰って来る前に、誰か遊びに来なかったか?」

「えー、誰も来なかったよー」

 俺は部屋に戻り、後藤に電話する。

「ちょっと待ってろよ」

 後藤は、そう言った。

「本当だ。今、カバンの中を見てみたら、いつの間にか魔道書がなくなってる」

「そうか」

「やはり、呪われた魔道書だな。早く燃やした方がいい」

「冗談だろ?」

「冗談なものか。お前、本当に死ぬぞ? 明日、燃やしてみろよ。それでも戻って来たら、本当に呪われた本だとわかるだろ」

「まあ、考えてみるよ」

 俺は、電話を切った。



 12(4日目。水曜日)

 俺は朝早く、学校に来ていた。

 理由はもちろん、魔道書を燃やすためだ。

 昨日の晩、寝るまでは呪われた魔道書なんて、半信半疑だったのだが。

 しかし、俺はまた見たのだ。

 3日連続で、悪魔の夢を。

 悪魔は俺を見て、にんまりと笑っていた。

 思い出すだけで、ぞっとする。

 これは確かに、普通じゃなかった。

 俺は学校の焼却炉に、魔道書を投げ捨てる。

 革張りの本は、なかなか火がつかなかったが、やがて黒い煙をあげて、確かに俺の目の前で灰になった。

 これで大丈夫なのか?

 また戻って来たらどうする?



 13(4日目。水曜日)

 後藤の方から話しかけて来た。

「あの魔道書、どうした」

 俺は笑われるかと思ったが、言った。

「燃やしたよ。あんまり気味が悪いんでね」

「そうか、そうか」

 後藤はなぜか嬉しそうだ。

「ここ3日連続で、悪魔の夢を見ててね。信じられるか? やはり、呪われた魔道書だったのかもしれないなあ」

「でも本当に呪われた魔道書だったら」

 後藤は嫌なことを言う。

「また戻って来るんじゃないか?」

「やめろよ!」

 思わず声を荒げてしまう。

「家に帰ったら、電話くれよ。それで、また戻って来てたら、本物の呪われた魔道書だ。何か対策を考えなきゃな」

「ああ」

 その日は授業どころじゃなかった。



 14(4日目。水曜日)

 家に帰り、机の上を見ると。

 全身から、力が抜けた。

 そこには、燃やしたはずの魔道書が乗っていたのだ。

 俺は後藤に電話をかける。

「本当に呪われた魔道書だ! 後藤、どうしたらいい!?」

「ちょ、ちょっと待て」

 さすがの後藤も、怖くなったのかもしれない。

 しばらくしてから、言う。

「燃やしたのに、戻ってきたんだな?」

「そうだって言ってるだろ!」

「わかった。明日、学校に持って来いよ。それで、2人で燃やそう」

「はあ? 1人で燃やしても、2人で燃やしても、一緒じゃないのか?」

「そんなことはないさ。うん、確か俺の記憶では、その魔道書の、真の名前を唱えながら燃やせば、呪いは消えるはずだ」

「そ、そんな大事なことは早く教えろよ!」

「すまん、すまん」

 まったく、他人事だと思って!

 俺は電話を切った。

 しかし。

 魔道書の、真の名前って何だろう?



 15(4日目。水曜日)

 その晩も、悪魔の夢を見た。

 走って逃げる俺を、悪魔はどこまでも追いかけてきた。



 16(5日目。木曜日)

 俺たち2人は、焼却炉の前にいた。

「で、この魔道書の、真の名前って何だ?」

「ふむ。ちょっと貸してくれ」

 後藤は、メモ帳に何か記しながら、本をペラペラと捲る。

 それから、本を閉じて。

「魔道書の、各ページの最初の文字を繋げていくと、その魔道書の、真の名前になる」

「そ、それは!?」

 後藤は、メモ帳を読み上げた。

「エリス・ルル・フォーテシマ・キセス・セノイフォン、だ」



 17(5日目。木曜日)

「エリス・ルル・フォーテシマ・キセス・セノイフォン!」

 俺は、魔道書の真の名前を唱える。

「エリス・ルル・フォーテシマ・キセス・セノイフォン!」

 魔道書が燃え尽きるまで、何度も唱える。

「エリス・ルル・フォーテシマ・キセス・セノイフォン!」

 俺は、後藤を睨む。

 適当に唱えてるのが、わかったからだ。

 俺の命がかかってるんだぞ!

 もっと真剣にやれ!

「エリス・ルル・フォーテシマ・キセス・セノイフォン!」

 俺の声は、ほとんど叫び声に近かった。



 18(5日目。木曜日)

「これで、もう大丈夫なんだな?」

「うーん。どうだろう」

 後藤は、また、あやふやなことを言う。

「呪いは消えた、と思うんだが」

「思う!?」

 思う、って何だ!

「呪いが強力すぎて、真の名前でも、破れなかったかもしれない。家に帰って、また机の上にあったら、次の手を考るしかないな」

「つ、次の手って?」

「呪いを破る呪文の後は、呪いを破る歌だ。呪いを破る、儀式も必要かもしれないな」

「儀式?」

「うん。魔道のジェスチャーを繰り返す。一種の、踊りのようなものだ」

 俺は、この呪いから逃れられるなら、何でもやってやるつもりだった。

 歌でも踊りでも、どんと来いってんだ!



 19(5日目。木曜日)

「ひいっ!」

 悲鳴が出た。

 家に帰ると机の上には、魔道書が乗っていたからだ。

 ほとんど泣きそうになりながら、後藤に電話する。

「助けてくれえ! 俺、死にたくねえよお!」

「わ、わかった、わかった」

「お前、適当にやってるだろ!? 真の名前だって、本気で唱えてなかっただろ!」

「そんなことないよ」

「いいや、違うね!」

 まあまあ、落ち着いて、と後藤は言った。

「明日、学校に持って来いよ。それで、最終儀式を行おう」

「今日、これからじゃ、だめなのか?」

「だめだ。これから夜になるのに、儀式をやるなんて、危険すぎる」

「そ、そうなのか」

「明日、必ずやろう。大丈夫、これで呪いは消えるさ」

 もう、後藤の言うことを信じるしかなかった。



 20(5日目。木曜日)

 また悪魔の夢を見た。

 悪魔は俺を追いかけて来て。

 俺を、ついに捕まえた。



 21(6日目。金曜日)

 俺は学校で、後藤に魔道書を見せた。

 本を捲ると、さすがの後藤の顔も、真っ青になった。

「ば、馬鹿な!」

 馬鹿な?

「そんなはずはない! そんなはずはないんだ!」

 目の前で確かに燃やした本が復活する恐怖を、やっと後藤も理解したのか。

「そうだろう?」

 俺は言う。

「お前に教えて貰った真の名前でも、呪いは破れなかったんだ。さあ、呪いを破る歌を教えてくれ! 儀式を教えてくれ!」

「そんなんじゃ無理だ!」

「無理!?」

 昨日とは、言ってることが違う。

「ちょ、ちょっと考えさせてくれ。必ず、どうにかするから」

「頼むぞ。お前だけが、頼りなんだ」

 後藤は、ああ、と上の空で返事をして、去って行った。



 22(6日目。金曜日)

 放課後。

「何か、考えてくれたか? 思い出したか?」

 俺は、後藤に詰め寄る。

「結論から言うと」

 後藤は、いつになく、真剣な顔だ。

「俺には無理なようだ」

 えええ!?

「俺以外で、どうにかできそうな人に頼んでみる。その人は弘前で、鬼退治を専門にしているんだ。悪魔と鬼は違うかもしれないが、どうにかしてくれる、と思う」

「この弘前に、そんな人がいるのか」

「ああ。俺も、噂で聞いただけなんだが。名前は」

 後藤は言った。

「レイゼイ。伊吹冷泉さんって言うんだ」



 23(6日目。金曜日)

 俺は、学校から帰る前、魔道書を燃やした。

 これで3度目だった。

 また戻って来るだろうと、俺はもう諦めていた。



 24(6日目。金曜日)

 やはり家に帰ると、机の上には魔道書が乗っていた。

 その日の夜遅く、やっと後藤から電話がかかってきた。

「見つかったか!?」

「ああ。ようやく人に聞いて、その人がまた人に聞いて、という感じでネットワークを駆使して、ようやく本人にたどり着いた」

「それで?」

「明日、7日目だろう? 学校なんかサボれ。朝の8時、一番町の『珈琲専科 壱番館』で会おう」

「わかった。ちなみに、今日も魔道書を燃やしてみたんだけど」

「だめだったか」

「ああ。だめだった」

「伊吹冷泉さんなら、きっとどうにかしてくれるさ。安心しろ」

 確かに、その人だけが、最後の頼みの綱なのだった。



 25(6日目。金曜日)

 悪魔の夢を見た。

 悪魔は俺を捕まえて、首を絞めた。



 26(7日目。土曜日)

 俺たちは、朝8時10分過ぎ、『壱番館』に入った。

 すでに伊吹冷泉さんは座っていて、コーヒーを飲んでいた。

「すみません。お待たせしましたか?」

「大丈夫です。僕は少し、時間に正確すぎるのです」

 伊吹さんはまるで、女性のように美しい人だった。

 上も下も真っ白なスーツを着ている。それに青いネクタイ。傍らには、白い帽子と日本刀を置いている。

 一番特徴的なのは、その長い髪だ。腰までもある。あとは白い肌、赤い唇。

「では、これまでの経緯(いきさつ)を話して貰えますか?」

 俺は、古本屋でその魔道書を見つけてからのことを、こと細かく話した。真の名前を唱えても、呪いは破れなかったことも。毎晩、悪魔の夢を見ていることも。死ななかったものの、首を絞められたことも。

「ふむふむ」

 伊吹さんは言う。

「悪魔と鬼は違う気もしますが、そんなことも言ってられませんね」

「はい」

「では、その魔道書『Das Buch der Dunkelheit』を見せて頂きましょう」

 俺は、カバンを開けた。

「!」

 顔が、青ざめていくのがわかる。

「な、ない! 魔道書がないぞ!」

 後藤も叫ぶ。

「なんだって!」

「まあまあ、落ち着いて。どうやら、僕を恐れて魔道書は逃げましたね」

「そんな!」

「不思議なことではありません。それにしても」

「はい」

「この話には、おかしな点がたくさんあります。僕はこれでも、オカルトに関しては結構な知識を持っているつもりなのですが、『貸しても、捨てても、燃やしても、持ち主のところに戻ってくるという、呪われた魔道書』など、今まで聞いたことがありません。本当に有名な話なのでしょうか?」

「ええ?」

「次に、ページの先頭の文字を繋げれば、真の名前になるというものです。これも、初耳なのです。そんな話は、聞いたことがありません」

 俺は、開いた口が塞がらない。

「その何ですか? エリスむにゃむにゃという呪文は、本当に真の名前なのでしょうか? そもそも、魔道書に真の名前なんて、存在するのでしょうか?」

 俺は、嫌な予感がしてきた。

「真の呪文がだめでも、歌がある? 踊りのような儀式がある? うーん。僕は、そんな話は聞いたことがないのです」

「つまり?」

 伊吹さんは言った。

「後藤君。この話の発端は、あなたの創作に過ぎませんね?」



 27(7日目。土曜日)

「てめえ!」

 俺は、後藤に殴りかかった。

「創作ってどういうことだ!」

 後藤は、泣きそうな声を出す。

「ほ、ほんの冗談だったんだよお!」

 伊吹さんが、俺を止めた。

「若松君、落ち着いて。後藤君を殴っても、何も解決しませんよ。まずは、話を聞きましょう」

「う、う、う」

 後藤は、ゆっくりと話し始めた。



 28(7日目。土曜日。後藤から2日目についての告白)

 俺は若松から、その魔道書を見せられました。

 得意気になっているのがわかります。

 俺は、本当に悔しかったんです。

 自分より格下だと思っている若松が、こんな面白そうな本を手に入れたなんて!

 マニアとして、許せません。

 俺は、その魔道書を、丹念にページを捲りました。

 ドイツ語は読めませんでしたが、挿絵がありますから。

 すると。

 写真が載っていました。

 それは、アレイスター・クロウリーの写真でした。

 ああ、伊吹さんはご存じですか。そう、『法の書』などで有名な、イギリス出身の、20世紀最大の魔術師と呼ばれる人物です。

 まあ、写真が載っているだけで、この『Das Buch der Dunkelheit』が、そんなに古い本でないことはわかりますよね?

 しかも、クロウリーの写真には、こういう注釈がありました。

 1875ー1947。

 俺は、がっかりしました。つまりこの本は、1947年以降に出版された物だということです。それは戦後、多く見積もっても約65年前の本なのでした。

 とたんに、俺は、興味がなくなりました。古く見えますし、まあ価値がないことはないのでしょうが、魔道書としてはつまらない部類の本です。

 そんな本を自慢げにしている、若松が滑稽に思えてきました。

 そこで俺は、いたずらを思い付きました。

 はい。伊吹さんの推測通り、それは『貸しても、捨てても、燃やしても、持ち主のところに戻ってくるという、呪われた魔道書』という嘘です。

 俺はその魔道書のタイトルをメモさせて貰うと、一応、事典でタイトルの意味を調べました。『闇の書』。うん、いたずらにはぴったりの名前です。

 そうして俺は頭を下げて、魔道書を借りました。

 俺は返す前に、クロウリーの写真のページをきれいに切り取りました。鈍い若松でも、この写真を見ているうちに、ひょっとしたら年代の新しさに気が付くかもしれない、と思ったからです。

 俺は、その魔道書を、若松が体育の授業でいない時に、こっそりとカバンに戻しました。

 以降は、若松の話し通りです。

 俺は魔道書が消えたふりをして、電話で『呪われた魔道書』という嘘をつきました。



 29(7日目。土曜日。後藤から3日目についての告白)

 次の日も、俺は再び本を借りました。

 またカバンに戻すのは、芸がありません。

 すぐにばれるかもしれませんし。

 俺は、授業が終わると、急いで若松の家に行きました。

 そうして妹さんに頼み、机の上に乗せて貰ったのです。

 もちろん、妹さんには、内緒にして貰う約束をして。

 その夜、俺は本を燃やすようにそそのかしました。

 若松が自慢している魔道書が、燃えてなくなるなんていい気味です。



 30(7日目。土曜日。後藤から4日目についての告白)

 次の日。

 若松は学校で、本を燃やしたと言いました。

 本当に、馬鹿な奴だなあ! と俺は思いました。

 とどめを刺します。

「でも、本当に呪われた魔道書だったら、また戻って来るんじゃないか?」

 若松は、震えあがっていました。

 これで、家に帰って本がないことを確認するまでは、怖くて怖くてたまらないでしょう。

 ああ、楽しかった。

 俺は、そう思っていたのです。

 ところが。

 家に帰ると、若松から電話があります。

 燃やした魔道書が、また戻って来たと言うのです。

 俺は、どういうことだろう? と考えました。

 すぐにわかりました。

 どうやら、妹さんの口から、俺が魔道書を机に乗せてくれ、と言ったのがばれてしまったのでしょう。

 若松は、本を燃やしたと俺に嘘をついたに違いないのです。

 若松のくせに、俺をだまそうとするなんて!

 ようし、やってやろう。俺は、そう思いました。

 そこで俺は、魔道書の真の名前、という嘘を新しく思い付きました。

 それを唱えながら、2人で燃やすというものです。

 明日、若松は、嘘の真の名前を口にするのだろうか?

 可能性の1は、俺のデタラメはすでにばれていて、真の名前は唱えないです。

 そんな幼稚な手には乗るもんか、とか、よくも騙してくれたな、とか若松は俺に言うでしょう。

 可能性の2は、俺のデタラメはすでにばれているけど、真の名前は唱えるです。

 俺はすべてお見通しだけど、お前の嘘に乗ってやるぞ、というものです。まあ、そういう可能性はあります。

 可能性の3は、これはありえないと思ったのですが、俺の話を信じているけど、真の名前は唱えないです。

 まず前提がおかしいですよね。俺の話を信じているということは、本は燃やしたのに戻って来たということなのですから。

 だから、可能性の4も、ありえません。俺の話を信じていて、真の名前を唱えるです。

 明日、若松はどうするのだろう?

 俺のデタラメが、もうばれているのは確実ですが、真の名前を唱えるか、唱えないか。

 俺は、たぶん1だろうなあ。さすがに謝らないとだめだよなあ。と思いながら、床につきました。



 31(7日目。土曜日。後藤から5日目についての告白)

 そしてまた次の日です。

 俺は燃やす前に、魔道書の真の名前をメモするフリをして、クロウリーの写真のページが切り取られているか調べました。だって若松が、同じ本を複数持っている可能性だってあるわけでしょう?

 ページは、確かにありませんでした。

 俺は若松に、嘘の真の名前を教えました。エリス・ルル・フォーテシマ・キセス・セノイフォン。

 これは深夜のおたく向けアニメ、『魔法少女シャイニー☆アップル』の、変身の呪文なのです。

 わあ!

 落ち着け、若松!

 俺が悪かった!

 うん。

 続けますよ。

 それで、若松は、懸命にその真の名前を繰り返しました。

 すると、可能性の2だったわけです。

 その意味するところは?

 まあ、大体わかります。俺が笑ってしまって、俺からバレるように仕向けているのでしょう。俺が笑ったら、真面目にやってるのにどうして笑うんだ、とか言って、俺を問い詰めるというわけです。何だか、手がこんだやり方ですが。

 だから俺は、笑いそうになるのを必死にこらえました。笑ったら負けです。

 笑うのを我慢しながら、俺は、嘘の真の名前を唱えました。

 そうして燃え尽きた後。

 俺はこれで、もう魔道書遊びは終わりだと思いました。

 だって、俺の目の前で、しっかりと燃えてしまったのですから。

 しかし、ここまで来たら、嘘を突き通すのもありでしょう。

 俺は、若松に、呪いは破れなかったかもしれない、また机の上にあったら、次の手を考えるしかない、と言ってみました。

 すると。

 若松の顔が、さっと青ざめるのです。

 あれ? ずいぶん芝居がうまいんだなあ、と思いました。

 だって若松は、俺のデタラメに気がついているはずなのです。

 そうじゃなければ可能性の4、俺の話を信じていて真の名前を唱える。つまり、魔道書は、本当に戻って来ていた、ということになるからです。

 俺は、次は歌だとか、次は踊りだとか、またデタラメなことを言いました。

 まあ、次なんてありえないのです。

 繰り返しになりますが、俺の目の前で、燃えてしまったのですから。

 そして夜です。

 若松から電話がありました。

 魔道書が、また戻って来たと言うのです。

 そんなことはありえません!

 だとするなら。

 若松が、嘘を言っている。それしかないでしょう。

 理由?

 俺を、怖がらせるためでしょうか? 本当に戻って来る魔道書があったなら、確かに怖い話です。しかも本当に、持ち主がちょうど1週間が終わる時に死ぬのなら!

 俺もしょうがないので、若松の嘘に付き合います。騙されているフリをして。

 そして、明日また儀式、俺は最終儀式と言いましたが、それをやろうと言って、電話を切りました。

 明日、若松が、魔道書を持って来るわけがありません。

 だって何度も繰り返しになりますが、魔道書は燃えてしまったのですよ!

 俺は、それで寝ました。



 32(7日目。土曜日。後藤から6日目についての告白)

 そして、昨日の話です。

 若松は、魔道書を持って来ていました。

 やはり魔道書が複数あったのだろうか?

 俺はページを捲ると、愕然としました。

 その魔道書には、確かにクロウリーの写真のページがなかったのです!

 俺は冷静に考えます。

 若松は同じ魔道書を複数持っていて、同じようにクロウリーのページをきれいに破った。

 うん。それなら辻褄が合いそうです。

 しかし、俺は念のために昨日、もうひとつ仕掛けをしていたのです。それは小さな、本当に小さな落書きでした。どうやったって、それに気が付くわけはないのです。

 しかし。

 手元にある魔道書には、その落書きも、確かに残されていたのです。

 俺も怖くなりました。

 どうして、こんなことになったのだろう?

 俺は考えました。

 どうやら、結論はひとつしかないようです。

 これは本当に、戻って来る魔道書なのだ。

 これは、俺の手に負えない。

 俺は、伊吹冷泉さんの噂を思い出しました。

 この弘前で、鬼退治を専門にしているという人です。

 俺は若松に、伊吹さんのことを教え、家に帰ると、知り合いに電話をかけまくりました。

 そうして夜遅く、伊吹さん本人に、やっとたどり着いたというわけです。

 俺は若松に、明日『壱番館』に来るよう言いました。

 そして俺は、また燃やしたのに、魔道書が戻って来たことを知りました。

 嘘ではない。今では俺も、そう素直に思いました。



 33(7日目。土曜日)

 俺はもう、後藤を殺したくてしょうがなかった。

 最初はデタラメだったって?

「嘘から出た誠というやつですね」

 伊吹さんは言う。

「やはり魔道書で遊ぶのは、間違いだったようですよ。魔道書とは、たとえ印刷されたものであっても、取り扱いには気を付けるべき物なのです。神社で売っている『お守り』だって、みんな粗末には扱わないでしょう?」

「すみません」

 すみません、じゃねえよ!

「それにしても困りました。その魔道書は、燃やしてもだめなんですね? 僕の伝家の宝刀・津軽正宗で二つに切ったら、どうなんでしょう? うーん。それが一番なのかなあ。でも、それはまだ、何とか読むことができるしなあ。読みづらいけど、まだ魔道書と呼べないこともない」

 伊吹さんも、悩んでいるようだ。

「今日の深夜12時に、持ち主の手元にあるかどうかが生死の分かれ目だ、というのは確定ですね。ねえ、発端を作った後藤君?」

「そうです。俺は、それがちょうど1週間が終わる時だとして言いました」

「では、魔道書の持ち主とは、どういう状態のことでしょう?」

 俺は答える。

「手に持っている、でしょう。いや、カバンや本棚に入っているのも持ち主ですね」

 後藤も答える。

「そうか? そもそも部屋にあるだけで、持ち主じゃないのか?」

「うーん。ここは後藤君の意見を取りましょう。その方が安心だと思いますので。つまり魔道書が、深夜12時ちょうどに、若松君の部屋の中にあったら、死ぬのです」

 俺の背中を、冷たい物が走った。

「これから、若松君の家に行きましょう。どうやら、準備が必要なようです」



 34(7日目。土曜日)

 俺と伊吹さんは、俺の家にやって来た。後藤は、もう邪魔なだけなので、帰らせた。

 俺の部屋を見回し、言う。

「魔道書は、部屋の中にはありませんね」

「わかりますか」

「わかりますよ。これでも、鬼退治の専門化なのですから」

「そうですよね。ごめんなさい」

 いえいえ、と伊吹さんは言った。

「多くはないですが、家具がありますね。ベッドや机の下に潜られたりしたら厄介です。運び出しましょう」

「ええっ!?」

「この部屋は、マンションの2階です。車が突っ込んだりする可能性はありませんが、それでも窓から、何かが侵入しようとする可能性はあります。強化ガラスに変えましょう」

 命を守るためとは言え、おおごとになって来た。

「どちらも業者を手配します。それから、この部屋は引き戸で、鍵が付いていませんね」

「それが何か?」

 伊吹さんは、説明する。

「魔道書が入って来れないように、結界を張りたいのです。誰かがドアを開けたりしたら、結界は破れてしまいます。魔道書が侵入して来るでしょう」

「じゃあ、どうしたら?」

「鍵を取り付けます。こちらも業者に任せます」

 そう言って伊吹さんは、携帯を取り出した。



 35(7日目。土曜日)

 伊吹さんの電話で、昼過ぎに引っ越し業者はやって来た。

 次々と家具を運び出して行く。

 俺は、親に説明するのが大変だった。

 とにかく、明日にはまた元に戻すから、の一点張りしかなかった。

 俺に、明日があればなのだが。

 そうして部屋には、壁掛け時計とカーテン以外、何もなくなった。

 その後、別な業者がやって来て、強化ガラスに取り替える。

「すみませんね。こんな短期間で施工するなんて初めてでしょう?」

「いいんですよ。伊吹さんには命を助けられた、大事な恩があるんですから」

 平行して、また別な業者が、引き戸に鍵を取り付ける。

「電話でお話した通り、絶対開かないようにしてくださいね」

「伊吹さんの仰る通りに致しますよ。鍵は、2重に取り付けます。これでも足りないですかねえ?」

「大人の力でも開きませんか?」

「プロレスラーの力でも、絶対、鍵は開きません。むしろ先に、ドアが壊れるでしょう」

「ふむふむ」

 伊吹さんは、安心したようだ。

 今度は、壁掛け時時計を指差して言う。

「あれは正確ですか?」

「はい。電波時計ですので」

「では、最後に。両親に、深夜11時30分から12時の間、絶対にドアを開ようとしないよう、言っておいてくれますか」

「わかりました」

 それから、伊吹さんは言った。

「では、僕は、ちょっと出掛けて来ます。10時ちょうどには、必ず戻って来ます」



 36(7日目。土曜日)

 伊吹さんは、夜の10時を10分ほど過ぎた頃に、戻って来た。

 伊吹さんは、また部屋を見回して言う。

「うん。部屋に魔道書はありませんね」

 ホームセンターに寄って来たようだ。

 ビニール袋には、ゴム手袋と、片手で何とか持てるくらいのドラム缶が入っている。

「それは何です? ペンキですか?」

「秘密兵器ですよ」

 伊吹さんは、笑ってみせた。

「これが、勝負を決めるのです。そちらは?」

「母親には、高校の先輩が、勉強を教えに来てくれる、と言っておきました。遅くなるけどきちんと帰るから、部屋には来るな、と」

「うん。それは良い考えでしたね。では」

 伊吹さんは、驚くようなことを言う。

「本当に、勉強でもしましょうか?」



 37(7日目。土曜日)

 伊吹さんは、教えるのが上手だった。

 こんな時でなければ、もう少し俺も集中できただろう。

 そうして。

 伊吹さんは、言った。

「来ましたね」

「ええっ?」

「カーテンを開けてはいけません。鬼を見ると、一種の催眠術をかけられてしまうことがあります」

「はい」

「さあて」

 伊吹さんは、壁時計を見る。

「今は、約11時30分。あと30分、守りきれば我々の勝ちです」

 窓に何かが、ぶつかる音がする。

 コン、コン、コン、と。

 カーテンを少しだけ開けて、伊吹さんは外を覗いてみた。

「窓に、本がぶつかっています」

「割れませんか!?」

「結界を張っているから、鬼には割れません」

 伊吹さんは、手にゴムの手袋をはめ、ドラム缶の蓋を開けた。

 そのドラム缶の横には、何も書かれていない。

 部屋に、以前どこかで嗅いだことがあるような、独特の臭いが充満する。

 11時35分。

 ドンドンドン。

 ドアを叩く音がする。

 母親だった。

「先生から電話があったわよ! あんた、今日、学校をサボったでしょ!」

 俺は伊吹さんを見る。

「本物のお母さんです。鍵を取り付けたのは、正解でしたね」

 母親は、ドアを開けようとする。

「開けなさい!」

 俺は、言い返す。

「こんな時間に、先生が電話をかけてくるはずないだろ!」

「いいから、開けなさい! 何やってるの!」

 俺は、壁かけ時計を見た。

 11時40分。

「あと20分! あと20分経ったら開けるから!」

 その時、伊吹さんが叫んだ。

「警察官が来ました!」

「ええっ!?」

「鬼に操られています。まあ、この窓は破れないと思いますが」

「はい」

「カーテンを開けます。こちらは見ないで下さいね。とても危険です」

 11時50分。

 窓を激しく、恐らくは警棒を叩きつけている音がする。

「どこからか『はしご』を見つけてきて、上って来てしまいました。割れないとは思うのですが。時間を、教えて下さい」

 俺は叫ぶ。

「11時55分!」

「時間になったわよ! 早くドアを開けなさい!」

 母親に向かって怒鳴る。

「あと5分もあるじゃないか!」

 伊吹さんが叫ぶ。

「しまった! 警察官は、拳銃を取り出しました!」

 えええええ!

「残り時間は!」

「あと2分です!」

「もういいでしょ! 開けなさい!」

「うるさい! だまってろ!」

 パン!

 と音がした。

「強化ガラスは持ちこたえています!」

「伊吹さん、あと1分です!」

 パン! パン!

 また乾いた音がする。

 そして時計は。

「ちょうど12時です!」

「そのようですね。警察官は、『はしご』から、転がり落ちました」

「じゃ、じゃあ!」

「はい、我々の勝ちです」

 俺は力が抜け、床に座り込んだ。

「今の花火の音は何!? 早く開けなさい!」

 俺は壁の掛け時計を見た。

「12時1分です。もう大丈夫ですよね?」

「はい、開けてもいいですよ」

 俺はひとつひとつ、鍵を外した。2つも鍵をかける必要はなかったかも知れないが、それでも、伊吹さんの言うことを聞いて正解だった。

 もし強化ガラスじゃなかったら、今頃、窓は割れ、魔道書は部屋に侵入していただろうし。

 ドアを開けると。

 その足元の隙間から、さっと入るものがあった。

 魔道書だった。



 38(8日目。日曜日)

 はっ!

 俺は時計を見る。

 1時15分。

 すると。

「目が覚めましたか」

 どうやら俺は、床に伸びていたらしい。

 相変わらず、部屋は独特の臭いがする。

「若松君は、魔道書を見るなり、気を失っていたのですよ。正確には失わされた、なのですが」

「それよりも! どうして俺は助かったのですか!?」

「危ないところでした。ほんの数秒だけだと思うのですが、僕の秘密兵器の方が早かったようです」

「でも12時は、1分も過ぎていたでしょう?」

 伊吹さんは、頭を下げた。

「すみません。僕のミスでした。電波時計とはいえ、いつのまにか魔道書の力に寄って、狂わされていたのです。自分の腕時計を見るべきでした」

 俺は思い出していた。伊吹さんは自分のことを、少し時間に正確すぎる、と言っていたのだ。

 なのに伊吹さんは、壁掛け時計で、10分も遅れてやって来ていた。

「魔道書は、12時数分前に、部屋に飛び込みました。なぜ12時ちょうどまで待たなかったのか? 僕は、鬼の気配を察知できます。察知したら、またドアを閉めてしまうでしょう。それよりは、少しでも早く部屋に飛び込んだ方が、勝つ確率は高いと判断したのでしょうね」

「その後は?」

「僕は、魔道書を捕まえました。これでも、僕は素早いのですよ? それに、魔道書は油断していたのかも知れませんね。もう部屋に入ったから、自分の勝ちなのだ、と」

「でも、伊吹さんは勝った」

「はい。秘密兵器を使ったのです」

「ドラム缶ですね」

「はい、あれは」

 伊吹さんは言った。

「即効性の、接着剤だったのです」



 39(日曜日。8日目)

 僕は、若松君の家を出た後、(弘前市立)図書館に行きました。遊んでいたわけでは、ないのですよ?

 それは司書さんたちに、相談するためなのでした。

 僕が、とても困っているのだと言うと、2人の司書さんが詳しい事情も聞かず、知恵を貸して下さいました。

 僕が相談したのは、こうです。

『本はどこから、本ではなくなるのか?』

 僕は言います。

「本を真っ二つに切ったら、それは本でしょうか?」

「それは繋ぎ合わせれば読めますから、まだ本ですね」

「あたしも、修復できるから、まだ本だと思います」

「なるほど」

 僕は、さらに尋ねます。

「つまり、文字が読めなくなったら、それは本ではない、ということですね」

「そうです。すべての文字を消したら、もう読めないでしょう? それは本ではありません。普通『ノート』とか『メモ帳』などと呼ばれます」

 でも、すべてのページの文字を消す時間は、なさそうです。

「いいアイデアだと思います。つまり本ではなく、別な呼び方があれば良いのです。じゃあ逆に、真っ黒に塗りつぶした本は、本ではありませんか?」

 2人はしばらく考えます。

「うーん。それは、『塗りつぶされた本』と呼ばれますね。読めないけど、本なのです」

「なぜでしょう?」

「落書きされても、本は本でしょう? じゃあ、塗りつぶされていても、それは本ではないか、と思ったのです」

「つまり、文字が読めるかどうか以外に、本を本とする要素があるわけです。それは何でしょう?」

 2人はまた悩みます。

「ページを捲ることができるかどうか、かなあ。捲ることができるのは、本の重要な要素のひとつですから」

 なかなか難しくなってきました。

「文字が読めなくて、ページを捲れないものは、本ではない。ここまではいいですね?」

「はい。シュレッダーにかけられた本も、もう本ではありませんね。読めませんし、ページを捲ることもできません。それは普通、『紙ゴミ』と呼ばれます」

 残念ながら、シュレッダーにかける時間もなさそうです。

 それでも、答えに近づいて来た気がします。

「溶かしてドロドロにしてしまえば、それは読めないですし、ページも捲れませんから、本ではないと思いますよ」

 それは確かなのですが、燃やしても復活する魔道書なのです。この手は効かないでしょう。不死鳥みたいに、灰から復活する可能性もありますから。

 女性の司書さんが言いました。

「鍵が付いた本は、えーと、本ですよね。ごめんなさい」

 何かが閃きました。

 閉ざされた本は、本ではない。

「紐で縛ってしまえば、それは本ではないでしょうか?」

「いいえ。紐を切ってしまえば、また開いて読めますから、本です」

 ならば、もう二度と開けなければ、本ではない。

「では、接着剤で開けなくなった本は、本なのでしょうか? もう開くことはでないので読めませんし、ページを捲ることもできません」

 2人は悩みます。

「それは『接着剤で閉じられた本』と呼ばれるのかなあ? でも、もう本という物じゃない気はしますね」

「ふむふむ」

「あたしも、それはもう、本ではないと思います。本の形をした、本以外の何かなのです」

 あと一歩です。

「それは、何と呼ばれるのが相応しいと思いますか?」

「それは本の偽物。『オブジェ』、『飾り物』ですね。ただの本の形をした『物』でしょう」

 答えが出ました!



 40(8日目。)

「つまり、伊吹さんは、魔道書という本を、本ではなくしてしまったのですね」

「そうなのです」

 伊吹さんは、楽しそうに言う。

「魔道書とは何か。魔道について書かれている、本ですね。魔道について書かれていなければ、それは魔道書ではありません。でも、本を書き換えるわけにはいきませんね。ならば、それを、本ではないものにしてしまえばいい、僕はそう考えたのです」

 まあ、理屈としては、そうなのかもしれない。

「本でなければ、それはただのモノなのです。魔道について書かれていようが、法律について書かれていようが、料理について書かれていようが、接着剤で閉じてしまえば、もう本としての『価値』はありません。ならば、そんなもの、魔道書ではないのです。怖がる必要はないのです。魔道書だったモノ、ただのモノに過ぎないのですから」

 恐ろしい論理だ。

「僕はホームセンターを何軒か回り、ありったけの即効性接着剤を買い込み、同じく買ったバケツに入れました」

「あれが、そうだったんですね」

「以降は簡単です。僕は本を捕らえると、バケツに突っ込んでやりました。まあ、さすがに抵抗はしましたが。取り出してから乾くには、数秒かかりました。そして僕は、とどめとして、魔道書に呪文をかけてやったのです」

「呪文?」

「それは本を、本ではなくする呪文なのです」

 そんなものがあるのか。

「良ければ、それを教えてもらってもいいですか?」

「いいですよ。『Sie sind kein Buch!』です」

「ドイツ語ですね」

「はい。訳すると」

 伊吹さんは、にっこりと笑った。

「『お前は本ではない!』なのです」

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