第一〇話 子供の約束

 1

 小学校3年生の息子、健太が言うことには、その子は、息子がいじめられている時にどこからともなく現れて、息子を助けてくれたんだそうです。

 どこの小学校の生徒かはわかりませんが、同じ3年生だということで気が合い、それ以降、健太は、その子と良く遊ぶようになりました。

 健太はゲーム好きのインドア派だったのですが、その子と知り合ってから、外で遊ぶようになりました。

 私は、健康的で、とても良い傾向だと思いました。



 2

 ある日、健太をいじめていたグループの中の一人の、そのお兄さんという小学校6年生の生徒がやって来たそうです。

「俺の弟をいじめたな?」

 そのお兄さんは、息子たちに因縁をつけてきたのだそうです。

 お兄さんは、健太の友逹に、有無を言わさず殴りかかりました。

 しかし友達は逆にやっつけ、馬乗りになって何度も殴ったんだそうです。

 そのお兄さんが泣き出しても、殴るのをやめません。

 健太は怖くなって、「もうやめようよ」と止めに入ったそうです。

 するとその友達は、「健太がそう言うなら」と、やっと殴るのをやめたんだそうです。



 3

 ある日、健太が言いました。

「日曜日、岩木川で遊びたいんだけど、いい?」

「誰と行くんだ?」

「友達だよ」

「名前は?」

「知らない」

 名前も知らない友達と親しくしているなんて変なものだなあ、と私は思いました。

 私は、川遊びには保護者が必要だと思いました。溺れたら大変だからです。

「パパも一緒に行っていいなら、いいよ」

 健太は大喜びしました。



 4

 週末、健太は風邪をひいてしまいました。

 本人は大丈夫だよ、と言いますが、熱が40℃近くもあるのです。大丈夫なわけがありません。

 健太は泣いて、

 約束したのに。

 川に行って遊びたいよ。

 と訴えるのです。

 私たち夫婦は、なだめすかすのに苦労しました。



 5

 すると、お昼近くでしょうか、インターホンが鳴ります。

 私は、インターホンに向かって話かけました。

「どちら様でしょうか?」

「健太の友達だよ」

 ああ、彼が噂の友達なのか。

「健太はね、風邪をひいてしまったんだ」

「それで?」

 察しが悪い子です。

「風邪をひいてしまったから、遊びに行けないんだよ」

「だめだよ」

 その子は言います。

「約束したんだから、川遊びに行くよ。おじさんが連れてってくれるんでしょ?」

「だから、だめなんだよ」

「どうして?」

「風邪をひいているからさ。風邪が治ったら、遊びに行こうね」

「そうか。風邪が治ったら、遊びに行けるのか」

「そうだよ。もちろんじゃないか」

「わかった。また来る」

 その友達は、やっと帰って行きました。



 6

 健太の熱は、夜中の12時頃、やっと平熱に戻りました。

 心配していたのですが、あと数日休めば、また元気に学校に通えるに違いありません。

 私たち夫婦はほっとして、寝室に入りました。

 すると。

 インターホンを鳴らす者があります。

 こんな夜中に誰だろう?

 私はインターホンに出ました。

 するとそれは、健太の友達だったのです。

「風邪は治っただろう? 遊びに行こうよ」

 どうして熱が下がったとわかったんだろう?と私は不思議に思いました。

 しかしそれよりも、その時は、本当に非常識な子だなあ、と思ったのです。

 親は一体、こんな時間に外をうろつかせるなんて、どういう教育をしているのだろう?

「確かに熱は下がったけど、遊びには行けないよ」

「どうして?」

 どうしてもこうしてもありません。

「もう深夜だよ。こんな時間に遊びには行かないよ」

「どうして?」

「ちょっと上がって来なさい」

 私はマンションの下のオートロックを開けました。直接、注意してやろうと思ったからです。

 チャイムが鳴らされました。

 私は、ドアチェーンを付けたまま、ドアを少し開けました。

 すると。

 その隙間から子供の手とは、いいえ、人間の手とは思えない腕が、にゅうっと伸びてきたのです!

 その腕は驚くほど爪が長く、そして太く、毛むくじゃらでした。

 その腕は、ドアチェーンを外そうとまさぐります。

 ああ、人間の腕の関節が、あんな方向に曲がるはずがないのに!

 私はドアに体当たりしました。

 腕がドアに挟まります。

「痛いよ。おじさん、痛いよ」

「帰れ! 帰るんだ!」

「だって風邪が治ったら、川に行こうって約束したじゃないか」

「風邪はまだ治っていないんだ!」

 私は怒鳴ります。

「嘘だ。熱は下がったはずだ」

「お医者様が、『治った』と言うまで、風邪は治ったとは言わないんだ!」

「お医者様?」

 するすると腕が引っ込みます。

「お医者様が『治った』と言えば、治ったんだな?」

「そうだ!」

「じゃあ、来週の日曜日、また来る」

 健太の友達、いいえ、『それ』は帰って行きました。



 7

 私は次の日、管理人さんに頼んで、インターホンの防犯カメラの録画映像をチェックさせて貰いました。

 するとそこには、誰も写っていなかったのです。



 8

 伊吹冷泉さんにその話をしたのは、かくみ小路(こうじ)の『BAR骨休み』である。

 他に客はなく、カウンターに座っているのは私と伊吹さんだけだった。

 マスターは、こんな話になれているのか、眉一つ動かさないで、黙々とアイスピックで氷を球形に削っている。

「それは鬼ですねえ」

 伊吹さんはジントニックを飲みながら言った。

 伊吹さんは腰まで黒髪を伸ばした、美しい青年である。その顔は驚くほど白く、その唇は驚くほどに赤い。

 上下とも高級そうな白いスーツを着て、青いネクタイを締めている。

 傍らには、白いソフト帽を置いていた。

「やはり鬼ですか」

 と、私は答えた。

「鬼は、『想い』から生まれるものであり、『言葉』によって形を得るものなのです」

「はあ」

「『言葉』に縛られる存在である、と言ってもいいでしょう。お経、祝詞(のりと)、呪文に従うのもそのせいなのです」

 良くわからない説明だが、私は頷く。

「鬼は『言葉』に縛られる存在であるからこそ、約束を必ず守り、守ることを強いる存在なのです」

「つまり?」

「あなたは、その鬼と約束してしまった。鬼は必ず、日曜日にやって来るでしょう」

 私は、恐る恐る尋ねた。

「退治して頂けますか?」

「もちろんですとも」

 伊吹さんは、にっこりと笑って言う。

「それが僕の、仕事なのですから」



 9

 日曜日は、台風だった。

 外は凄い雨と風である。 

 私と妻、伊吹さんはリビングにいた。

 伊吹さんは、日本刀を傍らに持っている。

「こんな台風なのに、鬼はやって来ますでしょうか?」

 そう尋ねると伊吹さんは、

「鬼には、天候など関係ないのですよ」

 と答えた。

 健太がリビングにやって来た。

 そして、とんでもないことを言う。

「パパ、川遊びに行こうよ」

 何だって!

「台風が来ているんだよ。危なくて、川遊びなんてできないよ」

「いやだよ。約束したじゃないか。行こうよ」

 そう言って健太は泣き出すのだった。

 妻が慰めながら、健太を子供部屋に連れて行く。

 伊吹さんは言った。

「鬼に魅入られているのです。気にしないことですね」

 鬼に魅入られている。

 私は、ぞくりとした。

 そうして、インターホンが鳴らされる時がやってきた。

 健太の友達、いや鬼が来たに違いない。

 私はインターホン越しに会話する。

「どちら様ですか?」

「健太の友達だよ。今日こそ、川遊びに行こうよ」

「だめだ」

「だって、お医者様は『治った』と言っただろう?」

 確かに、その通りなのだ。

 しかし、

「台風が来ているからだめだ」

 と私は言う。

「どうしてだめなんだ?」

 伊吹さんが、指でOKのサインを出した。

「上がって来なさい」

 私はオートロックを開ける。

 しばらくして、チャイムが鳴った。

 私は今度は、ドア越しに会話する。

「さあ、川遊びに行こうよ」

「こんな台風の時に、川遊びなんてできるはずがない。帰りなさい」

「約束は、守らなきゃだめだ」

「だめと言ったら、だめだ」

「約束したのに!」

 ドンドンドン。

 その子供は、ドアを叩いた。

 冷泉さんが小声で囁く。

「まだドアを開けてはいけません。鬼を、限界まで焦らすのです」

 私は頷く。

 ドンドンドンドン。

 大きな音が鳴り響いた。

 伊吹さんは、首を振る。

 まだだ。

 まだ開けてはいけない。

 ドンドンドンドン。

 その時だ。

 ガシャン!

 ガラスが割れる音がした。

「しまった!」

 伊吹さんが叫ぶ。

 私と伊吹さんは、健太の部屋に駆け付けた。

 すると、窓が開け放たれ、部屋の中には、大きな木の枝が転がっていた。

 健太の姿はない。

「健太君が拐われました! 急ぎましょう! さあ!」

 私と伊吹さんは台風の中、家を飛び出した。



 10

 伊吹さんは、青いローバーミニを運転している。

 助手席の私は尋ねた。

「鬼が、枝で窓を割って、侵入して来たのですか?」

「いいえ、順番が違います。枝で窓が割れたから、鬼が侵入して来たのです」

 私は続けて尋ねる。

「どこへ向かっているのですか?」

「もちろん岩木川の河川敷ですよ」

「でも、岩木川と言っても広いでしょう?」

「十数年前、岩木川で溺れ死んだ少年がいました。その場所に向かっているのです」

 アクセルを踏み、シフトレバーを素早く操作しながら伊吹さんは言う。

「今回は、ちとばかり時間がありません。二手に分かれて、健太君を探しましょう」



 11

 私は雨の中、健太の名を叫びながら走る。

 だが、雨音と風音、川の濁流の音に飲まれて、どこまで届いているのか分からない。

 川を見るとその水嵩は増し、流れは驚くほどに速く、川の所々にある岩に当たっては、白いしぶきを吹き上げていた。

 岸の岩場を走り、川下へと向かう。

 そこには小さな人影があった。

「健太!」

 肩をつかんで振り向かせると、それは健太ではなかった。

 歳も背格好も同じくらいだが、良く日焼けした真っ黒な子供だった。

 こんな台風の日に、こんな所にいるなんて……

「き、君、子供見なかったか。君と同じくらいの歳の」

「待ってたよ」

「待ってた?」

「おじさんも一緒に、川遊びするんでしょ?」

 あっ。

 するとこの子が、健太の友達、そして鬼なのだ。

  恐怖で逃げ出そうとする私を、子供とは思えぬ強い力ががっしりとつかんだ。

 じりっじりっと川岸から、暴れる奔流の上へと、私の身体が引きずられて行く。

「待ってたよ。さあ、泳ごう」

 足から落ちた私の身体は、水の圧倒的な力によって、容易く流されていく。

 引きずられ飲み込まれる中で、私は水を飲み、叫び、意味もなく手を振り回す。

 伊吹さん!

 伊吹さん、助けて下さい!

 その時、私のもがく手をしっかりとつかむ、もう一つの小さな手があった。

 その手の持ち主は私の身体にしがみついて、こう言った。

 それが濁流の中で意識を失う前に聞いた、最後の言葉だった。

「パパ、約束は守らなきゃだめだよ」



 12

 目が覚めると、私は車の後部座席に寝かされていた。

「気が付きましたか」

 伊吹さんは、ほっとした声で言う。

「今回ばかりは、ちと危なかったですねえ」

 私もぐっしょり濡れていたが、伊吹さんも同様だった。

「け、健太は!」

「無事ですよ」

 見ると、助手席には健太が寝かされていた。

「じゃ、じゃあ」

「ええ、鬼には成仏して頂きました。もう健太君の目の前に現れることはありません」

 うふふふ、と伊吹さんは笑った。

「これで健太君は前の、ゲーム好きのインドアな少年に戻ってしまいますねえ」



 13

 家に帰る車内の中で、健太の意識も戻った。

 健太に、鬼の友達のことを尋ねると、

「そんな友達いたっけ?」

 と答える。

「それよりも、パパ」

 健太は言う。

「来週は、浅虫水族館に連れてってよ」

 私は返事が出来なかった。

 子供との約束は、もう懲り懲りだったからだ。

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